隻眼の残像03


 ────銃を持った怪しい人物に蘭や子供たちが遭遇した。
 未宝岳のキャンプ場にいる哀から受け取ったメールは、およそ天体観測とは程遠い内容であった。
 メールの直前には警察無線による緊急信号の受信も確認されており、そちらの信号も未宝岳からの発信だった。発信者は長野県警の上原由衣。彼女は捜査会議の後、同じく長野県警の大和と共に未宝岳へと向かった。十ヶ月前に雪崩に巻き込まれ、事故の影響で忘れてしまった大和の記憶を呼び起こすために。けれど緊急信号を発信する程の何かが二人を襲ったのだ。コナンも現場へ行きたかったのだが小五郎に止められてしまい不本意ながら諦めようとした。いつものように駄々を捏ねないのは、今回の事件に小五郎が親しくしていた元同僚の死が関わっているからだ。
 しかし蘭が、探偵団の仲間が、危険な目に遭ったと知ってしまえばどんな方法を使ってでも向かわなければならない。コナンは自身を盗聴している風見の足を借りて未宝岳の山荘を目指した。


 冬の山中を走る車の中は静かだ。コナンは助手席に座り、小五郎に仕掛けてある盗聴器から聞こえる会話に耳を傾けている。どうやら緊急信号の発信場所である炭焼き小屋へ到着し、上原と大和、両名の無事を確認できたようだ。小さく安堵の息を漏らし、すぐにスマホを取り出して地図を開く。山荘から炭焼き小屋はそこまで距離はない。ハンドルを握る風見の話では、緊急信号を受信した直後から検問を始めていて、今現在で未宝岳にいる者も勝手に下山しないよう警察から指示が出ているとのことだった。
 合流後、一緒に下山するという展開にはまずならないということだ。であれば皆の安全を確認できた後に炭焼き小屋へ向かうのも可能だろう。そこまで考えてコナンはスマホをポケットに仕舞った。
 声を掛けるタイミングを見計らっていた風見は積もった雪にハンドルを取られないよう注意しながら口を開いた。

「君の友達に怪我はないんだな」
「うん。皆、無事だって」
「まさか子供にまで危害が及ぶとは……」

 苦虫を噛み潰したような横顔を見てコナンはメールの内容を思い出す。詳細は省かれていたが、銃を持った人物と遭遇したのが誰なのかはしっかりと書かれていた。戦力や状況を考えても、その名が当然のように挙げられていたのはやはりと言うべきだろう。

「名前さんもその場にいたみたいだよ」

 名を出せば僅かに風見の目が細められる。

「安心して。怪我はしてないようだから」
「……そうか」
「でも心配だね」
「無事なら、それでいい」

 感情を滲ませたその口振りは、ただの顔見知りでは収まらない関係なのだと自ら明かしているようなものだった。今ならば二人の関係について聞き出せるかもしれない。

「一つ聞いてもいい?」
「……事件に関わることで答えられる範囲でいいのなら」

 けれど、その思惑を察したのか風見のガードは硬かった。常に機密情報を扱っているだけあり動揺の色は一切見せない。さらに質問も限定的に応じるよう仕向けてくる。さすがは公安の刑事だと納得するも、簡単に引き下がるコナンではない。一度気になってしまえば探偵の性とは厄介なものなのだ。

「名前さんが風見さんに聞いてって言ってたよ」
「今回の事件には関係のないことだろう」
「子供のボクにも言えない、秘密にしなきゃいけない関係なんだ?」
「……君に答える必要はない」

 これが公安の抱える機密や別の事件に関わる話題であったなら、風見の頑なな姿勢は至極当然のことだろう。
 決して興味本位だけでコナンは訊ねているのではなかった。苗字名前という青年は佐藤や殉職した松田を慕っている一方で警察を毛嫌いしている。本人曰く高校入学を機にやんちゃをし過ぎたせいで何度も補導された経験があるから関わりたいくないのだそうだ。そのため事件に巻き込まれどうしようもない場合以外は滅多に自分から歩み寄ることはしない。
 その中でも安室透、いや、降谷零に対しては誰の目からも明らかな程に拒絶を示していた。今でこそ多少距離感は縮まっているが、たとえ国家の安全と秩序を守る公安警察だとしても信頼を寄せてはいない。それなのに何故、彼の部下である風見と個人的な付き合いがあるのか。コナンが把握している限りでの二人の接点は、組織が関わった東都水族館での件と渋谷での爆破事件のみ。どちらも交流を深める程のものではなかった。
 だからこそ不思議でならなかったのだ。

