隻眼の残像02


 携帯電話禁止エリアの外で安室との通話を終えたコナンは後ろを振り返った。誰かがこちらへ近づいて来る気配を感じ取ったからだ。国立天文台の関係者かと予測していたが、現れたのは本来なら子供たちに付き添っているはずの名前であった。半ば強引な手を使って身代わりとしたことに多少の負い目はありつつも、予定よりも随分とゆっくりな到着に呆れた表情を浮かべる。

「よぉ」

 対する名前は申し訳なさの欠片もない様子で軽い挨拶を投げかけた。

「もう、名前さん代行者失格だよ」
「長野に行くとは言ったが、子守を頼まなかったのはお前だろ」
「それって屁理屈じゃない? どうせ長野に着いたら雪景色が綺麗で走りたくなっちゃったんでしょ。名前さん、意外とロマンチストだもんね」
「お前までそれを言うのか……」

 眉を顰めて苦い顔を浮かべる名前がレーザー棟へと歩き出すのに合わせてコナンもその隣に並んだ。そしてちらりと青年を見上げる。
 ロマンチスト云々の話を広げるつもりはなく、今回の事件について情報を共有しておいたほうがいいのかどうか迷ったのだ。事件が起きたのは東京であったが、真相を探るために長野までやってきた。ここで事件解決に必要な情報だけが揃えばいいのだが、犯人も長野まで来ているのかもしれない。むしろ犯人は十ヶ月前に長野県の未宝岳で起こった雪崩事件について探っていた鮫谷警部を排除するためだけに東京へ行った可能性も充分に考えられる。
 それに加えて────とコナンは意識を上着の襟に付けられた盗聴器へと向けた。仕掛けた人物が山梨県警の警部補だということは分かったが、その意図まではまだ解明できていない。つまり蘭や子供たちと一緒にいることで危害が及んでしまうかもしれなかった。もちろん、それは何としてでも避けるつもりだ。しかし自分の与り知らぬところでは何が起こるか分からない。
 僅かに視線を落とし神妙な面持ちとなったコナンの雰囲気に名前は前を向いたまま口を開いた。

「何か言いたそうだな。面倒事じゃなけりゃ聞いてやるけど?」

 いつもならば巻き込むなと牽制の言葉の一つや二つ吐き捨てているはずだ。それをしないのは、やはり子供たちを気にしてのことだろう。

「……実は、ぁ」

 続きが出かかったところでコナンは口を閉じた。
 確かに名前が頼りになる存在であるのは事実だ。何かあった時は自分の代わりに皆を頼むと伝えれば、その約束を果たしてくれるという信頼がある。一方で子供たちのために無茶をし過ぎてしまうのもよく知っていた。正義感というよりはどこか義務のように感じている節があることも。とくに灰原哀に危険が迫れば猶更顕著だ。

「ううん。やっぱりなんでもない」

 コナンは何も伝えないことを選んだ。余計な心配をかけずに済むのならそれに越したことはない。盗聴器で会話を盗み聞きしている相手にこちらの手札を晒すのも賢明ではない。だから今はまだ明かさず、時が来たら助力を求めよう。文句を言いながらも必ず手を貸してくれるはずだ。
 そういう意図を込めた含みのある笑顔を向けると、うんざりとしたような表情を返された。


 レーザー棟の前でコナンはまだ戻ってこないのかと気になった歩美は後ろを振り返ってみる。すると、小さな人影の隣を歩く背の高い青年の姿に「あー!」と大きな声をあげた。その声に釣られて全員が足を止めて来た道へ顔を向ける。そして悪びれもしない素振りでやってきた名前に、蘭と阿笠は困ったように笑い、哀は呆れた視線を投げた。

「名前お兄さんやっときた!」
「おせーぞ!」
「はいはい、悪かった悪かった」
「全然反省してるように見えませんけど!」

 その態度に歩美、元太、光彦が怒ってますと言わんばかりの表情を見せるが、大した効果はなく雑にあしらわれてしまう。それでも子供たちはそんな扱いにもすっかり慣れていて、めげずに文句を続けた。しかし一度話題を天文台の見学はどうだったかと逸らされてしまえば、すぐに怒りは消え失せて学んだばかりの知識を披露し始める。
 そうして子供たちの相手を適当にしていた名前の元に、施設内の準備と確認を終えた越智がやってきた。

