張遼と曹家庶子 01


 下邳の戦いから幾日が過ぎた。つい先日まで刃が交わされ鬨の声が響いていたとは思えぬほど、城下は穏やかな日差しに包まれている。
 曹操の屋敷もまた午後の柔らかな光に満ちていた。庭の樹々は手入れが行き届き整然とし、青葉が風に揺れて微かなざわめきを立てる。その静謐な景色をひと目眺め、張遼は見慣れぬ回廊へと足を踏み入れた。
 かつては呂布の下で武を振るった身。主と共に下邳に籠もり、そして敗れた。当然、処刑を受け入れていたのだが命を許され今では曹操の麾下にある。武勇のほどはすでに新たな主の耳にも届いているだろうに、それでも一度、直に言葉を交わしたいと望まれて屋敷へ招かれた。食事を共にし、酒を酌み交わし、一時の語らいを終えたところである。
 あとは正門を出るだけ────のはずだった。
 歩けども歩けども正門に行き当たらず、張遼は宛てもなく敷地内を彷徨っていた。どうにも道を違えたらしい。おかげで酔いもすっかり醒めてしまった。初めて訪れた場所ではあるが、酒のせいか些か方向感覚が鈍ってしまったようだ。

 ──案内の申し出を断るべきではなかったか。

 帰り際に曹家の使用人が申し出た厚意が脳裏をよぎり、無下にするべきではなかったと小さく息を吐く。
 しかし曹操の屋敷は広く、仕える者や侍女の数も少なくはない。このまま歩いていれば、いずれは誰かに出会えるだろう。その時に道を尋ねればよい。そう思い直し、張遼はさらに奥へと進んだ。
 だが、不思議なことに歩みを重ねるほどに人の気配は遠のいていった。やがて足を止めたのは、庭園の奥にひっそりと建つ亭子に人影を見つけた時だ。
 これぞ僥倖。胸の内でそう呟き、回廊を外れて庭へと降り立つ。敷石を踏み、草花を掠めて亭子へと近付いていくにつれて人影の輪郭がはっきりとしてくる。それは少年とも、すでに青年に差し掛かった若者とも見える年頃の男だった。接近する足音や気配を察して顔を上げるかと思われたが、何やら手元に没頭しているらしく張遼の気配には気付いていない様子だ。
 ふと、仄かに甘く温かみのある香りが風に乗って漂ってきた。
 桂皮であろう香りに誘われて亭子に足を踏み入れると、そこでようやく若者が没頭しているのが木彫りであると判った。小刀を握り黙々と木片を削っている。その傍ら、腰掛や高欄の上には掌に収まるほどの小さな彫刻がいくつも無造作に並べられていた。
 まるで路傍に店を広げた商人のようだ、と張遼は足を止めて若者を観察する。
 十分に梳かれていないのか髪にはやや癖があり、その隙間から覗く首筋は驚くほど白い。木を押さえる手首も小刀を操る指も細く、歳のわりには頼りなく映る。けれど、刃を走らせる動きには迷いがなく、力強さと繊細さを合わせ持っていた。
 削り落される木屑が静かに舞い、ゆっくりと地に落ちていく。それを目で追った張遼は足元に転がっていた彫刻をひとつ拾い上げた。

「見事なものだ」

 掌の上に転がる花の彫刻は今にも香りが立ちそうなほど精巧で、その出来栄えに思わず感嘆の声を漏らす。とくに幾重にも重なる花弁の柔らかな曲線は素人目に見ても鮮やかな造形だった。市井で売られている職人のものと比べても見劣りしない品物と言えよう。
 しかし、張遼のその一言は若者の集中を断ち切るに十分な効力を発揮した。

「……誰だ」

 小刀の動きが止まり、低く警戒を含んだ声が返ってくる。

「失礼した。私は張文遠。下邳での戦の後、曹操殿に仕えることとなった者だ」
「……その張将軍が、何故ここに」

 静かな問いと共に若者が緩やかに顔を上げた。
 髪の隙間から覗く鋭い視線に、一瞬、張遼の脳裏をかすめたのは新たな主である曹操の面影だった。この屋敷の奥にいる以上、殿の御子息か――とも思う。だが、飾り気のない衣や、どこか世俗から離れたような佇まいは、使用人の子と言われても違和感がない。

