華やかなシアターレストラン、スターレス。そのバックヤードには、厨房、ロッカールーム、レッスン室が並ぶ。さらに奥へと進んだ先には、デザイナー専用のアトリエがひっそりと構えていた。ドアを隔てた廊下には一定のリズムで布をカットする音と、機械的なミシンの唸りが鳴り響き、アトリエの主がいることを静かに語っていた。
裏口からもアクセスがし難いその場所は、特別な用がない限り日常的に訪れる者は少ない。
私に対してソテツへの気持ちを打ち明けた彼女は、その日を境に時折やってくるようになった。作業を静かに見学している時もあれば、息抜き程度の雑談をすることもある。
「それで、ソテツさんってば意地悪ばかりするんですよ」
「全く仕方がないね、彼は。やっていることがまるで小学生だ」
「でも、たまに優しい顔も見せてくれて……本当ずるいです」
もちろん、話題は一人の男に関することばかりだ。私は彼女の話を聞いて、差し障りのない言葉を返して、早くこの時間が過ぎてくれやしないかと願う。
「私、まだまだ名前さんに及びませんね」
「どうしたんだい、急に」
「ソテツさん、名前さんと一緒にいる時はもっと優しい顔をするんです」
愛らしく、守ってやらねばと思わせる声が、何度も頭の片隅で反芻する。
私も頑張らないと、と両手で可愛らしく拳を作って語る彼女を前に、何も言い返すことができなかった。言葉が見つからなかったのではない。口を開けば取り返しのつかないものが零れてしまいそうだったからだ。
「でも最近は二人でいるところを見ませんね。やっぱり衣装作りが忙しいからですか?」
「私が忙しいのはいつものことさ。きっと君と話すのが楽しくて……」
私のことなんて忘れてしまっているのかもしれない。続くはずだったその言葉は喉に引っかかり出てこなかった。
ソテツは彼女の気持ちを舞い上がらせると同時に遊んでいるのだ。傷付けて、それでも自分に想いを寄せているのだと、私の気持ちを試している。彼が距離を置くようになったのも、彼女の傍にいる時間が増えていったのも、退屈な毎日に刺激を求めているからに違いない。
「名前さん?」
「っ、すまない。少しぼうっとしてしまった」
「大丈夫ですか。顔色もあまり良くないですよ。無理はしないでくださいね」
頭では解かっている。彼女は誰かに狙われていて、守るために行動しているのだと。それでも、ソテツが純粋な気持ちで動いているとは思えなかった。
もし、本当に彼女に対して好意を持って接しているのなら、私が彼を理解しきれていなかっただけのことだ。
「そろそろ失礼しますね。今日はソテツさんに駅まで送ってもらう予定なんです」
「そう。気をつけて帰るんだよ」
少し前の私であれば彼女に憐みを抱いていただろう。まだ、そう思うだけの余裕と諦めがあった。今はもうそんなものはない。この胸に蔓延る歪な想いは硬く蓋をして、布の切れ端で包み込んで、クローゼットの一番奥に仕舞ってしまった。
作業台の上に広がった布地を整え、ペダルをゆっくりと踏み込んだ。針は滑らかに動き出し、詰まることなく縫い進めていく。速くもなく遅くもない。淡々としたミシンの音色はまるで私自身の鼓動のようだと、生きた心地を噛み締めながら黙々と手を動かし続けた。
こうして縫製に関わっている時間だけが安らぎであり、息苦しさから解放される唯一の救いだった。そう、ただひたすらに救いだったのだ。どれだけ多忙でも、この仕事さえできていれば他には何も望まないと思える程に幸せを感じていた。なのに、今は上手く呼吸が出来なくて仕方がない。針と糸を放り捨て、水面に顔を出し、酸素を求めたくなる衝動に襲われる。
それでも、手を止める選択肢は私には残されていなかった。
没頭する意識から浮上するようにミシンのペダルから足を離し、縫い終えた布地を確認する。そこにドアがノックされる音が静かな部屋に響いた。見計らったかのようなタイミングの控えめなそれに、僅かに肩が強張るのを自覚する。顔を上げて入室の許可を出すように返事をすれば、ドアの向こうから現れたのは青桐だった。