「君が苗字くんだね。阿笠先輩から事情は聞いているよ。東京からバイクで来るなんて大変だったね」

 人の良さそうな笑顔を受け、さすがの名前も申し訳なさが募り軽く頭を下げる。

「遅れてすんません」
「気にしないで。どうぞ、楽しんでいってください。皆さんもお待たせしました。こちらです」

 そう言って建物の中へと入っていく越智の後に続くように足取りの軽い子供たちが名前の手を引いてついて行く。彼らなりの個人行動禁止という可愛い訴えだ。
 仕方なくされるがまま歩き続ける名前だったが、ふと、哀の姿が見当たらないことに気付いた。周囲を確認するとコナンの姿もない。慣れた展開に勝手な行動を控えた方がいいのは何も自分だけではないだろうと小さく息を吐いた。そして、いつの間にかこちらの握っている力の方が強くなっていた手を離してみる。子供たちはすでに未知の施設に夢中で、通路の壁に書かれた何の変哲もない文字にさえ興味津々だ。離れていく温もりには気付かない。
 阿笠や蘭に小声で二人を連れてくる旨を伝えた名前は来た道を戻る。

「────ちょっと、外さないの?」
「うん。だって…………」
「だって、何?」

 少し進めば二人の話し声が聞こえてきたため、曲がり角の手前で足を止めた。

「だって、盗聴器の受信範囲にいつも公安刑事さんがいてくれるなんて心強いもん」

 無邪気な子供のような声音で恐ろしいことを口するコナンに、やはり気付いていたのかと納得する。携帯電話禁止エリアの外で声を掛けた時からずっと子供らしい口調のままだった。周りに他の誰もいないのに素を出さずに演じていたのだ。名前は壁に寄りかかり、そりゃそうだ、と声に出さず呟いた。自分が気付いていて工藤新一が勘付いていないわけがないのだと笑みを浮かべる。

「ね、風見さん」

 おまけに誰が盗聴しているのかまでお見通しときた。推理の材料がどれほどのものかは知れないが、探偵と自負する頭脳であれば僅かなヒントで導けたに違いない。今頃、車の中では盗聴器越しに話しかけてきたコナンに対して風見が困惑の表情を浮かべていることだろう。苦労することになるとも知らずに迂闊に手を出すからこうなる、と名前は思わず声を上げて笑った。

「貴方も気付いていたのね」
「まぁな」
「相手が風見さんってことも?」

 口元に手を添えて肩を揺らす名前の元に哀とコナンが歩み寄る。その表情は、遅れて到着したのにどうして知っているんだと不思議そうであった。

「ついさっき、偶然会ってな」

 答えながら先に進んだ一行を追いかけるように歩き出す。後ろをついてくる二人の抱いている疑問に答えてもよかったが、盗聴器を仕掛けた男に問い詰めたなどと言ってしまえば説教されかねない。危機感がない、凶悪犯だったらどうするんだ、もっと慎重に行動しろ、と有難い言葉を浴びせられるだろう。もしそう説教するのがコナンであったなら、そっくりそのまま同じ言葉を返すところまでは想像ができた。
 一方で哀は、盗聴器を傍受している公安刑事が風見であることを何故名前が知っているのか、という疑問を早々と捨てた。二人の関係性と青年の勘の良さを知っていれば納得もできてしまう。
 ところが二人の背景を知らず、細かいことまで気になってしまう小さな探偵はそうではなかった。コナンは目の前を歩く青年の背中を見上げる。

「ねぇ、前々から気になってたんだけどさ……名前さんと風見さんってどういう関係なの?」

 その質問に指先がぴくりと動き、名前は誤魔化すようにジャケットのポケットに手を入れた。

「脈絡のない質問はよせ」
「警察嫌いの名前さんが直接会いに行くほどの相手なんでしょ」
「言っておくが、お前の期待しているような関係じゃねーぞ。協力者なんて俺はならない」
「もちろんそれは解ってるけどさ、そうじゃなくて……」

 質問の意図を理解したうえで、あえて核心を避けているのだとコナンには分かっていた。本当に触れられたくない話題ならば沈黙を返すことも。だから今度は、もう少しだけ情報が引き出せるように言葉を選んだ。

