紫煙の奥の瞳が骨張った指を追いかける。
溜め息交じりの苦言とともに、唇の先から掻っ攫われた煙草がスタンド灰皿に圧し潰された。まだ半分も吸っていないのに勿体ない。そう口にするよりも、名前の意識はその手に注がれていた。
皮膚の薄い手の甲には青黒い筋が絡みつくように浮き上がり、すらりとした指の節は痩せて骨の輪郭を主張していた。強く握れば壊れてしまいそうな脆さはあれど、容易には折れない頑なさと執拗さを確かに秘めている。
残り香だけが未練がましく漂う中、名前は血管の浮かぶ手を見下ろしながら物寂しくなった口を開いた。
「根付さんの手って不味そう」
喫煙ルームに僅かな沈黙が広がった。
生憎とボーダー内での喫煙者の数はそれほど多くはなく、この場所を利用する人数も限られている。今は根付と名前の二人だけだ。だからこそ、気が抜けて突拍子もないことを言い放ったのだろう。この場に気さくに話題を回せる誰かが、そう例えばラグビー経験者の営業部長あたりがいてくれたら笑って流せたかもしれない。
けれど、運が悪いことに求めた人材は出張のため不在だ。それを知っている根付は、もう逃げられないのだと、名前の気まぐれに付き合うしかないのだと眉を顰めた。
「つまり何が言いたいんだね」
「味見したい」
「……は?」
しかし場に似合わない不穏な言葉を続けられてしまっては、さすがに動揺が生まれる。冗談なのか、本気なのか。その意図を探るように名前を見上げた根付は、どうして逃げないことを受け入れてしまったのかと後悔した。交わった瞳に揶揄いの情はなく、むしろ比喩ではないとでも示すように煙草の火を消した手が捕らえられた。
指先が熱を持つ前に唇が触れ、手の甲に湿った感触が落とされる。舌先が浮き上がった血管をなぞるように滑り、皮膚を唇で柔らかく食んだ。目に見えない痕跡が残されていく感覚に、ぞくりとしたものが背筋を走った。息を呑んだ根付が思わず手を引こうとしたが、名前の視線がそれを許さない。指先を口に含まれ、軽く歯を立てられてしまえば抗議の言葉も飲み込んでしまう。
掴まれた腕は振りほどこうとすれば簡単にできるはずだった。
怪訝そうな表情をしながらも頬を紅潮させる根付に、薄っすらと笑みを浮かべた名前はそのままスーツの袖に手を忍ばせる。袖口のボタンを外し、ゆっくりと肌を撫でながら袖を捲り上げて露わになった前腕へ唇を寄せた。唾液で濡れた舌が皮膚の下から見える血管を辿るように掌から前腕を這っていく。何度も、執拗に、その身を味わうために。
そうしてついに歯を立てる。
「っ……」
軽い痛みと同時に襲いくる熱を帯びた感覚を根付は咄嗟に抑え込んだ。そして、残された薄い歯形を見下ろし満足そうに手を離した名前に非難を含んだ視線を向ける。
「それで、味のご感想は?」
「想像通りだった」
「……なんだか腹が立つねぇ」
あれだけ好き勝手した挙句、予想を裏切らない期待通りのものだったと返されてしまえば多少は癪に障る。けれども例え美味しいと評されたところで、どう応じれば正解なのかは分からない。だから、行為に含まれた妙な執着や湿り気が、淡白な口調で締めくくられたことに救われたのは確かだった。
根付は体の内に燻った熱を逃がすために静かに息を吐き出す。目線を落とせば噛み痕の残る腕が視界に入り、目を逸らすように乱れた袖を正した。艶めかしい感触がまだ鮮明に残っている。
「不味いくらいが丁度いいよ」
袖口のボタンを留めていた手がぴたりと止まる。頭上から降ってきた声から確かな微熱を感じたからだ。
それを裏付けるようにして名前の手が今度は根付の体に触れた。服の上から優しく撫でるように、それでいて逃がさぬように這っていく。微かな含みを持たせた手の動きに、誰にも言えない蜜事を思い起こされて急速に耳が熱くなった。
じわりと汗が滲み、一歩、後退る。
いつの間に追い込まれていたのか、すぐに背中に冷たい壁の感触が伝わった。退路を断たれたと理解するよりも先に首筋を撫でられ肩が跳ねる。これ以上続けるのはお互いに良くないことだ。止めなければならない。そうと解っているのに一度知ってしまった熱に抗うのは難しい。躊躇うように顔を上げれば、根付は自分を見下ろす名前と視線が合い、そして外せなくなった。
焦がれるような飢えた感情が、照明の届かない位置にあるその瞳の内に見えた気がした。
ゆっくりと近付いてくる唇に根付はハッと我に返る。
「苗字くん、待っ────」
「美味しかったら」
制止の言葉は遮られた。首筋に触れていた手が顔の輪郭をなぞり、指先が赤く色づいた耳を撫でる。
「食べたくなるだろ」
その甘えるような挑発的な声音に根付は息を飲み込んだ。優しく唇が重なり、そっと歯を立てられる。頭では拒まなければならない理由を探すけれど、幾度となく交わした口付けに体はつい反応してしまう。ほぼ無意識に口を開いて、恋人でもない年下の青年の舌を迎え入れた。
いっそ食べられてしまえば罪悪感から解放されるのだろうか。手を出されているのは自分の方だ。仕方なく受け入れているだけだと言い訳が立つのなら、このまま食べてくれと望んでしまえばいい。そう考えている時点で自身も欲望に負けているのだと、すでに逃げる気など失せていることに根付は気付いていた。
「ん、根付さん……」
熱を孕んだ吐息混じりの声に名を呼ばれ、離れていく唇を追いかけてしまう。不味いくらいが丁度いいと言われた意味をようやく理解した。甘美な肉欲の美味しさを知ってしまったら何度でも味わってみたくなる。恐ろしいほどに求めてしまう。
唾液混じりに舌を深く絡め取られる感覚が脳を刺激し思考を鈍らせていく。
不味かったらどれほどによかったか。その身を味わい尽くしたいという気持ちを秘め、名前を手放せずにいるのは紛れもなく根付だった。