隻眼の残像04


 断続的に降り続いていた雪も翌朝にはすっかりと止んでいた。
 炭焼き小屋を出た名前は体をほぐすためにぐっと背伸びをする。座った体勢で一晩過ごしたため腰と首の関節が少しだけ痛んだが、動いていればそのうち良くなるだろう。気休めに首の後ろを擦りながら近くに停めていたバイクに歩み寄った。積もった雪を軽く払い、ウェザーシールドを外してから状態を確認し始める。
 他にも、小屋の近くには長野県警のバスが止まっており、昨晩山狩りを行っていた捜査員たちが乗っていた。バスの前では大和と上原、そして山狩りに参加していた諸伏が話し合っている。さすがにその声を拾うことはできなかったが、元気よく小屋を飛び出してきた子供たちの声は名前の耳にも届いた。怖い目にあったばかりだというのに、それを微塵も感じさせない無邪気さが、かえって羨ましく思える。
 とはいえ、光彦と元太、それから蘭は犯人の目撃者ということもあり県警で保護されることになっている。名前にもバスで移動するよう事前に伝えられていたが、バイクがあるからと断っていた。

「ちょっと」

 燃料の残量からバッテリーまで一通りの確認を終えたところで後ろから声が掛けられた。振り向けば哀が腕を組んで立っている。その背後ではバスに乗り込んでいく子供たちの姿が見えた。どうやら全員一緒に乗せてもらうことにしたようだ。何か問題が発生した場合の対処をするにも、別々にされるよりは一緒にいてくれたほうが楽なのでありがたい。
 そこで名前の意識が逸れていると気付いた哀が、私の話を聞きなさいと言わんばかりに呆れた溜め息を吐いた。

「貴方はまず病院ね」
「もうほとんど治ってる」
「ダメよ。ちゃんと検査してもらいなさい」

 有無を言わさぬ哀の声音に反論の言葉を探す。
 音の輪郭が気持ち滲むような感覚はあるものの、近くにいる哀の声ははっきりと聞こえるし、少し離れた場所にいるコナンたちの声も拾うことが出来る。まだ多少の違和感は残っていたが、聴力はほぼ回復したとみて問題ない。日常生活に支障が出る程の怪我ならば素直に従うのだが、この程度のものならば検査の必要も感じられなかった。
 しかし、それを正直に伝えたところで哀が容赦なく畳み掛けてくるのも目に見えている。名前は困ったように顔を背けて前髪を後ろに撫でつけた。

「その嬢ちゃんの言う通りにしておけ。ついでに診断書も貰ってこい」

 そこに杖をついた大和が会話に入り込んできた。昨晩の会話を思い返すに、警察としての立場というよりも個人的な責任を感じているからだろう。さすがにこの伏兵には気付けない。二対一。戦況はますます不利である。
 二人分の視線を受けて名前は観念するように肩を竦めた。これは問題ないと証明することのほうが面倒だ、と。

「分かった、行けばいいんだろ」
「同伴すべきかしら?」
「信用ねぇな、俺」
「心配ならウチのもんを一人貸すぜ」
「あら、それもいいわね」
「勘弁してくれ、ちゃんと行くって。だから哀も早くバスに乗れよ。皆待ってるぞ」

 バスの乗降口からは歩美が体を半分覗かせて手を振りながら哀を呼んでいる。それに応えるように振り返った哀は、最後にもう一度だけ念を押すように名前へ目線を寄越してから踵を返してバスへ向かった。
 その後ろ姿を見送りバスに乗り込むのを確認した名前もバイクに跨って出発の準備をする。

「下山するまでは県警のバスから離れねぇようにしてくれ」
「……なぁ、あんたもバスに?」
「いや、俺は別ルートだ」
「そ。なら安心だな」

 まるで意図を見通しているかのような皮肉に大和は目を瞬かせた。だが、すぐに口の端を持ち上げて短く笑うと背を向けて歩き出す。お互いに余計な詮索をするつもりはない。
 名前はハンドルにかけていたフルフェイスのヘルメットを手に取った。

「あ、待って名前さん」

 そこに入れ替わるようにしてコナンが駆け寄ってきた。子供らしくない真剣な面持ちに、その場を離れようとしていた大和の足も止まる。

「昨日聞きそびれちゃったんだけど、名前さんって犯人の銃を掴んだんだよね。それってどんな形をしてた?」
「どんなって言われてもなぁ。見たわけじゃねーし正確には分からねぇけど……」

 ヘルメットを下ろした名前は思案するように口元に手を寄せ、まだ鮮明に残る記憶を手繰り寄せた。
 フードの人物が持っていた銃を掴んだ時、その形に強い違和感を覚えたのは確かだ。FBI、いや、赤井と関わったことでライフル銃を何度か目にしたことがあり、形やパーツはよく覚えている。気まぐれに構造の話も聞かされたものだから、それなりの知識も、いつの間にやらついてしまった。
 別の事件であったならこの知識も役に立てたかもしれない。けれど、今回は仇となってしまった。犯人は銃にライフルカバーを被せていて実態は見えず、名前も蘭も、それをライフル銃だと思い込んだが故に隙を生んでしまったのだから。
 眉を寄せた名前は改めて掴んだ銃の感触を思い出した。