「名前さんが佐藤刑事と同じくらい信頼を置いてる相手なら、ボクも信頼できると思うんだ」

 そして狙い通り名前は立ち止まった。振り返り、コナンを見下ろすように僅かに上体を前へと傾ける。

「そんなに知りたいか?」
「うん!」

 子供らしい満面の笑みを向けられ諦めに似た溜め息を吐いた名前は、その場に屈んで内緒話をするようにコナンの耳元に顔を近づけた。しかしこれは探求心の塊である探偵に聞かせるためではない。答えを得れると期待しているところ悪いが、思わぬ火の粉が降りかかることになる相手を想像してフッと笑みを零した。

「気になるんなら、盗み聞きしてる公安刑事さんに教えてもらいな」

 囁くような声でもこれだけ距離が近ければ充分に聞こえているはずだ。焦っているか、怒っているか、いずれにせよ慌てふためく様子が容易に目に浮かぶ。顔を離すと何か言いたそうなコナンと目が合った。それを無視して立ち上がり、口元に人差し指を添えて意地の悪い笑みを浮かべる。

「俺からはちょっと言えないな」

 そう言って不満そうにジト目で見上げてくるコナンに背を向けて歩き出した。
 結果として面倒事を押し付ける形にはなってしまうが、堅物な恋人の口がとても頑固なことを名前はよく知っている。残念だが名探偵には自力で辿り着いてもらうしかない。それにこれはちょっとした意趣返しでもあった。あの場で佐藤を引き合いに出すのは卑怯だと感じたせいだ。そんな手札を使わずとも、根気よく訊ねられてしまえば面倒になってそのうち答えただろう。
 名前はちらりと後ろを歩くコナンに視線を向けた。なぜなら、彼がすでに風見を信頼に足る相手だと判断していると知っているからだ。


 棟の屋上に設置された射出装置からレーザー光が発射され、夕闇の空に人工的な星が描かれる。その様子はプラネタリウムの半球状スクリーンにも映し出されており、初めて見る光景に子供たちは感嘆の声を上げた。また一本、レーザー光が増えれば今度は驚きと興奮の混じった声が静かな室内に広がる。
 阿笠や子供たちと同様に広いシートに寝転がりスクリーンを見上げる名前は、もう少し暗ければもっと鮮明に見えるのだろうかとぼんやり考えていた。薄暗くも優しい明るさに包まれたプラネタリウムと柔らかなシートが、早朝から活動している身体に微睡みを誘う。夜のほうが綺麗だったかもしれないと思う一方で、今よりも遅い時間の見学でなくてよかったと安堵する。遅れてきた上に見学中に寝るなど失礼極まりないという常識はさすがに持っていた。

 その後、レーザー棟の説明や見学を終えた一行は天体観測のために未宝岳のキャンプ場へと向かうことになった。
 越智の運転するワゴン車の後ろを名前はバイクでついて行く。舗装はされているものの、やはり山道とあって路面の状態は安定していない。小さな石ころが散らばっていたり、道路に僅かなへこみがあったり、これまで乗っていたバイクであればその感触が体にまで伝わってきただろう。しかし長野まで連れてきた新車は広告の謳い文句通り、オフロードに強く荒れた道でも力強く走ってくれた。
 すっかり眠気も覚めて機嫌良くオフロードの乗り心地を楽しんでいると、前を走るワゴン車がとある施設の前で停車した。それに合わせて名前もゆっくりとブレーキをかけて止まる。山梨刑務所と書かれた正門の前には毛利小五郎を始め警視庁の佐藤と高木に、おそらくは群馬県警の刑事たち、そして駅で言いがかりをつけてしまった山梨県警の林がいた。
 こんなところで会うなんて偶然だと暢気に思う程、名前も馬鹿ではない。ワゴン車から意気揚々と降りていくコナンの姿に、やっぱりな、とヘルメット越しに呆れた視線を送った。いつのもトイレ作戦を使ったに違いない。おそらくここからが、長野にやってきた本当の目的──事件の捜査に加わるためなのだろうと察した。

「貴方は……もしかして、名前くん?」

 ワゴン車の影から様子を伺っていた名前に気付いたのは佐藤であった。乗っているバイクに見覚えがなかったために少し迷いがでてしまったようだ。答えるようにヘルメットのシールドを上げれば、驚きとも呆れともとれる表情をされてしまう。