「曹操殿に招かれ参上したのだが……恥ずかしながら、道を誤ったらしい」

 身元を確かめきれぬまま応じ、張遼は改めて若者の様子を観察する。
 細身の体躯に似合わぬ刺すような眼差しは、こちらを値踏みするように瞬きもせずに見返してくる。その目の下には薄く隈が差し、顔色もあまり優れているとは言い難い。亭子の影にあるため判然としないが、戦場を駆ける兵たちのような健やかさは感じられなかった。それでも、やはり似ていると思わずにはいられなかった。
 絡み合った視線の瞳の奥に潜む確かな理知。そして油断ならぬ光が僅かに見えた気がした。
 やがて若者は困ったように眉を下げると、頬にかかった髪を指先で耳へとかける。そして張遼の視線を避けるかのように、ふいと横へ目を逸らした。

「ここは屋敷の一番奥だ。正門ならば逆に向かえばいい」
「なるほど、逆であったか」

 先ほどまでの警戒心は影を潜め、若者の態度はどこか慎ましいものに変わっていた。しかしそれは、心を許されたと言うよりも早く遠ざけたいという気持ちの表れだろう。その証拠にまだ名を明かされていない。
 けれど、張遼は敢えて問うことはしなかった。未だ掌の上に残る彫刻へと視線を落とし、静かに言葉を紡いだ。

「手先が器用なのだな。これほど精巧に手掛けるとは、相当な鍛練を積まねば出来ぬことよ」
「……大したことじゃない。こんなものは何の役にも立たん」
「否、この器用さは必ず役立つ。戦場においても工作や用具の扱いは重要な技量よ」

 陣中では武勇や知者ばかりが語られるが、勝敗を別けるのは往々にして細やかな技であることを身をもって知っていた。武だけでは勝を定められず、知だけでは戦を動かせず、技だけでは軍を保つこともできない。だからこそ、それらが全て揃えば盤石となるのだ。

「それは、戦場に立てればの話だろう」

 突き放すような一言と共に若者は小刀を握り直した。
 己の技を誇るでもなく、卑下するわけでもなく、ただ淡々と切り捨てる。その物言いに棘はあったが張遼は咎めなかった。相手が何者であるのか未だ掴み切れていないのだ、軽々しく諭す立場にはない。何より、まだ元服前と見える若さだ。戦に出るなど先の話であろう。そう自らを納得させた。
 刃が木片を削る乾いた音が亭子に淡く響く。
 正門の位置が知れた以上、此処に居続ける必要はなくなった。用は済んだと引き返すことはできる。だが、どうにも今此処を立ち去るのは惜しいと張遼は感じていた。この出会いも何かの縁、このまま終わってしまっては些か勿体ないのではないか、と。

「その手さばき、少し拝見してもよいだろうか?」
「えっ」

 気付けばそう口にしていたが、より目を惹いたのは若者が露骨に戸惑いを見せたことのほうだ。ぱちりと目を見開き、思いがけぬ申し出だと言わんばかりに張遼を見上げる。その反応は警戒や拒絶とは異なり、若者自身にとっても新鮮な感覚だったのかもしれない。

「武を磨くには、時に小手先の技術も役立つものよ」
「そう、とは思えないが……」
「ふ……嫌ならば断わっても構わん」
「卑怯な物言いだ……好きにすればいい」
「感謝する」

 張遼は薄く微笑むと若者と向かい合う位置へ腰を下ろした。その動作は自然でありながら、何を言われようと当分は動かないという無言の意思を含んでいる。
 隙のない武人の動作を目で追いかけていた若者は小さく息を吐き、やがて諦めたように視線を手元へ戻した。細い指が小刀を握り、刃先が木肌に触れる。親指の腹が刃の背を押すと、しゃり、と心地の良い音が響いた。削り落とされた木屑が微かな風を受けてふわりと舞い、静かに足元へと降り注ぐ。起伏のない単調な作業は時の流れを忘れさせた。
 次第に集中を研ぎ澄ませていく若者を前に、張遼は言葉を挟まず、その一連の動きをただ静かに見つめ続けた。