「ライフルとは全く違かったな。銃身が短くて、マガジンがそこにくっついてるような」

 とにかく掴み難かった、と口元に寄せていた手を離してハンドジェスチャーを交えて説明する。それを受けて今度はコナンが顎に手を添えた。

「なるほど、それなら……」
「もう行っていいか?」
「うん、ありがとう」

 欲しい情報は充分だったようで、コナンは満足した様子で小五郎たちの元へ戻っていった。バックミラー越しにその背中を目で追うが、バスのドアはすでに閉まっており乗り込む様子はない。どうやらまた言葉巧みに捜査に加わろうとしているのだと解り、名前は呆れながらヘルメットを被ったのだった。


 面倒だとは思いつつも結局は病院へと足を運んだ。渋々検査を済ませた結果、数日は違和感が残るかもしれないが後遺症の心配はないとのこと。念のためにと薬を用意されたが、これを飲むことはないだろう。名前は異状なしと書かれた診断書を折り曲げてジャケットの内ポケットに入れると、病院の駐車場から県庁に向かってバイクを走らせた。
 長野県の警察本部は県庁にあり、犯人の目撃者として保護された蘭たちは事情聴取を終えた後、県庁の本館の方でコナンたちの帰りを待っているという。
 暫くして県庁本館に到着した名前は、皆が集まっている食堂に足を踏み入れ、眉を寄せた。朝にはあれほど元気だった子供たちが嘘のように大人しい。それだけではない。蘭や阿笠の表情にも不安や戸惑いがあり、雰囲気はどこか緊張感が漂っている。
 すると名前に気付いた哀が静かに輪から抜けて食堂の入り口までやってきた。ここで立ち話をしては目立つ、と二人は目配せを交わし食堂の外の廊下まで出る。

「何があったんだ」
「貴方が来る少し前に、諸伏という刑事から受信していた緊急信号が消失したと放送があったわ。今は音信不通だそうよ」
「……返り討ちにされたか」

 そう呟かれた言葉に哀が怪訝そうな顔を浮かべた。

「貴方、何か知っているのね」
「断定はできない。あの、顔に傷のある強面の刑事」
「大和警部ね」
「その人、自分を囮に使ったんだろ。江戸川にそんな様子はなかったから、多分長野の連中だけでケリつけるために山に残った」

 名前は壁に背を預けて腕を組んだ。
 思い出すのはつい今朝のことだ。炭焼き小屋の外、バスの前で話し合う三人の姿。大和と上原、そしてもう一人いた男がその諸伏なのだろう。彼らは犯人が誰を狙っているのかを知っている。大勢の捜査員を使って一晩中捜索しても見つからない犯人を、これ以上闇雲に探すのは効率が悪い。ならば、標的である大和自身を使って誘い出せばいい。おそらくこれが彼らの作戦だろう。
 身の危険を顧みない相応の覚悟が必要な作戦だ。けれど、その策すら読んでいた犯人のほうが一枚上手だった。

「珍しいわね。知り合ったばかりの人をそこまで気にするなんて」

 哀は口元に笑みを浮かべながら名前の隣に立って同じように壁に寄りかかる。

「気に入ったのかしら?」
「まさか。そんなんじゃねぇよ」

 冗談はよしてくれ、と厭そうに顔を顰めて名前は天井を見上げた。
 事実として大和に特別な感情はない。気に入っているわけでも、心配しているわけでもなかった。言葉を交わしたのは昨晩と今朝の二度きりで、そこに情が湧くほどの接点も、親しくなるだけの理由もない。どんな人物であるかも僅か一握り程度しか掴めてはいないのだ。
 今はただ、見極めたいと思っているだけにすぎない。あの言葉通り、やり遂げてくれるのか。口先だけじゃないと示してみせるのか。それを見届けたい。信頼を寄せるにはまだ遠いけれど、信じてみてもいいと判断した自分の感覚を名前は信じていた。つまりは期待しているのだ。

 だから雪崩に巻き込まれ、そのまま死亡が確認されたと聞かされても、ひどく冷静でいられた。



 長野県警からそれほど離れていない距離に、多くの参拝客が訪れる善光寺はあった。敷地の奥にある忠霊殿へと続く道は石畳となっており、本堂の周辺よりは人気は少ない。その道中にあるベンチに座り、コナンは風見から頼んでいた調査の報告を受けていた。
 手渡されたタブレットには長野県の銃猟免許所有者のリストが表示されている。ずらりと並ぶ名前をスクロールしていけば、予想していた通りの人物がそこに載っていた。