「まさかバイクでここまで来たなんて言わないわよね」
「さすが佐藤さん。見抜くのが早い」
「感心しないの」

 思わずと言った様子で額に手を当て溜め息を吐く佐藤の隣で高木が苦笑いを浮かべる。

「せっかく買った新車を都内だけで走らせるなんて勿体ないでしょ。悪路に強いって性能も試したかったし」
「そっちが本音ってわけね。まったく……雪道は無理して走らないこと、いいわね」

 違反をしているわけではないためここでバイクを取り上げるわけにもいかない。かと言って乗車を控えるように伝えても効果はない。佐藤はそう判断して危険走行はしないようにとだけ注意を促した。普段から一人で地方まで行くくらい走り慣れていると知っているけれど、心配なものは心配なのだ。

「了解。佐藤さんたちも捜査気をつけて」

 名前もまた、そんな佐藤の懸念を鬱陶しがることはなかった。
 それから移動の準備が出来たのかワゴン車のドアが閉まる音を合図に、佐藤たちと軽く別れの挨拶を交わしてヘルメットのシールドを下げた。

「佐藤さん、なんだかお母さんみたいですね」
「ちょっと高木くん。そこはお姉さん、でしょ?」
「す、すみません!」

 走り出すワゴン車の後を追うようにアクセルグリップを捻ろうとしたところで、去っていく二人の会話が耳に届く。その内容に心の中で、俺もそう思う、と高木に同調した。もちろん訂正を要求されていた通り、母というよりは姉のように慕っているのだけれど気持ちは分からなくもない。記憶の中の母親はいつも優しくて、厳しく叱りはしなかった。もし生きていたら、やんちゃな息子に対して佐藤のように心配したり窘めたりするのだろうか。それを知ることができないからこそ、彼女のような存在がいてくれることは気恥ずかしくも嬉しいのだ。
 フルフェイスのヘルメットの下で短く笑った名前は、先を行くワゴン車に遅れないよう走り出した。



 未宝岳のキャンプ場では天体観測に先立ちバーベキューを行っていた。これも越智が用意してくれていたものだ。食材は肉や野菜の他にも、信州の郷土料理であるおやきが用意されていた。冬の星空の下でも焼き立ての美味しい料理の前では寒さも忘れるのか、蘭や子供たちは笑顔で舌鼓を打っている。
 コンロの前に立っていた名前は焼けた肉と野菜が焦げてしまう前に空いた皿に盛りつけてからアウトドアチェアに座った。暫しの休憩だ。背もたれに深く身体を預け、輝く星の散らばる夜空を見上げて白い息を吐く。煙を近くで浴びたせいか、髪や衣服にはほんのりと炭の香りが纏っていた。ある程度腹も満たされ、山の静けさと火の温もりのおかげで再び眠気が襲ってくる。そう自覚すると途端に欠伸がやってきて片手で口元を覆った。

「名前さん眠そうですね」
「朝早かったからな」

 同じようにアウトドアチェアに腰を下ろした蘭は山荘のすぐ傍に停まっているバイクに目を向けた。

「そっか。バイクで長野まで来たんですもんね。中で少し眠ってきたらどうですか。子供たちは私や博士が見てますから」
「悪いけどそうさせてもらう。片付けの時に起こしてくれ」
「いいですよ片付けくらい。ゆっくり休んでください」

 蘭からの気遣いを有難く受け取って名前は立ち上がった。まだまだ食べることに夢中になっている子供たちや、トングを片手にコンロの前を陣取る阿笠にちらりと視線を向ける。キャンプ慣れしている彼らであれば放っておいても問題はないだろう。最後にこちらに背を向けて電話をしている哀を一瞥し、再び欠伸をしながら山荘へと入っていった。
 街の喧噪から離れたキャンプ場を、火の揺らめく音と子供たちの笑い声が包んでいる。
 それから暫くして、コナンとの電話を終えた哀が賑やかな輪の中に戻ってきた。
 手にしていたおやきは通話しながら食べきってしまい、次は何を頂こうかと物色し始める。すると先程までいた青年がどこにもいないことに哀は気付いた。最後に目にしたのはアウトドアチェアで休憩している姿だと記憶しているため、何か知っていそうな蘭の元へ歩み寄る。

