雪解けまで


 晴れ間が広がる休日の午後。阿笠邸は活発な小学生たちが集合したり、発明家による実験で騒がしかったりと、やたら賑やかであることが多い。けれど、この日は珍しく静かで穏やかな時間が流れていた。
 それを示すかのように、柔らかな陽が差し込むリビングでは名前がソファに身を預けながら寛いでいた。手元には雑誌が広げられており、ゆったりとページを捲っている。山脈を背景にバイクがレイアウトされている写真が表紙に使われているその本は、毎月欠かさず購読しているバイク雑誌だ。最新モデルの試乗レポートから全国のライダーたちの旅のコラムまで様々な特集が組まれている。
 ページを捲っていくとロード特集の文字に目が留まった。読者から寄せられたお気に入りの峠道や海沿いのルートが紹介されている。更にはライダー向けのカフェや休憩スポットも載っていた。指先で遊ぶようにしてページに折り目を付けたのは、ほとんど無意識の行動だろう。ツーリングを趣味としている名前にとっては有益な情報というわけだ。
 だが、この有意義な時間をじわりと蝕む存在があった。

「視線が鬱陶しい」
「あ、ごめん」

 その正体はもちろん、好奇心も正義感も人一倍強く、謎への探求が尽きることを知らない小さな探偵だ。
 阿笠博士にスケートボードの修理を頼んで以来、コナンは対面のソファに腰を下ろしたままこちらを観察していた。最初のうちは気にも留めなかったが、こうもじっと探るような目を向けられては名前としても落ち着かない。軽い謝罪の言葉は返されたものの探るような視線が外されることはなく、無視をして気になるコラムを読もうとするも集中できずに文字が滑るばかりだ。
 名前は僅かに眉を顰めながらページを捲る手を止め、諦めたように小さく息を吐いた。

「言いたいことがあるならさっさと言え」
「じゃあ聞いちゃうけど......」

 そう言ってコナンが少しばかり身を乗り出すと、手にしていたグラスの中の氷が軽やかに鳴る。厚着をしないと外に出るのも厳しいほどの季節だというのに、いつものように冷たいアイスコーヒーを飲んでいた。
 結露したグラスの表面を伝った水滴が膝の上で小さな染みを作ったが、コナンは気にも留めず言葉を続けた。

「公安刑事の風見さんとはどういう関係?」

 一瞬だけ二人の間に沈黙が広がった。その静寂は答えに詰まっているからではなく、会話の主導権を相手に握らせないためだろう。少なくともコナンはそう感じた。いや、経験から判断した、と言った方が正しいかもしれない。それほどに目の前の青年は場の空気を支配するのが上手かった。
 風見という名にも、関係という言葉にも、反応を示さなかった名前は雑誌に目を向けたまま口を開く。

「まずはお前の推理を聞こうか」

 試すような口調にコナンは持っていたグラスをテーブルに置いて腕を組んだ。

「んー……ただの知り合いにしてはお互いに警戒していないようだけど、親しくなるような接点も見当たらない」
「ま、そうそう会える相手じゃないねぇな」

 かの有名な不良高校に通っていて警察の世話になることも少なくない名前ではあるが、この場合に担当する管轄は交通課や生活安全課だろう。
 コナンの記憶にある二人の接点は、黒の組織が関わっていた東都水族館の観覧車での騒動と、プラーミャと呼ばれる爆弾犯による事件のみ。思い返してみても事件に関連すること以上の、お互いを信頼できるほどの関わりはなかったはずだ。だとすれば、やはり個人間で幾度もコンタクトを取る必要がある。だが本人の言う通り、公安刑事というのは容易に会えるような相手ではない。ましてや連絡を取り合うことだって簡単ではないのだ。
 しかしたった一人だけ、日常的に接触できる人物がいた。

「なら、安室さんを通じて会ってる可能性もあるよね。オレの知らないところで何か事件に関わってたりしない?」
「どこぞの探偵じゃないんだ、んな面倒なことに首突っ込むわけねぇだろ」
「ハハ……だよな」