「この人の戸籍、調べられる?」

 ここまで解ればあとは証拠があればいいと、コナンは矢継ぎ早に追加の調査をお願いした。
 それを受けた風見は、胃に痛みが生じた気がして眉尻を下げる。調べられるのかとお伺いを立てているようでいて、その実、公安ならば当然出来るだろうという圧を感じたからだ。言葉の柔らかさは違えど、ここにはいない上司の姿がチラついてしまい思わず肩を落とした。

「はぁ……本当、君は人使いが荒いな」

 だが、事件解決のために必要だと言うのなら断るわけにはいかない。そもそも、最初にコナンを利用しようと頼ったのは風見自身である。その自覚があるため拒否などできるわけがなかった。
 自業自得だと己を憐れむ風見にタブレットを返したコナンは、ベンチから立ち上がるとスマホをポケットから取り出しながら背を向ける。そのまま立ち去ると思われたが、数歩進んだところで足を止めて振り返った。

「ねぇ、風見さん」

 さっそく次の調査を進めるためにタブレットを操作していた風見は顔を上げてコナンに視線を向けた。

「まだ他に調べることが?」
「ううん。風見さん怒ってないのかなーって。ほら、山荘へ行く時にボク、意地悪なことを聞いちゃったでしょ」
「……疑われても仕方のないことだ」

 再び視線をタブレットに戻して画面をタップする。アクセスしたデータベースから必要な情報を拾いながら、山荘へ向かった車中での遣り取りを思い出す。あの時はコナンの言葉に動揺し、あり得たかもしれない推測に怒りを覚え、冷静さを欠いてしまった。気持ちも思考も落ち着いている今ならば見えてくることもある。
 タブレットの電源ボタンを押して画面を消し、風見は立ち上がってコートのポケットにそれを仕舞った。そしてコナンに背を向ける。

「君は我々のやり方を快く思っていないのだろう。彼がそれに巻き込まれているのではないかと警戒するのは、むしろ当然だ」
「うん。でも二人がお互いを大切な存在だと思ってるって分かったから、もう心配はしてないよ。それに、これで風見さんのことを信頼できる」

 コナンから向けられたその言葉は、風見にとっても喜ばしいものであった。降谷に自分以上に怖いと言わしめるほどの知能と推理力を持つ少年から、名前が絶対的な信頼を寄せるほどに親しい少年から、認められたような気がしたからだ。
 自然と口元が軽く緩む。だが、残念なことに些細な喜びが長く続くことはなかった。

「だから先に謝っておくね」
「え?」
「ごめんなさい!」

 突拍子もない台詞を背後に投げかけられ、目を瞬かせながら振り返った。神出鬼没な上司と同じように、そこにはもうコナンの姿はない。独り残された風見は大きな溜め息を吐いて額を押さえる。そして、一方的に言い放たれた謝罪の意味と意図を考えるために、暫しその場に立ち尽くしたのだった。


 その頃、多くの人で賑わう善光寺の仲見世通りを阿笠や子供たちが観光していた。土産物屋の軒先には民芸品から焼き団子まで様々なものが並んでおり、観光客の興味を惹いている。いつもであれば、目を輝かせてあちこちの店を忙しなく見て周る子供たちなのだが、今は少しばかり元気がない。美味しいものには目がない元太ですら何店舗か素通りしたくらいだ。
 行動を共にしていた名前は、そんな彼らの様子に無理もないと肩を竦める。
 数時間前、雪崩に巻き込まれた大和が発見され、そのまま亡くなったという知らせが届いた。発砲事件の混乱に続くようにして起きた事故に、誰もが混乱を隠せず、不安を抱えてしまう。深く関わりのある人物ではないが、感受性の豊かな子供たちにとっては見知った人が亡くなるのはショックなこと。だからこうして、少しでも気分転換になればと仲見世通りへとやってきたのだ。
 名前は和小物を取り扱う店の前で立ち止まり、軒先に並ぶ紙細工の風車を手に取った。

「信じてないって顔をしているわ」

 それは大和の死について言っているのだと、すぐに分かった。隣に並んだ哀が花形のお洒落な風車を手に取ると軽く指で弾く。

「すぐに受け入れられるもんじゃねぇだろ」
「……そうね」

 大事な人ならば尚更、信じたくないものだろう。かけがえのない、唯一無二の誰かの死を受け止めるには時間がかかる。名前にとっての松田のように。哀にとっての姉のように。きっと、上原にとって大和がその誰かなのだ。個人差があると言われてしまえばそれまでだが、あれほどまでに、すぐに飲み込むことができるのだろうか。
 健気に風を待ち続ける風車に軽く息を吹きかける。色や柄の異なる折り紙がくるくると回り、やがてゆっくりと止まった。
 脳裏に思い浮かべるのは大和の死亡が確認されたと知らせを受けた時の光景。その場にいた全員が言葉を失い、上原は崩れ落ちるように泣き叫んだ。元同僚を殺され、その事件を追って長野まできた小五郎も、更なる犠牲者に悔しさを露わにしていた。そんな中でコナンは動揺の一つも見せていなかったのを覚えている。お互いに信頼関係を築いていたはずの相手だと言うのに、顔色一つ変えてはいなかった。
 工藤新一という探偵は冷静沈着であるが冷徹非道ではない。それを名前はよく知っている。