「安室さんは知ってるの?」

 ここで初めて風見が目に見える反応を露わにした。唇を引き締め、唾を飲んだ。緊張から生まれる動揺をコナンは見逃さない。

「知ってるんだね。名前さんは協力者ではないと言っていたし、ボクもそれはあり得ないと思う」

 名前は降谷が組織に潜入している公安警察ということを知っている。そして降谷もまた知られていることを認知している。ならば降谷と直接言葉を交わせる数少ない部下の風見も知らないはずはないのだ。もしかしたらそれが理由で、固く口を閉ざす必要のある関係になったのかもしれない。

「協力者でもない民間人がゼロに所属している捜査官の正体を知っている。それを公安が放っておくはずがない。だから、協力者とは違う形で名前さんを────」
「利用していると、君は言いたいのか?」

 風見がハンドルを強く握った。努めて冷静さを取り繕おうとしているが、声音には怒気が含まれている。

「それこそあり得ない話だ。君は渋谷での、プラーミャの件についてを言っているのだろう。爆発物解体の知識に精通している彼を我々が利用したと。確かに、降谷さんは彼を頼ろうとした。どれほど危険なことか承知の上で、それが最善だとあの人は判断したんだ。私は今でも後悔しているよ。なぜ一度でも、あの人の判断を受け入れてしまったのかを」

 その語り口は次第に自責の色を帯びていき、それに呼応するように車もゆっくりと停止する。ヘッドライトが消され周囲が闇に包まれると、木々の奥の少し離れた場所に山荘の灯りが見えた。

「私はただ、名前にどんな些細な危険にも関与してほしくないだけなんだ」

 外では雪が音もなく降り注ぎ、静寂に包まれた車内に小さな呟きがそっと溶けていった。
 メーターパネルの僅かな光に照らされてぼんやりと見える風見の横顔は、困ったように、仕方がないと諦めたように、けれども柔らかい微笑みが浮かべられている。名前の性格や抱えているものをよく知っていれば、それが難しい願いであると理解しているからだろう。
 一呼吸置いてハンドルから手を離した風見が助手席に座るコナンへと視線を向けた。そこにはもう憂いの影はなく一人の警察官としての顔があった。

「民間人が事件に関わるべきではないだろう? もちろん、君も例外ではない」
「……うん、そうだね」

 これ以上語ることはない。眼鏡の奥の瞳がそう訴えていると受け取ったコナンは車から降りると山荘へと向かった。関わるべきではないと言いつつ盗聴器を仕掛けている矛盾について触れなかったのは、充分過ぎる程の答えを貰ったお礼と意地悪な訊き方をしてしまったことへのお詫びだ。
 明確な真実が示されたわけではなかったが、導き出そうとしていた推測の一つが取り除かれようとしていた。


 山荘のエントランスにはワゴン車で迎えに来た越智を含めた全員が集まっていた。蘭たちが山中で遭遇した不審な人物による発砲事件の影響で下山はできず、山荘の宿泊予約も取っていないため身動きが取れずにいるのだ。車中泊という案も出たが、銃を所持した人物がどこにいるのか不明な状況下で子供たちを車で一晩過ごさせるのは不安であった。
 どうしたものかと困り果てている阿笠や越智の姿を二階へと続く階段に座って眺めていた名前は、ふいに感じた人の気配にエントランスのドアへと視線を移す。先の騒動が起こってから警戒心は高いままで、入り口のすぐ横にある階段にいるのも不意を狙える場所であるからだ。近付いて来る気配に軽く腰を浮かせる。ところがドアを開けて顔を覗かせたのはコナンであった。