 呆れを含んだ想定通りの返答にコナンは眉尻を下げて笑った。そもそも名前は立場も素性も関係なく安室透という男を嫌っている。例え協力を求められても、それに応える見込みは極端に低いだろう。この前提条件を踏まえると、好ましくない伝手を使って交流を深めているという線は薄くなる。同時に、公安の協力者でないことは風見からも否定されていたことを考慮しなければならない。
 つまりは調査も事件も関係なく、安室でさえも関与していない、二人は完全なプライベートな間柄ということだ。

「バイト先の常連……同じ趣味を持つ知人……それとも年の離れた友達か」

 考えられる可能性を上げてみるが、どれも空白のピースを埋めるには形が合っていないように感じた。重要なのは本能的に他人を、大人を信用していない名前が、風見に対しては厚い信頼を置いていること。
 そう。紛れもなくそれは、特別な相手と言っているようなもの。長野の雪山で見たあの瞳こそが答えを示していたのだ。庇護する相手にも、敬意を抱く相手にも向けることのない、深い情の篭った眼差し。
 無意識に顎に寄せていた手をそっと離したコナンは、どこか確信を得たような面持ちで名前に視線を向けた。

「……恋人、とか」

 問いかけているようで、その実、自信が声音に表れていた。状況証拠はなくとも答えに辿り着くには充分な証言も根拠も揃っている。
 だが、一拍の後に返ってきたのは口元に薄っすらと笑みを浮かべた挑発的な表情だった。

「さぁて、どれだろうな」

 核心に触れかけた途端、まるで煙に巻かれたような曖昧な言葉を返された。
 最初から真実を明らかにするつもりはなかったのだろう。そう察したコナンは先程までの真剣な面持ちから一変、不満を前面に押し出したような表情を浮かべた。見た目が小学一年生なだけで感情を露わにするほど中身は幼くはない。けれど、ここは敢えて子供らしさを見せつける。

「はぐらかさないでよ」
「真実を探るのが探偵だろ」
「言えって言ったの名前さんでしょ」
「答えるとは言ってない」

 屁理屈、と心の中で呟いたコナンは不貞腐れたように名前をひと睨みすると、再びグラスを手に取ってアイスコーヒーで乾いた喉を潤した。特に子供には甘い青年には多少の我儘も通ると思っていたのだが、相手が自分の正体を知っている以上そう簡単にはいかないらしい。一方で動揺の一つも見せないのはさすがだなとすら思う。
 普段から二人の間には思春期の学生が花を咲かせるような恋愛トークは話題として挙がらない。あったとしても、恋より事件を優先してしまう工藤新一に対しての一方的な揶揄いくらいだろうか。慣れない話題だからこそ、もう少し慎重に探りを入れるべきだったのかもしれない。
 そうして次の策を巡らせるコナンの様子には一切気を留めず、名前は雑誌をテーブルへ無造作に置いて立ち上がった。

「え、どこ行くの?」

 核心まではもう一歩。手が届くまであと少しというところで、外に出ていこうとする背中を目で追いかけ反射的に声をかける。その焦りを含ませたコナンの声に足を止めた名前は、愛用のヘルメットを軽く掲げて肩越しに振り返った。

「デート」

 意味深な、何かを含むような笑みを残して名前は阿笠邸を出ていった。
 揶揄うように告げられたデートの相手が人なのかバイクなのか。はたまた嘘か本当か。それを判断できるだけの決定打がコナンにはまだ得られていない。遠ざかっていくエンジン音を耳にしながら、ソファに深く身を預けてアイスコーヒーを一気に飲み干した。



 気の向くままにバイクを走らせ、冬の冷たい風を切って進む。海沿いの道に差し掛かった頃には空はすっかりと夕暮れに染まり、海面を揺れる波はオレンジ色に輝いていた。昼から夜へと移り変わろうとするその瞬間の、美しい光景の中を走るのはなんとも心地が良い。
 陽が沈むまでこのまま走り続けたいと思ってしまうくらいに気分は乗っていたが、残念ながら目的地はもう目視できる距離にまで迫っていた。
 他県ナンバーの車も停まる駐車場でバイクを降り、フルフェイスのヘルメットを脱ぐと潮の香りがふわりと鼻を掠める。ヘルメットを小脇に抱え、風に揺れる髪を雑に梳きながら、白と青を基調とした爽やかなデザインの建物に入った。