「頭の良い連中ってのは嘘を吐くのが上手いよな」
「……大和警部の死を偽装して犯人を騙している。そう言いたいのかしら」

 死の偽装。普通ならば映画やドラマの見過ぎだと笑われる話である。しかし実際にやってのけた実例があるからこそ、その考えに辿り着いてしまう。

「あいつなら、やりかねない手だと思わないか?」
「否定はできないわね」

 呆れの混じった声音に、どうやら哀もコナンの様子には半信半疑だったことが伺える。二人は風車を元の場所に戻して石畳の道を歩き始めた。
 少し進んだ場所では誰かと電話をしている阿笠の傍らで子供たちがベビーカステラを頬張っている。まだ本調子とは言えない大人しさだが、名前は無理に彼らを慰めることはしない。時間が解決してくれることを確信しているからだ。それほどにコナンには何か策があるのだと当然のように信じて疑わなかった。
 スイーツ店の前で合流すると、丁度通話を終えた阿笠が子供たちの方に振り返った。

「越智くんから連絡があっての。天体観測ができなかった代わりに、レーザーで星を作らないかと提案があったんじゃが」
「うーん……」
「あまり気が乗りませんね」

 ベビーカステラだけでなく、おやきにも舌鼓を打つ元太の隣で歩美と光彦が難色を示す。悲痛な声を上げて泣く上原の姿がまだ鮮明に記憶に残っているのだろう。こればかりは仕方がない、と静観している名前の隣に立っていた哀が子供たちに歩み寄った。

「いいじゃない。せっかくだから行きましょう」
「でも……」
「大丈夫。江戸川くんが犯人を見つけてくれるわ」

 だから心配はいらないと安心させるような哀の微笑みに、歩美と光彦が顔を合わせる。その瞳にはまだ迷いが残っていた。そこに最後の一押しと言うように阿笠が一歩踏み出す。

「事件のことはコナンくんに任せて、ワシらは天文台へ行こう。越智くんから皆にもレーザー発射の手伝いをしてほしいと頼まれたしのぉ」
「本当ですか!?」
「歩美たちもお星さま描いていいの!?」
「今度こそオレがやるぞ!」

 天文台の見学時は一人だけにしか許されなかったレーザー照射。そんな魅惑の手伝いができると聞き、一瞬で子供たちの瞳には輝きが戻った。今のこの瞬間だけならば事件のことも忘れてしまっているだろう。その逞しさに、余計な心配は必要なかったのかもしれないと名前は苦笑を浮かべ肩を竦める。
 天体観測ツアーは残念ながら叶わなかったが、こうして一行は再び野辺山の国立天文台へ向かうことになった。
 訪れた時とは正反対に上機嫌な足取りで子供たちは仲見世通りを進んでいく。その数歩後ろを歩く名前はポケットに入れていたスマホが震えるのを感じ取った。確認すればメッセージが一件届いている。送り主は事件解決のために奔走しているであろう少年の名だ。嫌な予感と共にメッセージに目を通せば、案の定、顔を顰める羽目になった。



 日も傾いていき空が薄暗くなると次第に雪が舞い始めた。
 国立天文台にほど近い場所にある駐車場。そこに停められた車の中から風見が降ってくる白い雪片を目で追っているとスマホが着信を告げた。公務用とは別に私物のスマホを利用する機会は少なく、番号を知っている相手も限られている。
 着信画面に表示されていた番号は恋人のものであった。すでに事件の犯人は特定済みで、居場所も把握できていることから、緊急性の高い連絡である可能性は限りなく低い。一方で全く無関係な電話とも言い切れないのが難しいところだった。

「出ねぇのか」

 職務中ということもあり出るかどうかを悩む風見に、助手席に座っている強面の男が声を掛けた。

「……これはプライベート用なので」
「少しくらい構わねぇだろ。もう準備は整ってるんだ」

 耳に着けているイヤホンからはコナンや小五郎たちの声が聞こえる。彼らは今、八年前に起きた強盗事件に携わる人物たちを45m電波望遠鏡の前で待っていた。長年続いていた怒りと後悔に静かに幕を下ろすために。
 その後に今回の事件に纏わる真相解明を観測棟で行い、犯人を逮捕する段取りとなっている。風見と大和はそれまで待機している状況だ。世間話をする程度の時間は確かにあった。
 珍しく長い着信に、もしかしたら大事な用件かもしれないと思い始め、風見は通話ボタンをタップした。イヤホンの付いていない反対側の耳にスマホを近づける。