「ねぇ、だったらこの近くの炭焼き小屋に行こうよ」

 小五郎たちもそこにいるはずだ、と続けたコナンの提案を蹴る者は誰もいなかった。それほどに現状では他に選択肢はなく、佐藤たち警察関係者もいるとなればそれだけで多少の懸念は拭われる。ひとまずの目途が立ったことで子供たちの表情も僅かに緩み、エントランスには安堵の空気が流れた。
 さっそく移動しようと越智が先頭となって外に停めてあるワゴン車へと乗り込んだ。それに続くように子供たちと阿笠、そして蘭も山荘を出る。後を追うようにコナンも寒空の下へ出ようとしたのだが、階段に座ったまま考え込むように軽く俯いている名前に気付いて声を掛けた。

「名前さん?」

 反応がない。不思議に思い今度は真正面に立ってからもう一度呼びかける。するとようやく名前が顔を上げた。

「ん? あー悪い、なんだ」
「近くに炭焼き小屋があるからそこに移動しようって……どうしたの?」

 気難しい表情をしながら少し前のめりになり、顔を横に向ける仕草にコナンは首を傾げた。まるで遠くの声を拾おうとしているように見えたからだ。先程も声に反応をしたというよりは、正面に立たれたことで自分に用向きがあると判断した様子であった。
 そこへまだエントランスに残っていた哀が歩み寄る。

「一時的な騒音性難聴よ。耳元で銃を発砲されたせいね」
「え、怪我人はいないんじゃなかったのかよ。名前さん、念のため病院で見てもらったほうがいいんじゃない?」
「平気だ。片方は聞こえる。それに下山はできないんだろ」
「方法がないわけでもないけど……」

 煮え切らないその返答に名前はやっぱりな、と内心で一人納得した。
 下山が許可されていないということは、関係者以外が山へ立ち入ることも許されない。タクシーも使えず、スケボーも持たず、検問を搔い潜って単身でこの山荘へ来るのは無理だろう。コナンは山梨刑務所から小五郎たちと共に長野県警へと向かい別行動を取っていた。もし佐藤や長野県警の刑事たちの手を借りて来たのであれば、安否を確認するために彼らが顔を出さないのもおかしい。
 警察の敷いた検問を問題なく抜けることができ、発砲事件の起こった山へ小学生が向かうことを不思議に思わず、目立たぬように行動をしなければならない。
 この条件をクリアできる人物は残念ながら一人しか思いつかなかった。きっと山荘の近くのどこかに風見が運転する車があるに違いない。コナンに手を貸したのは利害が一致したからだろう。断ったところで仕掛けた盗聴器の電波を受信できる範囲内にはいなければならないのだから。
 だから、ここで助けを乞うてはそれこそ捜査妨害になってしまう。

「……仕事の邪魔になりたくはないんでね。ほら、行くぞ」

 それに比べたら耳が聞こえ難いくらいどうでもいいことだと、名前は口元に笑みを浮かべながら外へと出ていった。その背中を目で追いかけるコナンの隣に哀が並ぶ。

「謎は解けたのかしら?」
「いや……」

 コナンは山荘へ向かう車中で交わした会話を思い出す。二人がどういう関係であるのかは、まだはっきりとした答えは出せていない。けれど、風見が名前を大切に想っている気持ちは言葉や態度から強く感じられた。それが一方的な想いではないことも、邪魔になりたくないと語った声を聞けば察せる。証明に必要な判断材料はこれだけで充分だった。

「けど、知るべきところには辿り着けたさ」

 二人は利用し利用されるような不誠実な間柄ではない。本音では探偵としては最後まで謎を解いてしまいたいけれど、今はその真実さえ見えていれば、それ以上を求める必要はなかった。



 到着した炭焼き小屋には持ち主である大友の他に、長野県警の大和と上原の姿しかなかった。緊急信号を辿って応援に来た小五郎たちは、長野と山梨の両県警の警察官と共に山狩りに向かったとのこと。
 見慣れぬ小屋にやってきたことでテンションの上がる子供たちの横を名前は素通りする。ワゴン車で移動してきた彼らとは違い、バイクに乗ってきた体はすっかりと冷え切ってしまっていた。薪ストーブを発見するや否や囲うように置かれたベンチに腰を下ろし、レザーグローブを外して手をストーブに近付ける。じんわり指先から熱が伝わってくるのを感じていると、目の前を慌ただしく誰かが横切った。
 確かめるように見れば、元太が何かを持っていて、それを上原が丁寧にハンカチで回収し、コナンが外へと飛び出していき、さらに上原がそれを追う。音がよく聞こえず何が何やらさっぱりであったが我関せずで暖を取り続けた。

