静かなヴェール


 特定の者を贔屓にするのは役職を持つ人間として好まれることではない。しかし一度飴を与えてしまえば、その判断は緩くなるものだ。
 ボーダーの隊員の中には第一次近界民侵攻の折に家族を失った者、地方でスカウトされ単身で三門市にやってきた者が複数存在する。彼らには本部が提供する住まいと働きに応じた対価を支給しており、学業面でもサポートを惜しまない。何不自由なくとまではいかないまでも、ボーダーに対する貢献のお返しとしては十分だろう。
 だが、一方でそれらのサポートを受けない隊員がいた。それが根付の頭を悩ませている苗字名前である。

「なんか奢ってよ」
「またかね」
「給料日前で金ねぇんだ」
「……防衛任務を増やしたらどうかね」
「『学生の本分は学業である。それを無視して儲けに走るなんて愚か者のすることだ』って言ったの、根付さんだろ」

 そうだった、と根付は額を押さえた。
 高校生である名前は現在一人暮らしをしている。その原因は複雑な家庭事情によるものであり、第一次近界民侵攻とは関係がない。所詮は他人であるから他所の家庭について深く探るつもりはないが、彼がいくつものバイトを掛け持ちしている現状は把握していた。生活費から学費までを己の力のみで稼いでいるのだ。その点については、普段の素行の悪さを差し引いても素晴らしいことだと評価している。
 それなのに、ボーダーの厚意を素直に受け入れていれば生活が圧迫されることもないだろうと、お節介を焼かずにはいられなかった。

「今からでも申請してみてはどうだい」
「嫌だね。俺はそこまで肩入れしたくない」
「なら私にたかるのはどうなんだね」

 呆れを滲ませた声で返すと、ソファで寛いでいた青年が背もたれに肩肘を預け、視線を根付へと流した。その口元には、どこか挑発的な笑みが浮かんでいる。

「組織と個人は別だろ。それに、ちゃんと人は選んでる」

 根付は思わず唸った。説教をするために呼び出した青年が、必要のない嘘をつく人間ではないと知っているからだ。そして、今の言動が計算されたものだということにも気付いていた。とくに後半の言葉は確実に意図して言ったものだろう。今まさに、自分が犯した過去の行いを悔やんだ瞬間である。
 デスクに両肘を乗せ、深い溜め息を吐きながら組んだ手の上に額を預けて俯く。
 名前が誰彼構わず『強請る』ような真似はしないと知ったのは、注意深く見張っていたことの副産物だった。基本的に他者に頼ることのない青年が気を許している相手は、ボーダー内でもごく少数。その中に、根付も名を連ねていた。
 それが喜ばしいことなのか、困ったことなのかは、正直複雑な心境ではあった。

「美味いもん食わせてよ、根付さん」

 けれど、人に好かれるというのは決して悪い気分ではない。相手がどれだけ手のかかる存在であったとしても、だ。
 顔を上げた根付は少し渋い表情を浮かべながらも、無遠慮な我儘に応じることにした。

「私の仕事が片付くまで大人しく待っていなさい」

 素直に要望を叶えるのは癪だとばかりに、返答は明確にはせず、拒絶とも取れてしまう程度に濁した。その抵抗が無駄であることは承知の上だ。実際、青年は嬉しそうに目元を緩めると、再びソファで寛ぎ始めたのだから。
 捻くれた根付の思考など、とうに見透かされているのだろう。名前もまたそれを承知の上で、まるで当然のように懐へと踏み込んでくる。
 だからつい、こうして甘い対応をしてしまう。線を引くべき立場であるのに、距離の詰め方に抗いきれない。それでいて相手は絶対的な一線を引いているのだから、これほど厄介なことはない。


 決して可愛らしいとは言えないおねだりを仕方なしに叶えるため、根付は言いつけ通り大人しく待っていた青年を連れ、とある店へとやってきた。大通りの喧騒から少し離れた場所にあるその店は、静かで落ち着いた空気を纏っている。
 店の前に立った瞬間、名前が器用に片方の眉を上げながら小首を傾げた。場所も雰囲気も青年が好みそうな雰囲気ではあるが、外観から『食事処』ではないと察したのだろう。