『そこに大和って人いるだろ。代わって』

 挨拶もなしに本題へと入る相手のペースに慣れてきたとはいえ、開口一番にこうも急所を狙ってくる発言には未だに驚かされる。今回に限っては特に肝が冷える思いだ。
 犯人の目を欺くため、大和は雪崩に巻き込まれ亡くなったことになっている。この事実を知っているのは現場にいた者と協力者の風見。そして大和敢助を慕う長野県警の刑事、上原由衣だけのはずだった。
 念のために周囲に目を走らせるが人の姿はない。観測に基づいた根拠のある発言ではない、ということだ。

「突然、無理難題を言わないでくれ。大和警部が殉職したのは君も知っているだろう?」
『知ってる。だから代わって』
「言ってることが矛盾してるじゃないか。申し訳ないが、ここには誰も────」
『裕也さん』

 遮るように名を呼ばれて風見は口を閉ざした。咎めるでも、縋るでもない。落ち着き払った声音にすべてを理解しているのだと、彼の纏う雰囲気ごと電話越しからでも感じ取れた。

『別に誰にも聞いてないし、誰も漏らしてない』

 四六時中コナンを盗聴していれば、そこに嘘がないことは明白だ。文面での遣り取りも考えられるが、聡明な少年がわざわざリスクの高い手段を取るとも思えない。

「なぜ、解ったんだ」
『勘』
「真面目に聞いているんだが……」

 困ったように眉を寄せて風見は小さく息を吐いた。そして助手席にいる大和へ視線を向ける。自分の名前が話題に上がった時から、険しい顔つきでずっと様子を伺っていた。一応は死んだ人間となっているため、その死を疑われている内容であれば警戒するのは無理もないことだ。
 風見は耳元からスマホを離し、そのまま大和へ渡す────のではなく、通話中の画面に表示されているスピーカーボタンをタップした。状況の共有。というのは建前で、名前がどんな用向きで電話をかけてきたのか、それを知りたかったからだ。
 スピーカーモードになったスマホを向けられた大和が口を開く。

「俺だ」
『死人の声にしちゃ元気そうだな』
「その声、炭焼き小屋にいた…………」

 聞き覚えのある声と口調に、すぐに相手が炭焼き小屋で出会った青年であると気付いた。交わした会話の節々から鋭い思考力を持っていることは察していたが、死の偽装を見破ってみせたのは素直に感心してしまう。

「さすが、あのボウズの連れってわけか」

 同時に、まるで昔の諸伏を彷彿とさせる大人負けの推理力を発揮する小さな探偵の姿も思い浮かべ、大和は短く笑った。

『必ず俺が捕まえる、なんて大口叩いておいて即退場するタマかよ、あんた』
「まさか、たったそれだけの理由で俺が生きてると確信したわけじゃねぇだろうな」
『他に理由が欲しいんなら、適当に用意するけど?』
「いや、必要ねぇさ」

 随分と挑発的なことばかりを言いやがる、と大和は口角を吊り上げる。だが言葉の裏にある覚悟への期待は確かに受け取ることができた。これは、子供たちを巻き込んでおいて勝手に死ぬな、自分のケツは自分で拭え、という苦情と遠回しの励ましなのだ。

『言いたいことはそれだけ』

 無言で二人の会話を聞いていた風見は掲げていたスマホを下ろした。そして終了のボタンをタップしかけたところで「あ、そうだ」と通話相手から声が上がり指を止める。

『あんたらヘマすんなよ。俺だって面倒事は御免だからな』

 最後に不満を含めた調子でそう言い放って通話は切られてしまった。
 一方的に残していった言葉の前半はまだ理解できる。これから犯人逮捕に向けた山場を迎えるところだ。気を緩めるなよ、ということだろう。では後半はどういう意図での発言であったのか。どうにも話の繋がりが見えず、風見には見当がつかなかった。
 
「なんのことだ?」
「さぁ……」

 それは大和も同様だったらしく、二人は顔を見合わせて首を傾げる。けれどその疑問も、待ち人に声を掛ける小五郎の声がイヤホンから聞こえ始めたことで、すぐに意識から除外されることになった。


