観察者は語る


 平日の午後は学業を終えた隊員たちが集まり、ボーダーの施設内、とりわけ個人ランク戦のブースやラウンジは賑わいを見せている。
 出張から戻って来た唐沢は、日々成長を続ける若者たちの熱気を横目に、施設の片隅にある喫煙ルームへと向かっていた。近年は外出先でも禁煙エリアばかりで困ったものだ。今では落ち着いて煙草を嗜むことができるのは自宅か職場くらいだろうか。
 数時間ぶりにニコチンを摂取できるとなれば足取りも次第に軽やかになっていく。おかげで目的の場所にはすぐに到着した。逸る気持ちを抑えながら出入り口に近づけば、感知センサーが反応して滑らかにドアが開かれる。ついに待ち焦がれた香りが鼻を掠めた。スーツの内ポケットを探りながら足を踏み入れ、そして立ち止まってしまう。
 喫煙ルームはいつものように換気の音だけが静かに響いていた。空調は動いているはずだが、壁に染み付いたタールの匂いまでは拭い去れない。飾り気もなければ、活気も温度もない、ただ煙と沈黙を分かち合うための空間に苗字名前はいた。そこにいるのが当たり前かのように、空気に馴染んでいる。
 驚くことではない。これが、初めてではないのだから。
 気を取り直して煙草の箱を取り出しながら、お世辞にも広いとは言えない喫煙ルームの壁に背を預けた。箱を軽く振り、飛び出した一本の煙草を口に咥え、使い捨てライターで火を点ける。カチリという小気味よい音が密閉された空間に鋭く響き、ふわりと立ち昇った紫煙は空調の風に煽られて歪んだ。世の趨勢がどれだけ電子タバコに傾こうと、香りも満足感も、この一本には遠く及ばない。
 唐沢は二人分ほど距離の空いた位置に立つ青年に意識を向けた。高校生でありながら喫煙ルームを利用する、ボーダー内でも群を抜く問題児だ。そう、これが初めてではない。何度も同じような状況に遭遇していた。もう見慣れてきているはずなのに、いつもその姿に目を奪われる。何がそこまで惹きつけるのだろう。危険性、あるいは────。
 思考を遮るように、瞳が喫煙ルームの前を足早に通り過ぎていく人物を追う。唐沢は口元から煙草を離すと、息と共に白煙を吹き出してから顔を横に向けた。

「あれ、君を探しているんじゃないか」
「へぇ。暇なんだな」
「今度は何をしたんだい?」
「身に覚えがありすぎて、どれのことだか」

 名前は煙草を咥えたまま視線を落とし、関心の色も見せずに応じた。
 その態度に軽くあしらわれたと悟りながらも、唐沢はそれ以上は何も言わず苦笑を浮かべる。もし、喫煙ルームの前を通った人物が同様の質問を投げかけたとしたら、リアクションはもっと違っていたことだろう。けれど、その差を羨ましいとは思わない。その感情を求める気もない。残念ながら自分にはその適正がないのだと、言葉を交わす度に自覚してきたのだ。
 だからこそ、メディア対策室長には同情を寄せてしまう。

「心配をかけるのも程々にしておかないと、根付さんが可哀想だ」
「心配ね……迷惑、じゃなくて?」

 向けられた声音は冗談とも本音ともつかない響きを持っていた。それに僅かな心地好さを抱きながら唐沢は煙草を寄せる。ニコチンの苦みと共に思考が冴えていき、口元が緩む。

「君なら自覚していると思ったんだが、違ったかな」

 それは問いよりも確信に近い言葉だった。
 間を置いて、名前がゆっくりと息を吐き出す気配を感じながら、唐沢は瞼を閉じる。換気の音がやけに大きく聞こえた。
 答えは返ってこない。期待はしていなかったが、その沈黙こそが肯定を意味しているのだと解っている。そして、拒絶されたことも充分に読み取れた。言葉よりも沈黙のほうが雄弁なことを、青年は嫌というほど知っているのだ。唐沢自身もそれを理解しているのだが、どうしても一歩、踏み入れてしまいたくなる。
 二人の間に流れる空気は静かで、とても冷たい。物理的にも、心理的にも、あまりにも絶妙なこの距離感は唐沢にとって好ましいものだった。