「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」

 ドアベルが軽やかな音を鳴らすと来客に気付いた店員がにこやかに告げた。店内を見渡せばいくつも空席があり、駐車してあった車の台数と比べると客数がやけに少なく感じてしまう。
 そうして僅かな疑問を抱きながらも空いていた窓側の席に腰を下ろしてメニュー表に手を伸ばす。ふと、窓の外に目を向ければ広いテラスには席が設けられていた。若い女性グループや恋人たちで席は埋まっており、夕焼けに頬を染めながら楽しそうに話している。疑問は案外あっさりと解消されてしまった。
 名前がやってきたのは最近になって口コミで評判が広がりつつある海沿いのカフェだ。雰囲気も良く、海側は全面がガラスとなっているため店内からの眺めも申し分ない。いずれテレビや雑誌でも紹介されることだろう。そうなれば行列ができたり予約が必須になるくらいには繁盛しそうだ。
 もし次にこの店を訪れることがあればきっと数年後になりそうだ、そう心の中で呟きつつ、呼び止めた店員にブレンドコーヒーとアップルパイ、それからホットサンドを注文して夕陽の沈む海を眺めた。
 店内にはゆったりとした時間に寄り添うように控えめな音楽が流れており、その合間を縫うようにドアベルが軽やかな音を落とす。
 運ばれてきたブレンドコーヒーはすっきりとしていてほろ苦く、デザートと合わせたらより苦みを楽しめそうだ。そう思いながらもアップルパイにはまだ手を出さない。カップを口元に寄せながら、もう少しで隠れてしまいそうな太陽に目を向けると何度目かのベルの響きが耳に届く。直後、スーツ姿の男がすぐ脇を通って向かいの席へ腰を下ろした。

「仕事は順調?」
「もう暫くは長引きそうだ」

 ようやく現れた待ち人は、厳格な公安刑事であり、名前の恋人でもある風見だ。
 一息つくように首元のネクタイを少しばかり緩めた風見は、メニュー表を手に取ったものの結局ドリンクすら注文せずに戻し、店員が運んできたサービスの水に口をつける。その様子から今回も長居はできないのだと察し、名前はカップを静かにソーサーへ戻した。
 普段であれば名前は人気の少ない穴場スポットに足を向ける。だが、今回この店を選んだのは風見だった。捜査対象が近くにいるのか。それとも上司に指示された場所へ向かう途中にあったのがこの店か。真意のほどは分からないが、訊ねても答えが返ってこないと知っている質問を敢えてする必要はない。
 困ったように小さく笑った名前は手付かずだったホットサンドの皿を風見の前へ押し出した。

「まともに食ってないって顔してる。どうせまた缶コーヒーばっか飲んでたんだろ」
「ぅ……否定はできない。でも君が頼んだものだろう?」
「いいよ。俺の奢り」
「いや、でも……」

 真面目すぎるせいか、それとも年下の恋人に奢られるのは躊躇われるのか。どこか遠慮がちな態度を見せる風見だったが、空腹を見抜いている名前の眼差しに押され、僅かに肩を落として観念したように手を伸ばした。

「正直に言うと、そろそろ限界だったんだ。助かるよ」

 風見は照れくさそうに微笑んでホットサンドを受け取った。そしてもう待ちきれないとばかりに大きな一口で齧り付く。厚切りベーコンに新鮮なトマトとレタス、そこに濃厚なチーズまで入ったホットサンドを味わえば、自然と頬も緩み美味しさに瞳も輝いてしまう。
 まるで少年のようなその反応に、釣られるようにして名前もまた表情を和らげて手元のアップルパイにフォークを差し込んだ。一口サイズに切ったそれを口に運ぶと、サクッとした食感と煮詰めた林檎の甘酸っぱさが舌の上に広がる。メニューに『当店自慢』と書いてあった通り、店の看板に偽りなしの味だ。
 窓の外から差し込む柔らかなオレンジ色に照らされ、二人の間には言葉を交わさずとも満ち足りた静寂の時間が流れた。時折、向かい合う視線が交わり、その度にどちらともなく薄く微笑んでまた視線を落とす。周囲の会話も店内の曲に溶け込む淡いノイズのようで、不思議と心を落ち着かせた。
 これが二人にとっての細やかな逢引であった。
 アップルパイを食べ終え、空の皿にフォークを置いたところで名前が静かに口を開く。