「彼、どうしたの」
「眠くなっちゃったみたいだから休んでもらうことにしたの。あ、はいこれ、哀ちゃんの分ね」

 蘭は冷めないよう火元の近くのテーブルに置いておいた紙皿を哀に手渡した。紙皿の上には綺麗な焼き目のついた野菜類と、こんがりと香ばしい肉が盛り付けてある。どちらもそれほど多くなく、少なすぎることもなく、ちょうど欲していた適切な量だ。

「名前さんが焼いておいてくれたよ」
「ありがとう」

 紙皿を受け取った哀は無人となったアウトドアチェアに座った。よく火の通ったパプリカをさっそく頂きながら、コナンから聞かされた事件の背景にある司法取引制度の改正について考える。改正案が通れば日本でも証人保護プログラムも始まるからだ。
 以前、組織のベルモットに正体がバレて殺されそうになったことがある。その時にFBI捜査官のジョディから証人保護プログラムを受けてほしいと勧められたのだ。そして哀は逃げたくないからとそれを断った。その決断を今でも後悔はしていない。けれどもしまた組織の人間に正体が明るみなってしまった時、また選択を迫られるかもしれない。そういう不安がないわけではなかった。
 名前がいれば少しだけ相談でもしようと思っていたのだが、寝てしまっているのならば仕方がない。自分にとってはもう過去のことであり、起こるかも分からない未来のことであり、寝た子を起こしてまでする話でもないのだと哀は自分に言い聞かせた。


 用意された食材もなくなり、雪が舞い始めたのを合図に一行はバーベキューの後片付けに取り掛かった。日頃からよくキャンプをしているおかげで手間取ることもない。子供たちも積極的に手伝いをしたため、すぐにキャンプ場は綺麗になった。そして本格的に雪が降ってくる前にと、冷え込み始めた空気に押されるようにして山荘へと引き上げる。
 談話室は薪ストーブが焚かれており暖かく、室内に置かれたソファでは名前が静かに寝息を立てていた。だが、そんなことはお構いなしに子供たちは窓際へと走り寄ると曇ったガラス窓を手で拭って雲に覆われた空を見上げる。バーベキューの最中には見えていた星の光も雲の下までは届かない。
 歩美は困ったように眉尻を下げて部屋に入ってくる阿笠たちへ振り向いた。

「天体観測できるのかなー?」
「雪が降りやむのを待つしかないのぉ」
「天気予報は……ダメね、ここ圏外だったわ」

 スマホで今後の予報を調べようとした哀だったが、山の中ということもあり電波は届いていなかった。

「雲の隙間からならまだ見えるかもしれませんよ」
「じゃあ外行って確かめてみようぜ!」
「あ、待ってください元太くん!」
「二人とも遠くへ行っちゃだめよ」
「はーい!」

 蘭の忠告に元気よく返事をした光彦と元太はドタバタと外へ行ってしまう。小学生男児の疲れ知らずさに肩を竦めながら口元を緩めた哀は、冷えた体を温めるために薪ストーブの近くに歩み寄った。そのついでに、ソファの肘掛に頬杖をついて頭を支えている名前へとちらりと視線を向ける。余程深い眠りについているのか、子供たちの賑やかさを前にしてもまだ目を覚ましてはいないようだ。
 それから越智が迎えに来るまではまったりとした時間が流れるかと思われた。だが突然、破裂音が空を裂くように鳴り響き静まり返った山に反響したのだ。
 外に出ている二人が気になりエントランスのほうへ向かうと、光彦たちもまた音が気になったのかドアを開けて不安な顔を覗かせる。もしかしたら銃声ではないかと危惧している表情だった。

「どこかで狩りをしているのかな」
「この時間にそれはないと思うわ」

 歩美の疑問を哀はすぐに否定した。猟銃での狩猟には禁止されている時間帯が存在するからだ。それは都道府県を問わず日没後から日の出前と定められている。猟銃免許を持っている者であれば知っていなければならないことだ。
 そこで再び乾いた破裂音が山中に響く。今度はドアが開いていたため、音はより一層鮮明に響き渡った。銃声であることは間違いなさそうだ。