 暫くして、喫煙ルームの前を再び根付が通り過ぎ、すぐさま引き返してきた。鋭い視線がガラス越しに名前を捉え、焦燥の表情の中に僅かな安堵が入り混じる。どうやら予想は的中していたようだ。
 ドアが開くと気持ちが先走るような勢いで根付が入ってくる。唐沢には気付いているのだろうが声を掛ける暇もなく、その足取りは真っ直ぐに目的の人物へ向けられた。額には汗が浮かんでおり、呼吸も若干乱れている。施設内を文字通り探し回っていたのだろうことは明白であった。

「苗字くん! 君は、またッ!」
「別に逃げないから落ち着けば?」

 まるで小言を聞き慣れた子供のように、名前に動じる様子はない。虚しくも、根付の語気の強さはほんの少しだけ空気を揺らすだけに終わった。

「誰のせいで、私がこんな目に遭っているのか解っているのかね」
「俺」

 悪びれもない態度から繰り出された即答に、根付は一瞬だけ言葉を失った。そして、額を手で抑えると短く唸るように口を開く。

「……堂々とするんじゃないよ」

 呆れた声音と共に吐き出された溜め息に、張り詰めた空気が少しだけ緩んだように感じられた。
 目の前で行われる二人の不毛なやり取りに、唐沢は口を挟もうとはしなかった。茶々を入れるような雰囲気ではないし、事態の把握も出来ていない。好奇心半分で介入すれば事態が余計にこじれることは容易に想像ができる。特に、名前が相手では根付の苦労が水の泡になる可能性すらあるのだから、迂闊に干渉するものではない。
 もっとも、今回に限っては事の深刻さがいつも以上だからこそ、傍観に徹しているというのが正直なところだった。
 唐沢は天井へ伸びていく紫煙から視線を外し、横目で二人の様子を盗み見る。目の前で高校生が煙草を吸い続けていることに、あのメディア対策室長様が苦言の一つも漏らさない。それが、単なる喫煙の問題を越えた別の厄介事に気を取られている何よりの証拠。それほどまでに神経を削られているのだ。
 不良学生とは言え、決して頭が悪いわけではない──むしろ頭の回転は早く、勘も鋭い──名前も、根付の異変には気付いているのだろう。そっと口元から煙草を離して肩を竦めて見せた。

「昨日のことなら、俺は巻き添え喰らったの」
「その点については把握しているよ」
「なら、俺に説教をかますのはお門違いってもんだ」
「君があの場にいたのは事実なんだ。世間は簡単に納得してはくれないんだよ」

 どうやら出張で留守にしていた間にそこそこ大きな事件が起こったようだ。そこに問題児の一人である名前が関わっていることで、ボーダーに対し非難が向けられてしまった。しかし、唐沢の耳に不祥事が起こったなどという話題は届いていない。その事実が、すでに根付が何らかの行動を起こした後だということを示していた。関わったボーダー隊員が加害者ではなく被害者側であったことが幸いし、外部への広がりを迅速に抑え込めたのだろう。
 とはいえ、ボーダーのアンチ的な者は存在する。根付が危惧しているのは、火種が消えきる前にそれを利用しようとする連中がいること。

「殴られたから殴り返しただけ。それもたった一発」
「我慢して、少し大人しくすれば済む話じゃないか。火消もタダではない」
「それがあんたの仕事だろ」
「その仕事を増やさないでくれと言っているんだがね」

 だから青年へ向ける言葉には、責任を問うよりは苦言に近いものが感じられた。単純に心配しているという理由もあるのだろうが、おそらく本人は認めないだろう。
 口元に薄っすらと笑みを浮かべた唐沢は、短くなっていく煙草を惜しむように少しだけ吸った。
 根付は普段、どの隊員が相手でも、如何なる問題が起こっても、冷静かつ理性的に対処できる人物である。だが、名前が相手となると均衡が揺らぎ、メッキが剥がれてしまう。一見すれば贔屓のようにも映るが、その一言で納めてしまえるほど二人の関係は単純ではない。信頼と諦念、期待と徒労。相反する感情が入り混じる、妙に温度のある複雑な繋がり。結び目の見えない絡み合った糸だ。