その姿を認識した瞬間、胸の奥が冷たく縮こまり、鈍い痛みが腹部を襲う。
「デザインの確認をしてほしいのですが、よろしいでしょうか」
青桐の声音は最初に挨拶を交わした時と変わらず丁寧で、感情の揺れなど一切なかった。まるで余裕の差を見せつけられているようで息が苦しくなった。
「……構わないよ」
痛みも妬みも悟られないように感情をひた隠しにして、差し出されたスケッチブックを受け取る。
目を通すまでもなく、その出来は分かっていた。持ち合わせている技術もアイディアも申し分ないことは、既にチームCの衣装を作り上げたことで証明しているのだから。なによりも、自分が立つステージは完璧なものでなくてはならないと主張するモクレンが認めたデザイナーだ。私が指摘すべき点など、どこにもありはしない。
「いいデザインだ。チームCの演目の雰囲気にも合ってる」
私だったらどんなデザインにしただろうか。そんな未練にも似た想いを押し殺し、努めて平静に口を動かす。
「これならモクレンも満足するだろうね」
「ありがとうございます。では、このまま進めますね」
閉じたスケッチブックを小脇に抱えた青桐は、軽く頭を下げると背を向けた。
あぁ、そのまま早く立ち去って、私の聖域をどうか犯さないでくれ。自分の中にある醜い感情を、これ以上、育てないでほしい。そうした願いも虚しく、青桐はドアを開ける直前にこちらを振り返った。
「手伝えることがあれば、遠慮なく言ってください」
取り立てて特別な意味を持たない、実務的で、親切心に過ぎない一言にズキズキと腹の底が悲鳴を上げる。再び静寂に包まれた部屋の中で咄嗟に口元を押さえた。込み上げてくるものなど何もない。吐き出すものなど何もない。胃の中は空っぽで、私自身の意義も空っぽで、それなのに内から外へとナニかが出ようとしている。
頭では分かっているのだ。青桐に邪心がないことなど最初から知っている。私が勝手に卑屈になっているだけで、これ以上の妥協も許せなくて、自らの首を己の手で締め上げているだけなのだと。だけど、どうしようもなかった。
────次は誰が、どのチームが、お前の衣装は必要ないと口にするのだろう。
一度経験してしまえば、それが何よりも恐ろしいことだと気付いてしまう。私はスターレスで唯一のファッションデザイナーだ。そうありたかった。誰にも必要とされない現実があることを、知りたくはなかった。
「ッ……はっ……」
息が吸えない。酸素が欲しい。誰かこの生き苦しさから引き揚げてくれ。
滲んだ視界から、現実から、目を背けるように閉じた瞼の裏に映るのは、含みを込めた笑みを浮かべる男だ。伸ばされた褐色肌の手に縋りついてしまいたくなる。きっとこの苦しみから解放されることだろう。でも、その手を取ってしまったらもう戻れない。生きていけない。
込み上げる弱音を飲み込んで、ゆっくりと息を吐きながら目を開け、独りぼっちのアトリエを見渡す。立ち並ぶトルソーに着せられた衣装はまだ未完成のままで、気持ちだけが急いた。
今日は何日だろうか。いつからまともに寝ていない。納期までどのくらい残されているのだろう。食事も取らなければ怒られてしまう。次の演目の衣装はどうする。外注先に任せる衣装はどれ。新しく入ったキャストは、もうステージに立てるだけの実力があるのか。彼と言葉を交わしたのは、いつが最後だった。
波のように押し寄せる思考を他人事のように受け止めながら作業台に向き直った。型紙に合わせて切った布地を合わせて針を通す。結局、自分を保つ方法は目の前の衣装を完璧に仕上げることだけだった。この一点に集中していなければ心が崩れてしまう。
私にはこれしかない。作り続けるしかない。誰にも奪われたくはない。彼に見捨てられても、多分、平気だ。けれど、この居場所を失くしてしまったら何者でもなくなってしまう。逃げ出した先にあったのがスターレスだ。他に逃げる場所など、あるわけがなかった。
強欲は罪だ。選ぶしかないのなら選択肢は一つだけ。私は震える手でハサミを握り、余分な糸を絶ち切った。