 携帯電話禁止エリアの外で通話を終えた名前は敷地内の散策を再開する。初日の見学に遅刻して来たせいで構内の地図をまだ把握しきれていなかったからだ。一般客の見学時間も終わりの時刻が迫っているためか、周囲に人はほとんどおらず、多少怪しい動きをしても咎める者はいない。とは言え、じっくりと見て周る時間はなく、逃走経路に使えそうなポイントに焦点を絞って確認するに留めた。
 まさかこんな事態になろうとは誰が予想できようか。一つ言えるのは自分の責任ではないということだ。名前は白い息を吐き出しながら心の中で愚痴を吐き出した。
 立入禁止区域を除いたエリアを一通り巡り終えた頃には、陽はすっかりと沈んでしまっていた。最後にスマホで全体の地図を確認すると、液晶にいくつもの雪片が落ちてきては熱で溶けていく。空から舞う雪も静かにその量を増している。
 観測棟まで戻ってくると建物の中には入らず、外階段の影に隠すように置かれたバイクに歩み寄った。本来なら一般車両は侵入禁止だ。もちろん無断で乗り込んだわけではなく、ちゃんと越智の許可は得ている。警察の捜査に協力していると伝えたら、あっさりと信じてくれた。これも連日の事件事故が影響しているからだろう。
 外灯とスマホのライトを頼りにバイクの細部を見ていく。慣れない雪道を走ったことでボディに損傷はないか。スノータイヤに亀裂やえぐれは入っていないか。ブレーキ、クラッチの効きに問題はないか、と一つずつ不備がないかどうかを丁寧に確認していった。
 バイクが終われば次は雪の積もってきた地面の状態にも目を向ける。コナンから持ち掛けられた『お願い』を考えれば念入りなチェックは必須だった。一歩間違えれば命すら落としかねない危険な行いなのだから。
 まったく、とんでもない頼み事をされたものだと肩を竦める。

「絶対、佐藤さんに怒られんだろうなぁ……」

 それどころか哀にも咎められることは確定事項だ。
 思わず眉を寄せた名前は観測棟を見上げた。今この中ではコナンたちが事件の真相を解き明かし、犯人を追い詰めている。このまま順調にことが収まれば自分の出番はない。そう願うが、雪が音を奪う静かな夜に微かに聞こえた発砲音が、虚しくも小さな望みを打ち砕いた。
 名前はレザーグローブを装着し、フルフェイスのヘルメットを脇に抱えると外階段の影に身を寄せる。観測棟の出入り口を注視していると、やがて人が飛び出してきた。現れたのは駅で出会った男、山梨県警の林警部補だ。移動観測者に向かって逃げるように走っていく様子から彼が犯人であると確信する。

「止まれ!」

 次いで建物の中から出てきたのは上原だ。逃走を止めようとする鋭い声と共に、走る林に向かって拳銃を構えた。すると、彼女の声に反応した林が振り返り持っていた銃を向ける。
 咄嗟に名前は身を乗り出して手にしていたヘルメットを投げた。同時に、観測棟から出てきた風見が上原に飛びつく。銃声が響き、ヘルメットに弾かれた弾丸は彼らの後ろに停まっていた越智の車に当たった。被弾した車が爆発し、周囲にガラス片が飛び散る。
 上原を庇うように覆いかぶさっていた風見は、目の間に落ちてきたシールドの割れたヘルメットに一瞬気を取られた。だが、すぐに林へと意識を戻して立ち上がる。
 犯人を逃がすまいと次々に観測棟から出てくる刑事たちに、名前は踵を返してバイクに走り寄った。そしてトップケースに入っていたハーフヘルメットを取り出すと、ゴーグルのみを外して装着する。バイクに跨りエンジンを始動させ、左手でクラッチを切り、右足で一速に落としてからアクセルを僅かに煽った。そのままクラッチレバー離すと後輪が一瞬の空転を挟んで地面を蹴るように走り出す。
 観測棟の前に出ると越智に何かを伝えているコナンが見えた。

「江戸川!」

 ブレーキをかけ声を掛ければ、迷いなく名前のバイクに近寄ってくる。ハーフヘルメットを投げ渡せばコナンは器用にそれをキャッチし、被りながらタンデムシートに飛び乗った。

「追って!」

 簡単に言ってくれる。そう吐き捨てながら名前はアクセルグリップを捻った。
 台車倉庫から守衛所までの間に敷かれたレールの上を、ミリ波干渉計を載せた移動台車が猛スピードで進んでいる。逃走する林が乗った移動台車の後を、高木、諸伏、風見が運転する三台の車が追っていた。そのさらに後ろを名前のバイクが走る。
 気を抜けばすぐに積もった雪にタイヤを掬われてしまう。雨に濡れたアスファルトなど比ではないくらい、雪道は思うようには走れないものだ。むしろ普通は走ろうなどと思わない。それくらい繊細な注意が必要だった。余計な情報や考え事は運転の邪魔になると、名前は走ることだけに意識を集中させる。だから後ろに乗っているコナンがトップケースに何か細工をしていると気付いても好きにさせた。
 突然、視線の先で移動台車に載っているミリ波干渉計が爆発した。巨大なパラボラアンテナがゆっくりと倒れていき、レールの傍に立っていたミリ波干渉計を巻き込みながら地面に激突する。その衝撃で巨大なアンテナは砕け、破片が周囲に飛び散った。
 前方を走る車が急ハンドルを切るのを捉えるが、名前は構わず進み続けた。今このスピードでブレーキをかけてしまえばそれこそハンドルを取られ横転してしまう。アクセルグリップを戻しつつ車とアンテナの欠片を避けると少しバランスが崩れた。反射的に片足を雪面に滑らせてなんとか体勢を整えるも、車体が僅かに軽くなっていることに気付く。
 後ろを振り返るよりも早く、バックミラーにはバイクから飛び降り、大きな破片に乗ったコナンが映っていた。そのまま着地し、見慣れたボードほどのサイズにまで砕けた破片をスケボー代わりとして雪面を滑っていく。その手には探偵バッジの他に伸縮サスペンダーが握られていた。それは以前、リアキャリアに乗せた荷物の固定をするために阿笠から借りたものだ。どうやらトップケースに入れたままだったらしい。
 バックミラー越しに伸縮サスペンダーがバイクと繋がっているのを確認した名前は、すぐに自分の役割を理解した。いくら雪面と言えどスキー場のような急勾配ではない。おまけにいつも活躍しているモーター付きのスケボーでもないため、いずれ破片のスピードは失速する。つまり文字通り────