「だいたい君は何度同じことを────ッ!?」

 長く続きそうだった説教は、顔を目掛けて吹きかけられた煙草の煙によって遮られた。もちろん、犯人は唐沢ではない。そんな振る舞いが許される雰囲気をいつの間にか作ってしまえるのは、この場にはたった一人だけ。
 向けられた挑発的な笑みを前に、咳き込んでいた根付が眉間に深い皺寄せる。

「俺が良い子になったら、根付さん、退屈しちゃうだろ?」

 そう言ってスタンド灰皿に煙草を押し付け、喫煙ルームを出ていく名前の背中を追う者はいなかった。
 なんという奔放さだ、と唐沢は驚きを通り越し、もはや尊敬に達してしまった。この場の空気を自在にかき回し、笑み一つで締めくくって去っていく。普通なら鼻持ちならない所業だ。
 けれど根付は咎めることはしなかった。否定も反論も口にはしなかった。きっとあの態度が、言葉が、そして誰にでも向けられるわけではない表情が、どこまで本気で、どこまでが防衛線なのかを解っているからだろう。それは唐沢では図れない、この先も得ることが出来ないものだった。
 抑えきれない笑いが滲み、肩が僅かに揺れた。

「笑い事じゃないですよ」
「いや、すみません。やはり貴方には敵わないなと思いまして」

 言葉とは裏腹に、どこか他人事のように響いた声音を誤魔化すように最後の一口を味わう。真意を測りかねたのか、視界の端で根付が怪訝そうに振り返るのが見えた。

「私はどうも、彼の神経を逆撫ですることしかできなくて」
「誰に対しても無礼ですよ、あの子は」
「ははっ、そうですね」

 全く厄介なものだと言わんばかりに溜め息を漏らす同僚に唐沢は小さく笑う。
 苗字名前が持つ魅力を例えるのなら、無害そうに見えて棘を隠し持つ薔薇などではない。自らが危険だと堂々と主張している、鮮やかで猛毒を秘めた花だ。艶やかな花弁と、誘惑するような香り。その全てに毒がある。興味本位に近付けば毒を振りまき拒絶され、水を与えればじわじわと毒が蝕み後戻りはできない。だからこそ、誰もが当たり前のように警戒し距離を取る。
 唐沢はスタンド灰皿へ歩み寄り、短くなった煙草を押し付けた。同じ灰皿には名前が残していった吸い殻があり、その吸い口は少しだけ湿り気を帯びている。

「なら、根付さんが甘やかせ上手なんですかね」

 再び換気の音だけが支配する静寂が訪れた。
 何とも言えない絶妙な表情を浮かべる根付に、にっこりと笑顔を返して喫煙ルームを後にする。

「そんなわけ、ないでしょうが……」

 ドアが閉まる直前、悔しさと不甲斐なさを滲ませた小さなその呟きが、しっかりと唐沢の背中に届いた。閉じたドアを振り返り、困ったように眉尻を下げる。
 始まりは義務感からだろう。それが少しずつ同情へと変わり、やがて言葉にできない別の感情へと姿を変えていく。一度水を与えた者がどのように変化していくのか、その過程を眺めるのはどこか面白い。それはとても魅力的で、けれど同時に恐ろしくもあった。
 当事者ではないからこそ、状況を俯瞰できているだけなのかもしれない。もし自分が踏み込んでしまったら、触れてしまったら、どうなってしまうのか。いつもその狭間で、無意識に賭けをしている気がする。
 羨ましいとは思わない。その感情を求める気もない。それでも、頭では解かっていても手を伸ばしてみたくなる。触れて、この身に毒を喰らってみたいと願ってしまう。その背徳に似た刺激すら、どこかで楽しんでいる自分がいるのだ。