「きっと誰かが決まりを破って動物を撃っているんですよ!」
「文句言ってやろうぜ!」

 湧き上がる正義感に流されるまま、制止の声がかかるよりも前に光彦と元太は走り出してしまった。慌てて後を追おうとする阿笠だったが、それよりも先に蘭が外へ駆けてゆく。
 雪の降る暗闇へと消えていく姿を見送ることしかできない哀は眉を寄せた。今、コナンが追っている事件の詳細については知っている。だから聞こえた銃声が狩猟のためのものではなく人に向けられた凶器であるとすぐに察することができた。けれど、光彦たちを追った蘭はそれを知らない。あまりにも危険だ。なんとかして伝えなければ、と室内でまだ寝ている青年を起こそうと足を一歩引いた。
 その時、すぐ傍を誰かが走り抜けていった。


 山道は暗く雪も舞っているため視界はあまり良くない。何度も反響する銃声と子供たちの残していった足跡を頼りに前へと進む。耳に届くその音が、今朝、日比谷公園で聞いたものによく似ているような気がして胸がざわついてしまう。父の元同僚である鮫谷警部を撃った犯人がここにいるのではないか、と。その不安が焦りを生み、積もった雪に足を取られそうなる。

「毛利!」

 名を呼ばれると同時に腕を掴まれて立ち止まる。振り返ると、そこには山荘で寝ていたはずの名前の姿があった。

「名前さん!?」
「この銃声は猟銃じゃない。おそらく江戸川が追ってる事件の犯人だ。お前は戻れ」

 やはりそうなのかと眉を寄せそうになったが蘭はすぐにハッとしたように顔を上げた。

「なら光彦くんたちを止めなきゃ……!」

 手を離せばすぐにでも走り出してしまいそうな蘭の腕を掴んだまま名前はこれから起こりうる最悪の状況を考える。子供たちを人質に取られた場合を。いや、そんな甘いことはせず子供にも容赦なく銃口を向ける犯人の姿を。その状況から光彦と元太、二人を助けなければならない。犯人の注意を引くことは可能だ。問題はその間に子供たちを誰が守るのか。特別な訓練も武器も持っていない生身の状態で、かつ一人では厳しいだろう。
 制圧するにせよ、逃げるにせよ、一人よりも二人のほうが最悪の事態に陥った際の突破力は確かにある。その上で蘭の空手の腕は充分に知っている名前はゆっくりと手を離した。

「万が一のことがあれば俺が前に出る。隙を作るから、頼んだぞ」
「わかりました」
「いいか、無茶だけはするな。お前に何かあったら俺が工藤に怒られる」
「ぁ、はい!」

 焦燥感を滲ませる蘭の気持ちを一度落ち着かせようと揶揄い混じりに念を押せば、ようやく表情に余裕が戻る。そこに銃声とは違う爆発音が響き、二人は顔を合わせるとひとつ頷いて走り出した。
 暗い雪道を進むにつれて、やがて遠くに揺らめく灯りが見えてきた。それは人工的なライトではなく燃え盛る炎だ。炎上している物が何かを探るよりも先にその傍らに立つ人影を見つけた。フードを被った人影がライフルほどの大きな銃を持ち、地面に座り込む小さな人影────光彦と元太へに向けている。この状況をどう切り抜けるのが正解か。それを考える事もなく名前は躊躇いもせずに子供たちと銃口の間に立ち塞がった。

「名前さん!」

 驚きと安堵に染まる光彦の声を背中で受け止めながら名前の視線は銃を構えるフードの人物から離れない。

「あんた、ガキに何するつもりだ」

 冷たく鋭い目つきと地を這うような恫喝的な声。何よりその言葉にフードの人物が僅かな動揺を見せた。
 名前はその隙を見逃さず、地面に積もった雪を蹴り上げた。煙幕の代わりとなり視界が一瞬かき消されると、即座に光彦たちを守るように覆い被さる。それを合図として背後では燃え盛る炎を飛び越えたる人影が現れ、フードの人物に跳び蹴りを食らわせた。もう一人の強力な助っ人の登場に元太がその名前を呼んだ。

「蘭お姉ちゃん!」

 安定した体感で着地した蘭は、相手に銃を構える隙を与えないよう素早い動きで鉤突きや回し蹴りを繰り出していく。横目でフードの人物の注意が逸らされているのを確認しながら、名前は光彦たちを立たせると山荘へと続く暗い道のほうへと背中を押した。