「エンジンになれってことかよ」

 この展開を予測していたのかは知る由もないが、二手三手先を読むのはさすがだ。
 呆れながらも名前は冷たい空気に晒され熱を奪われた唇を吊り上げる。戻していたアクセルグリップを再度捻って前に出ると、破片に乗ったコナンも引っ張られるように加速した。
 その時、空にレーザー光が駆けていった。この事態の最中、子供たちに星を作らせるわけがない。おそらくコナンが探偵バッジで指示しているのだろうことは判ったが、雪にハンドルを取られないよう運転に集中しているせいか、その意図までを考える余裕が名前にはなかった。
 けれど、コナンの考えに気付いた者がいた。前方を走る車のルーフが全開となり、立ち上がった蘭が座席から身を乗り出す。

「コナンくん! 地形と気象を使ってー!」

 そう叫んだ蘭が座席に戻ると、諸伏の運転する車は速度を上げて移動台車の後方へと近づいて行った。
 吐く息は白く、頬を滑って消えていく。舞う雪の中を猛スピードで駆け抜けていると、時折頬や耳に小さくも鋭い痛みが走る。バイクを体の一部のように感じながら名前は前だけを見ていた。脳裏に浮かぶ疑問は一つだけ。
 ────あのレーザーを使って、どう犯人を止めるつもりだ。
 本来は空に向けられるために設計された装置。地上へ向ける想定はされていないはずで、先程発射されたレーザーの角度が限界なのだろう。思いつく限りの方法としては光を反射させることだが、生憎と反射に使えそうな物が空にはない。
 大きめの雪片が一瞬だけ視界を覆い、思考の海に踏み入れていた足を引き戻す。
 そこにバイクのライトが一台の車を照らした。諸伏の車だ。バックで走りながら、ルーフを格納しているトランクが後ろに開いていくのを視界に捉える。ハッとして名前はバックミラーで後方を滑るコナンを見た。スケボーの代わりにしているのはアンテナの反射鏡部分の破片だ。その素材はアルミニウム。そして蘭が伝えた地形と気象。
 ようやく策に気付いた名前は思わず笑い声を零してアクセルグリップを一気に捻る。タイヤが雪面を滑りながらもトップスピードに乗った直後、ブレーキを掛けながら急カーブをするように車体を倒した。遠心力も加わったコナンは伸縮サスペンダーから手を離し、その勢いのまま諸伏の車へと突き進んでトランクを駆け上がっていく。

 レーザー発射口から発射された四本のレーザー光は45m電波望遠鏡のパラボラアンテナに当たり、一本の太い光の束となって反射した。その光は宙へと大きくジャンプしたコナンに向かって伸びていく。体を捻りながら乗っていた破片をレーザー光へと向ければ、寸分の狂いもなく光を捉え、移動台車の運転席へと反射していった。
 次の瞬間には周囲に激しいブレーキ音が響く。移動台車は拳銃でエンジンを撃ち抜かれたことで爆発を起こし、レールから外れて雪面を滑りながら横転すると、ついに止まった。
 こうして運転席から放り出された林は抵抗する隙さえ与えられず、公正に職務を遂行する刑事たちによって逮捕された。

 その様子を離れた場所から見ていた名前は倒れていたバイクを起こした。雪面には車体が横倒しのまま数メートル滑った跡が残っている。軽くボディを見回すが、細かな傷がついたものの大きな損傷は見当たらず、エンジンや燃料タンクにも異常はなかった。