「アンタらを襲ったのもフードを被っていて、ライフルカバーを付けた銃を持っていたんだな?」

 そこに大和が質問を投げかけた。犯人の手袋を噛んだとする元太の証言だけで、ある程度の事情は把握できたからだ。その確認のためにと一番近くに座っている名前に声を掛けたのだが返事はない。無視されているのかと思わず眉を寄せ、おい、と乱暴に声を上げそうになる。

「話しかけるなら反対側からのほうがいいわ。彼、今は聴覚が低下しているから」
「どういう……!?」

 それを押し留めたのは哀だった。子供たちの輪から外れて薪ストーブの傍へと寄るとベンチの端に腰を下ろす。大和は少女の言葉を受けて注意深く名前を見下ろした。今見えている側の耳輪には何かが掠めたような痕が残っており、滲んでいた血が乾燥して小さな傷口を覆っている。そこで、フードの人物から逃げている最中に一度だけ発砲音が山に響いたことを思い出した。あれは自分たちに向けられたものではなく、澄ました顔で暖を取る青年に対しての発砲だったのだ。
 元々厳つい顔つきを更に顰めた大和は静かに立ち上がると杖をついてベンチを迂回した。
 さすがにここまでくれば、まったく聞こえていないわけではない名前も自分が話しかけられていたのだと察して顔を上げる。そうして隣に座る大和を見届けると、再び視線を手元に戻した。

「巻き込んじまって悪かったな。あいつの狙いは俺だった」
「別にあんたが悪いわけじゃないだろ」

 愛想のない態度で返しながら名前は温まってきた指先を軽く握るように擦り合わせた。耳には大和の声の他に、賑やかそうな子供たちの話し声も届く。同じ小屋にいるのに、それがとても遠くに感じた。

「立ち向かったのはあいつらの意思だ。俺や毛利はそれを守るために必死だっただけ」

 銃を持った人物に立ち向かった光彦と元太は無謀ではあったが、勇敢でもあった。それは紛れもない事実だ。けれど、決して起こってはいけない事件だった。今でこそ恐怖も怯えも見せず楽しそうにしているが、実際に体験してしまった記憶は簡単には消せない。一生、脳裏の片隅に残るかもしれない。名前としては懸念しているのはそこだった。

「だから二度目は御免だね。さっさと逮捕してくれよ、お巡りさん」

 太ももに両肘を乗せて少し前のめりになっている体勢のまま隣に座る大和の顔を見上げる。少しばかりの批難と挑発を含んだその声音に鋭い瞳が返された。

「安心しな、これ以上カタギに迷惑をかけるつもりはねぇさ」
「言うだけなら誰にだってできる」
「アンタもなかなか肝が据わってるな。疑ってくれて構わねぇ。だが、奴は必ず俺が捕まえる」

 力強い隻眼と目が合い、自然と口角が上がる。そしてこれ以上言葉を交わす必要はないと視線を外したところでコナンたちが小屋に戻って来た。隣に座っていた大和が立ち上がる気配を感じながら、薪ストーブの中の燃える炎を眺める。
 名前は綺麗事ばかりを並べる警察は好きではないが、信念までもを嫌っているわけではない。大和の声音には裏も偽りもなく、駆け引きの気配さえもない。ただひたすらに真っ直ぐで、思わず目を背けてしまいたくなるほどに正義感に溢れている。それだけで信じてみてもいい理由にはなった。