「要望と違ぇんだけど」

 不満な声が上がるのも無理はなかった。そこは、商談に使うような厳かな料亭でもなければ、馴染みの落ち着いた店でもないからだ。
 店先にメニュー表や写真はなく、ショーウィンドウにサンプルが並べられているわけでもない。あるとすれば、ひっそりと掲げられた洒落た無地の看板のみである。その看板も柔らかなライトで照らされているため、通りすがりの者の興味を惹くには印象が薄い。特に彼のような若者ほど素通りしてしまうだろう。

「美味いもん食わせてくれるんじゃねーの」

 顔だけ振り向き、どこか拗ねたように文句を垂れる青年に対し、根付は腕を組んで値踏みするような視線を返した。

「あのね、君のその格好じゃ流石に連れていけないよ。マナーというものがあるのだから」
「え、なに、そんな高級な店行くわけ?」
「私がそこらのチェーン店に連れて行くとでも思ったのかね」
「あーはいはい。あんたが恥かきたくないってことね」

 業務後ということもありスーツ姿の根付とは対照的に、名前の服装はとてもラフなものであった。長身のため無駄に着飾らなくともお洒落に見えるが、さすがに普段着すぎる格好では行きつけの店には連れていけない。どこからどんな噂が発生するのか、分かったものではないのだから。

「飯食う金すら惜しいんだ、服を買う余裕なんてねぇよ」
「心配しなくても、君の懐事情くらいちゃんと把握しているよ」

 理解こそ示したが納得には至っていない様子の青年を伴い、慣れた動作で店の扉を開ける。すると小さな鈴がチリンと優しく鳴った。
 外観と同じく店内は静かで洗練された空間であった。落ち着いた照明と磨き抜かれた木の床。壁にはジャケットがずらりと並び、棚にはシャツやネクタイが整然と陳列されている。奥のフィッティングスペースでは年配の店員が顧客の裾上げを確認しており、根付に気付くと軽く会釈をした。
 訪れたのは格式のある老舗の紳士服店だった。
 自分にとっては馴染みの店ではあるがやはり若者向けではないな、と隣に立つ青年へちらりと視線を向ける。けれど意外なことに、店内を無言で見渡す姿は物珍しさというよりも、どこか冷静に選別しているような雰囲気があった。もしかしたらこの手の格式ある店は初めてではないのかもしれない。そうであるならば好都合だ。
 根付はさっそく名前に着せるための服を選び始めた。
 まずは無難な選択として濃紺のスーツを試してみることに。上質な生地とすっきりしたシルエットは、彼の端正な顔立ちと相まって見た目の印象は申し分なかった。仕上げとしてネクタイまで締めさせれば完璧、なのだが────

「堅っ苦しい」

 鏡の前で襟を直す青年のその一言に、手にしていたネクタイはそっと棚に戻した。
 次に選んだのは少し明るめのグレーのジャケットに、オフホワイトのシャツの組み合わせ。スラックスは黒で引き締めてみた。全体の印象は先程のスーツよりカジュアルダウンされているが、品の良さは保たれている。
 根付は腕を組み、顎に手を添えながら名前の姿を上から下までじっくりと観察する。悪くはない。けれども、これだ、という決定打もなかった。

「ふむ……他のも試してみよう」

 この時にはもう何か変なスイッチが入ってしまったのかもしれない。
 そこからは試着の連続だった。カラーシャツにニット、カーディガン、落ち着いた色のベスト。どの組み合わせも悪くはなかったが何かが足りなかった。
 ──次はもう少しラペルが細い方がいいのか。
 ──このラインなら、足元はスニーカーではなく軽いレザーシューズのほうが合っていそうだ。
 ──色味が明るすぎては苗字くんの良さが際立たないのではないか。
 いつしか根付の目的は、いかに名前を見映え良く仕上げることが出来るかに傾いていた。組み合わせを変える度に相応しい色や形、そして青年の持つ秘めた輪郭が見えていく。その過程が妙に楽しくて仕方がない。なにより顔立ちも体型も整っているものだから、どんな服でもそこそこ様になってしまう。
 だからこそ、ただ似合うだけでは物足りないと感じるのだろうか。