「お前らは戻れ」
「でもっ……」
「行け」

 そう言ってもう一度強く背中を押せば躊躇いながらも暗闇に向かって走り出す。だが、小さな背中を見送ってやれる時間は残念ながらない。蘭の正拳突きがフードの人物の顔面を打ったことで隠されていたフードの下が暴かれたからだ。露わになったのは黒く冷たいフルフェイスのヘルメット。さらにヘルメット越しとはいえ体が後ろへ軽く飛んでしまうほどの衝撃を受けていながら、大きく体勢を崩すことなく銃を構える身体能力の高さがある。足止めを彼女一人で行うのは厳しいと名前は即座に判断した。
 銃口を向けられた蘭が姿勢を低くして射線が定まらないように蛇行しながら接近する。同時に名前は意識をさらに分散させるため、わざと相手の視界に入るように走り出した。ヘルメットで相手の目線が視認できない以上、銃を構える腕や上半身の動きに注視しつつ加勢するタイミングを見計らう。
 充分に距離を縮めた蘭は勢いを殺さずに前転をすると、ライフルカバーに覆われた銃の銃床を狙って踵で蹴りつけた。

「えっ?」

 ところがそこに銃床の硬い感触はなく、鋭く蹴り上げられた足は空を切る。あるはずのものがない。僅かな驚きと疑問が動揺を生んでしまい、体勢を崩して雪面に転がった蘭へと銃口が向けられていく。

「あんたの相手は俺だ」

 すかさず名前が飛び込んで銃を構える腕に蹴りを入れた。
 力強い一撃に体勢を大きく乱すことはできたものの、フードの人物は数歩だけ後退するとすぐに姿勢を整える。蘭に向けられていた銃口が躊躇うことなく名前へと移った。その動きに合わせて素早く間合いを詰めると両手で銃を掴み上げて射線から顔を逸らしながら引き寄せる。想像していた銃とは違う掴みにくい形に違和感を覚えながらも、相手の膝を蹴り上げて重心を崩した。これは松田が生きていた頃に教わった護身術の一つだ。
 このまま体勢や手首を捻り銃を奪えればよかったのだが、それはハンドガンやナイフでの場合である。カバーに覆われていて銃の形は不明なままだ。まずは凶器を奪うことよりも動きを封じなければならない。そこでもう片方の膝にも蹴りを入れて完全に地面へ膝を付かせようとした。
 次の瞬間。名前の鼓膜を激しく震わせる発砲音と頬や耳を掠める鋭い風に、一瞬、体を硬直させた。その隙を見逃さなかったフードの人物に体を押し退けられ、鳩尾に蹴りを喰らう。銃から手が放れてしまい再び銃口を向けられるが、その場を動くことはできない。背後にはまだ逃げる準備の整っていない蘭がいた。もう一度、彼女が逃げられる分だけの時間を稼げれば、と呼吸を浅くする。
 するとフードの人物のヘルメットに光が照らされた。炎の揺らめきしかない夜の暗さに、その光は相当眩しいかったのだろう。ヘルメットを被る顔が背けられる。警戒を怠ることのできない名前だったが、確認せずとも光の正体が腕時計型ライトであると察した。次いで幾度も焚かれるフラッシュにおそらくスマホで写真を撮っていると解る。さすがに分が悪いと見たのか構えていた銃を下ろし、フードの人物は走り去っていった。
 名前はすぐに後を追いかけるがここは慣れない山道。月も雲に隠れ、雪も強まる夜では、すぐに離されてしまい姿も見失う。元々深追いするつもりはないため周囲に注意を払いながら先程の場所まで戻ると、そこにはやはり逃がしたはずの光彦と元太がいた。蘭に抱きしめられている二人を何故あのまま逃げなかったのかと叱るのは簡単なこと。けれども無茶をしたのはここにいる全員だ。
 何より光彦と元太の機転がなければ名前も蘭もあのまま撃たれていたのだから。それにこの場で咎めずとも後でたっぷりと聡明な少女からお灸を据えられるはずだ。

「よく頑張ったな、二人とも」

 だからまずは褒めてやらないとな、と三人の元に歩み寄り雪面に膝をつくと震える肩に手を置いた。振り向いた光彦たちの表情は申し訳なさそうに眉尻が下がっている。酷い耳鳴りのせいで二人の声は聞き取れないけれど、おそらく戻って来たことを謝っているのだろう。名前は気にするなと言うように微笑んで、雪で濡れた二人の頭を少しだけ乱暴に、けれども感謝を込めて撫でた。