 夜も更ける頃には炭焼き小屋の灯りは落とされ静まり返っていた。お世辞にも広いとは言えない小屋の中は、大半の者が身を寄せ合いながら眠りに落ちている。天文台の見学を楽しんだ一方で、殺伐とした事件に遭ってしまうという相反する出来事を一日で体験した。心身ともに疲労が蓄積しているのも当然で、多少の話し声が聞こえても目を覚ます気配はない。
 起きているのは、山狩りには参加していない大和と上原、そしてコナンのみだ。彼らは声を潜めながら情報の共有を行っていた。小屋の主である大友の左前腕と右腕の付け根にライフル銃を使用していると出来る痣があったこと。数年前に長野と山梨の県境で改造された銃が複数押収され、その銃はすでに保管期限が過ぎて処分されていること。二人を襲った犯人の使っていた銃が、光彦や元太たちが遭遇してしまった相手と同じくカバーを付けたライフル銃であったこと。
 小屋の中に置かれている銃型の音響装置を横目で見ながらコナンは思考を巡らせる。移動中のワゴン車で聞いた蘭たちの証言も合わせれば、犯人が使用しているのは一般的な形のライフル銃ではないことが判明した。少しでも具体的な造形が分かれば過去に押収した改造銃のデータと比較ができるのだが、カバーで隠された銃を見た者はいない。
 ────いや、待てよ。
 コナンは後ろを振り返った。蘭の話によれば名前は実際に銃を掴んでいる。FBIの赤井とも交流がある彼ならばライフル銃の形状もよく知っているはずだ。しかし小屋の中を見渡せども、その姿は見当たらない。

「どうしたの、コナンくん」
「名前さんが見当たらなくて」

 一瞬、誰のことだと口走りそうになった大和は、自分に向かって生意気なことを言ってのけた青年が子供たちからその名で呼ばれていたのを思い出した。

「あぁ、あのバイク乗りの兄ちゃんなら外へ行ったぞ」
「敢ちゃん止めなかったの!?」
「煙草咥えてたし、小屋からは離れてねぇだろうよ」
「だからって、銃を持った犯人はまだこの山にいるのよ」
「警官がうじゃうじゃいるってのに、自ら居場所を知らせるような馬鹿なマネする犯人じゃねぇだろ。それにあいつの狙いは俺だ」

 小声で言い争いを始めてしまった二人を余所にコナンはトレッキングシューズを履いて、ひょいと小上がりを降りた。

「ボクちょっと見てくるね」

 念のためにそう声をかけて小屋の外に出ると、途端に冷えた空気が小さな体を包んだ。見上げた空は相変わらず雲に覆われているが、絶え間なく降っていた雪は穏やかなものに変わっていた。
 ふと、仄かに甘い香りを感じ取ったコナンは誘われるように視線を動かした。小屋の脇には伐採された木が積まれており、側には薪を割る際に使用するであろう丸太が置かれている。名前はその薪割台を椅子代わりにしながら煙草を吸っていた。まだ鮮明には聴こえていないだろうからと、声をかけるよりも視界に入るように歩み寄る。その時、ほんの少しだけ、静寂に支配された空間を壊してはいけないと躊躇いが生まれた気がした。
 聴力が低下しているせいか、いつもより人の気配に鋭く反応した名前はすぐにコナンを視界に捉えた。

「話は終わったのか?」
「うん。名前さんは寝ないの?」
「中途半端に仮眠取ったせいで眼が冴えちまってな」

 応えながら煙草を口元に近付ける。唇で軽く咥えて深く吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。
 そこで無意識に名前の手元を目で追っていたコナンは違和感を覚えた。よく観察してみれば彼が愛用している銘柄ではない。そもそも最近は吸っている姿を見る機会も減っていたし、風に乗って鼻をくすぐる香りも煙草特有のものと違っている。先程よりも強く濃く感じるのは、優しいバニラの香りだ。
 煙草を変えたのかとコナンが質問するよりも先に、じっと見つめてくる視線に気付いた名前は短く声を漏らす。

「あぁ、これか? アロマだよ。煙草はやめろってしつこい人がいるもんで」
「まだ高校生なんだから当然でしょ。その人も名前さんを想って言ってくれてるんだよ」
「知ってる。だからこうして切り替えてんだろ」
「それでも吸うのは辞めないんだね」
「せっかくの貰いもんだし勿体ねぇからな。それに……」