「頑丈な奴だな、お前も」

 労うようにシートを撫でると、首にかけられたゴーグルにひらりと雪が落ちてくる。いつの間にか空から舞う雪は勢いを忘れ、優しく寄り添うものに変わっていた。



 林を乗せた車が長野県警に向かうのを見送った風見は踵を返した。隠れ公安であった彼の身柄は、手続きが整い次第公安で引き取る手筈となっている。ひとまずは、派手に荒れてしまった現場へ県警の捜査員たちが到着する前に、この場を離れなければならない。大和たちには既に口止めをしているが、公安が関わっていると周知すべきではないのだ。
 落ち着いたら降谷にも報告を入れなければいけない、と考えながら停めていた車に戻り運転席のドアに手をかける。しかし、風見は乗り込むことなく車から離れた。振り返り、猛スピードで走り抜けてきた道を歩いて戻っていく。雪面にはいくつものタイヤの跡が残っているが、降り続く雪によって、やがては消えてしまうだろう。
 白い息を吐きながら進んだ先には、バイクに寄りかかりながらアロマスティックを咥える名前がいた。その何者も寄せ付けない、冬の静寂に溶け込んだ光景に風見は足を止める。寒いのは苦手と彼は言うが、皮肉なことに冬の景色がとてもよく似合っていた。
 再び歩き出した風見の気配に気付いた名前は、口元からアロマスティックを離し吐息とは違う煙を吐き出すと、挑発的な笑みで出迎える。

「人使いの荒い探偵の助手になった気分はどうだ?」
「まるで降谷さんを相手にしているようだったよ」

 盗聴器を仕掛けてからの数日間を思い返して風見は顔を顰めた。

「そりゃ最悪だな。これに懲りたら、あいつを利用するのはやめとけよ」
「嫌というほど身に染みたさ……」

 これまでの捜査でも、ただ盗聴するだけならば経験はしている。けれど、盗聴されていることに気付いた上で、命令とも呼べるお願いを盗聴器越しにされるなど前代未聞だ。おかげでいつも以上に、精神的にも疲労してしまったと軽く頭を振った。
 ふと、そこで思い出す。心労と言えば、目の前には聡明な少年と負けず劣らずの懸念の種がいるではないか、と。風見は表情を引き締め、距離を縮めるように一歩大きく踏み出した。

「そんなことより、君のほうこそ危険な行動は慎んでくれ。ヘルメットも被らずに雪面をあんなスピードで走るなんて……肝が冷えたどころじゃない」

 記憶に強く残っているのは、砕け散るアンテナの欠片と車との間をすり抜けるバイクに乗った名前だ。その姿を見た時、心臓が止まってしまうのではないかと思うほどに驚き、そして恐怖した。

「取り返しのつかないことになっていたらどうするんだ。だいたい何故あそこに君が────」

 放っておけば永遠に続きそうなくらい止まらない唇に、名前の人差し指が押し付けられる。

「あー説教はナシ。どうせ後で佐藤さんに叱られる」

 レザーグローブの外された手は冷え切っており、風見は眉を寄せながらその手を握って口元から離した。

「僕だって君を心配しているんだが……」
「知ってるよ。でも言ったろ。あんたらがヘマしなきゃ、俺だってこんな馬鹿な事しねぇって」
「あれは、そういう意味だったのか」

 通話を切られる前に言い残された、不可解だった言葉の謎がようやく解ける。発案者があの少年────江戸川コナンであることも察した。
 コナンは事態が悪い方向になることも見越して、事前に名前に協力を仰いでいた。逆に言えば、現場検証の場で林を取り逃がさなければ、彼が体を張って助力することもなかったわけだ。取り逃がしてしまう可能性すら視野に入れられていたことは情けない限りであるが、実際にそうなってしまったために文句は言えない。
 むしろ末恐ろしいとばかりに肩を落として溜め息を吐いた。

「まったく、あの少年には翻弄されっぱなしだ」
「ほんと容赦ねぇ奴だよ。遠慮なくあんたを困らせてくれたんだからな」

 てっきり笑われるものだとばかり思っていた風見は、耳に届いたどこか不満の滲む名前の声に顔を上げる。そこには不貞腐れた表情を浮かべる恋人がいた。

「え……わっ!?」

 次の瞬間、コートを掴まれ強引に引き寄せられる。唇に触れる柔らかな感触と共に、ふわりと広がる甘い香りが鼻をくすぐった。その優しいバニラの香りは風見が贈ったフレーバーの一つだ。名前に纏って欲しいと想いながら選んだ特別なもの。
 ────この香りをあの少年も感じたのだろうか。
 そう考えると少しだけ嫉妬心が湧き上がってしまう。
 触れるだけの口付けから食むように下唇を軽く噛まれ、じんわりと体温が上がっていった。最後に僅かに舌先が触れて、小さなリップ音を鳴らしながら唇が離れる。それは盗聴器越しに聞いたものと同じであった。
 宙を舞う雪が寒さで紅潮した名前の頬に触れて溶けていく。

「ひとまずお疲れ様。裕也さん」

 労わる言葉と向けられた慰めるような微笑みに、釣られて風見も表情を和らげた。濡れた頬を優しく撫でれば温もりを求めるように名前は瞼を閉じる。これでは説教をする気も削がれてしまう。
 この数日、風見を振り回していたのは利用しようと近付いた少年だけではなかった。名前の言動や行動にもまた、心は踊らされていた。それでも、正直気を揉んでしまうのは事実だが、彼になら翻弄されても構わないと思ってしまうのは惚れた弱みなのだろう。