 気付けば試着を始めてから小一時間が経っていた。
 支払いを済ませて店を出ると夜風が優しく髪を撫でる。先に外へ出ていた名前は気怠そうに体をほぐしており、その背中を根付はどこか満足そうに見つめた。
 最終的に選んだのは、チャコールグレーのカジュアルなセットアップだ。シャツの色は最後まで悩んだが、彼に合うのはやはりこれだろうと落ち着いた黒に。全体のトーンは引き締められ、洗練された雰囲気を醸し出していた。
 我ながら、なかなかのセンスだと思う。試着の途中からは、もう勘弁してくれと文句を言われそうな空気にもなったが、それでも妥協はしなかった。むしろ苦言を吐かれたところで、我儘を聞くのだからこちらの楽しみくらいあってもいいだろう、と返していたことだろう。おかげで今は達成感すらある。
 それに、意外にも彼を着せ替え人形のように着飾るのは悪くなかった。
 そうして得も言われぬ満足感を味わう根付を、不意に名前が立ち止まって振り返る。走り去る車のヘッドライトがその姿を照らし、眠らぬ街の灯りを背景に輪郭が浮かび上がった。

「根付さんはさ、服を贈ることの意味って知ってんの?」
「『私好みの格好をして』とでも言わせたいのかね。残念だが、これは異性に対しての話だよ」
「なんだ残念」

 言葉の調子とは裏腹に、微塵も落胆の色を見せない名前の態度に根付は呆れて肩を竦める。どうせ揶揄うつもりだったのだろうが、その程度の社交辞令ならば彼よりもよほど心得ていた。こういうやりとりであれば自分のほうが一枚上手なのだ。
 だが、そんな理屈を軽々と超えてくるのが苗字名前という青年であり、頭を悩ませる所以でもあった。
 静かにこちらを見つめていた青年が、ゆったりとした足取りで近付いて来る。その姿はどこか落ち着きを払っていて、時々垣間見えるものとは別の、もっと印象の違う大人びた雰囲気を纏っていた。それは根付が選んだ服のせいだけではない。捕らえて離さない視線が、仕草の緩やかさが、年齢以上の深みを感じさせた。
 目の前に立った青年を見上げると、長身を屈めて耳元に顔を寄せられる。吐息がかかるほどの距離の近さに思わず息を呑んだ。

「じゃあ『その服を脱がせたい』って意味があることも、もちろん知ってるよな」

 囁くように落とされた言葉に、肩が強張り頬にサッと熱が集まる。
 知らないわけがない。けれどそれも異性に対して、とくに男性が女性へ贈った場合のメッセージだろう。年下の同性の身形を仕方なく整えただけで、そこに特別な意味はない。そもそも食事を強請られなければ着飾る必要だってなかったのだ。
 そう反論すべきだったのだが、根付はすっかりと青年の雰囲気に飲み込まれてしまっていた。名前自身は悪戯が成功した子供みたいに、それでいて色気を含んだ笑みを浮かべて何事もなかったかのように踵を返して歩き出す。
 本当に厄介な相手だ。誰よりも手強く、誰よりも理性的でいたはずの自分を崩してくる。だが、その厄介さを手放したいとまでは思えないあたり、根付自身もまた、どこかで折れているのだろう。
 振り向きもせずに夜の街へ溶け込んでいく背中を見つめ、ひとつ小さく息を吐く。その息に少しだけ熱が孕んでいたことには気付かないふりをして、遠ざかる背中を追うように歩き出した。