 どうにも口寂しくて仕方がない。そう続きそうだった言葉を飲み込んで、再び口元に煙草の形を模したアロマスティックを寄せる。苦みのない味にはまだ慣れない。甘いフレーバーの香りと共に吐き出された真っ白な吐息が、雪と混ざって空気に溶けていった。

「それより、解決できそうなのか」
「今、風見さんに調べてもらってるとこ。公安ならすぐに情報を掴めると思うよ」

 さも当たり前のように公安の刑事を顎で使う容赦のなさに、名前は呆れたらいいのか笑えばいいのか複雑な気持ちになった。山荘に来るまでの足として使い、公安の権限で情報も探らせている。おそらく事件が解決するまでに、もう何度か調査の依頼をするだろう。これも最初にコナンを利用しようとした風見の自業自得ではある。同情はできない。しかし、それを考慮しても本当にいいように扱われている。
 捜査のためと解ってはいるが、あまり気分のいいものではなかった。
 
「お前さぁ……」
「うわっ、な、なに?」

 名前はアロマスティックを指で挟みながら頬杖をすると、空いた手でコナンの襟を掴んだ。盗聴器が付いている部分を音が届かないように握り込む。

「あんまり、あの人のこと困らせてやるなよな」

 そんなつもりはないと咄嗟に反論しようとしたコナンは、まるで纏っている香りのように甘く澄んだ瞳に口を閉ざした。

「それは俺の特権でもあるんだからさ」
「え……わっ!」

 誰を想い、誰に向けられた言葉なのか。それをコナンが理解する前に、襟を掴んでいた手が離れ今度はリボンのように巻かれたマフラーを引き寄せた。一気に距離が縮まり、ふわりと広がるバニラの甘い香りに意識が奪われる。そのせいで盗聴器の付いている襟元で小さく鳴ったリップ音には気付かなかった。
 名前は寄せていた体をゆっくりと離す。驚きと困惑で落ち着かない様子で目も合わせようとしないコナンに小さく笑い、少しだけ雪の積もった頭を雑に撫でた。

「さっさと寝ろよ、小学生」
「う、うん。おやすみ名前さん」

 ぎこちない笑顔を浮かべて去っていく背中を見送った名前は静かにアロマスティックを唇へ寄せた。

 これ以上動揺を悟られまいと逃げるようにして小屋の中へ戻ったコナンに、すっかり口論の収まった大和の険しい視線が向けられる。

「どうした、何かあったのか?」
「ううん、なんでもない。ボクもう寝るね」

 早口でそう言って空いたスペースに体を横たえる。大和と上原はまだ起きているようだったが、今は冷静に話せる状態ではなかった。
 コナンにとって名前は秘密を共有する友人であり、信頼できる仲間であり、気のいい兄貴のような存在だ。だから警察の、それも公安警察である風見と何かしらの関係を持っているのならば探る必要があった。公安のやり方は時に非合法だ。その過程で感情は蔑ろにされ傷付く人がいることを知っている。いや、知ってしまったからこそ、大切な仲間にはそうなって欲しくない。
 けれど、二人の関係は想像しているよりもずっと深いものなのではないだろうか。
 風見が名前に向けるのは、大人が子供を守ろうとする責任感と同じものだと思い込んでいた。名前にとって風見は頼ってもいいと思える数少ない大人の一人なのだと勝手に決めつけていた。その前提が間違っていたのだ。
 困ったような笑顔なら子供たちや蘭に見せる。優しい笑顔ならば哀にも見せる。呆れた笑みならコナンだって何度も向けられた。でも、そのどれとも違う。初めて見た。あれはそうだ。父の優作が有希子にだけ時折見せる、愛しい人を想う特別な眼差しと同じ。
 穏やかに舞う雪の中で見た名前の表情が香りと共に思い起こされ、ぎゅっと強く瞼を閉じた。頬が熱を持っているのは寒い空気に長く触れたせいだ。外と小屋の中の温度差に体が追い付いていないだけだ。そう言い訳を自分に言い聞かせていると、いつの間にかコナンは眠りに落ちていた。

 訊ねたいことがあって名前を探しに外へ出たのだと思い出したのは翌朝になってのことだった。