「江戸川にあんたとの関係を訊かれた」
「あの少年に?」

 不思議そうに瞬きを返した風見は最後の一口をゆっくりと味わって飲み込み、グラスの水で喉を潤した。

「長野の一件で、あんたとの繋がりを怪しく思ったんだろ。俺は警察が嫌いだから」

 口元からグラスを離し眉を寄せた風見は、雪に包まれた山中での出来事を思い出した。
 冷たい静けさに満ちた車内。助手席には恐ろしく頭の切れる少年がいて、その視線は何もかもを見透かそうとする傲慢さがあった。己の上司と似た鋭い視線に冷静さを取り繕うも、交際相手の名を出され、利用するために近付いたのだと突き付けられては動揺は隠せない。相手が子供でなければ任務と個人の感情はもっとうまく切り分けられたのかもしれないが、すでに過ぎたことだ。
 複数の警察関係者と顔見知りではある名前だが、信頼を寄せ、慕っているのは佐藤くらいだろう。それは風見も知っていて、知っていながら自分との関係を匂わせるようなことを洩らしてしまった。
 グラスを静かにテーブルに置くと風見はそっと視線を落とした。

「すまない。私が口を滑らせたせいだ」

 性格を体現するような、いかにも彼らしい落ち込み方に名前はフッと口元を緩める。

「別に俺は困らねぇよ。むしろバレて都合が悪いのは、あんたのほうかと思ってさ」

 風見の上司である降谷の他にも、すでに二人の関係を知る者はいる。灰原哀と佐藤美和子だ。どちらも不用意に口外する人ではないから問題はないだろう。もちろん口の堅さで言えばコナンも十分に信用できる。とはいえ、事件解決の情報を得るためのカードとして利用する可能性を名前としても否定はできない。

「ま、江戸川も勘付いてはいるだろうけどな。後は確信が得られたらいい……次に会ったら覚悟しておいたほうがいいよ」
「恐ろしいことを言わないでくれ。まったく彼の推理力は頼りになるが脅威でもあるな……」
「誤魔化すか打ち明けるかはあんたに任せる。そっちのほうが事情は複雑だもんなぁ」
「はぁ……君も難儀なことを押し付けてくれる」

 他人事のように揶揄い混じりの笑みを浮かべながら面倒事を放り投げる名前に、上司の姿を重ねてしまった風見は短く溜め息を吐いた。すると、タイミングを見計らったようにポケットの中でスマホのバイブ音が鳴る。それはこの短くも穏やかな時間の終わりを告げる合図だった。
 いつの間にか店内も賑わいを増し、テーブルごとの会話やカトラリーの音が響き渡っている。

「そろそろ戻らないと。今度はゆっくり食事でもしよう」
「楽しみにしてる」

 名残惜しくも立ち上がった風見はいつものように自然な仕草で伝票へと手を伸ばした。だが、横からするりとそれを奪い取られてしまう。

「俺の奢りって言ったろ?」

 口角を上げて挑発的な笑みを浮かべる名前に、風見は困ったように眉尻を下げ、けれども隠しきれない嬉しさを滲ませた。そして行き場のなくした手をそっと伸ばし、指の背で男前な恋人の頬を撫でる。

「落ち着いたらまた連絡する」

 約束と呼ぶには曖昧な、それでもどこか淡い期待を含んだ言葉を残して風見は店を出ていった。
 その後ろ姿を見送った名前は残ったコーヒーに口をつける。とっくに冷めてしまったが味は損なわれてはいない。視線を外へ向ければテラス席は寂しく、太陽は海へと沈んで姿を隠してしまっていた。
 人知れず交わす密かな逢瀬のひと刻は、いつもあっという間に過ぎ去ってしまう。
 綺麗な夕焼けを一緒に見たかったなどという洒落た企みは、おそらく風見の頭には最初からなかったはずだ。人が集まりやすい人気店を選んだのも、視線を分散させて余計な注目を避けるためなのだろう。人が多ければ多いほど、人は他人に関心を向けなくなる。
 それでも、と目元を緩めて仄かに微笑んだ。
 僅かな時間でさえも共有したいと思ってくれたことは素直に嬉しいもので、物足りなさや寂しさは感じない。名前にとっては、それだけで充分に満たされたのだから。