 若者の手元の木片が一つの作品として形を成してきた頃合い、張遼は改めて亭子の周囲を見渡した。人の気配はなく、しかし庭の手入れは行き届いている。小さな池には生き物でも住んでいるのか、さざ波が僅かに揺れて陽光を受けて光を反射していた。時折聴こえてくるのは鴬の鳴き声だろうか。つい耳を澄ませたくなるような穏やかさだ。

「ここは随分と静かだ」

 戦場では味わえない静寂は不思議と心を落ち着かせる。若者の傍で焚かれている桂皮の香気も手伝っているのか、まるで亭子を中心とした空間が塵世を忘れた幽境のように思えた。

「人が寄り付かないのには理由がある。確かなのは張将軍のような方が来る場所ではない、ということだ」

 何気ない独り言に返された声には冷たさが宿っていた。けれど木屑を払い除けるための吐息は意外にも柔らかく、また優しいものであった。
 それから若者は彫刻を目線の高さまで上げると、何度も角度を変えてはその出来栄えを確かめ始める。じっくりと観察し、それだけでは足りないのか亭子の外へ腕を差し出した。彫刻を陽の下にかざして、刻まれた面に落ちる影を眺めているのだろう。程なくして、小刀を膝に置くと指の腹で彫った面を撫でた後、ようやく満足そうに小さく頷いた。

「納得のいく出来に仕上がったようだな」

 完成を察した張遼が立ち上がる。するとその意図を理解したのか、若者は渋々と言った様子で彫刻を差し出した。
 その刹那、若者の視線がふと張遼の背後へと向けられる。何かを捉えた瞳が揺れ、僅かに顔が強張り、空気が張り詰めた。次の瞬間、ほとんど押しつけるように彫刻を手渡すと、小刀を素早く鞘に収めて懐へ仕舞い込んだ。そして体を支えるようにして高欄に手をつきながら立ち上がる。

「む……何事か」
「家僮が来た。あの者に正門まで案内してもらうといい」
「貴公は、まだ名も聞いていない」
「……次に俺を見かけても構わないでくれていい。そなたにも悪評が響いてしまう」

 突き放すように告げると若者は腰掛に立てかけていた杖を手に取り、覚束ない足取りで亭子を去っていく。その足音、いや、杖が地を打つ二つの音に張遼は違和感を抱いた。片足を庇うような姿勢で歩いているだけならば、怪我をしているのだと気にすることはなかっただろう。遠ざかっていく若者の足元に自然と視線が向かった。
 歩行に合わせて揺れる下衣の隙間から覗くのは、丁寧に削られ形の整えられた木製の義肢だった。張遼はそこで初めて、若者に片足がないことに気付いたのだ。
 亭子に満ちていた静寂が、今はどこか空虚に感じられる。香の香りも若者と共に風に流され消えてしまったようだ。入れ替わるように現れた家僮には目もくれず、張遼は去り行く背中をじっと見つめたまま口を開いた。

「あの者の名は?」
「はっ。曹操様のご子息、曹名様にございます」

 やはり、と声には出さずに心の中で呟いた。驚きはない。どこかで確信していたのだろう。風貌は騙せても、纏う雰囲気までは誤魔化すことはできない。亭子に漂う静かな緊張と刃先に宿る力の確かさは、非凡なる者には出せないものだ。そして瞳の奥に潜む理知の輝きは、父の血を継いでいる証だろう。若者自身にそのつもりはないのだろうが、些細な仕草の端々にあの男の気配が滲み出ていた。
 それを悟るのに然程の時は要らなかった。武人としての直観もあるが、いくら己を卑下しようとも血に宿るものまでは隠せはしないのだから。