騎馬兵の調練を終えた張遼は帰路の途上、見廻りを兼ねて下町へと足を向けた。城下町ほどには整えられていない土の通りには柔らかな日差しが降り注ぎ、木戸や屋台の軒が長い影を落としている。陽はすでに高く、時刻が昼に差し掛かっていることを告げていた。そのためか往来の人出は多く、荷を担ぐ者や水桶を抱える女たちが忙しなく行き交う。商人たちは声を張り上げて客を呼び込み、通りには活気が満ちていた。
統べる者が変われば、民の暮らしもかくも様変わりするものか、と感慨に浸りかけたその時であった。
張遼の目が人混みの奥にふと引き寄せられる。雑踏の中にありながら、不思議と周囲に呑まれぬ落ち着きを纏った人物がいた。一見すれば質素な衣に身を包んだ下町の若者と変わらない。だが、その手に握られた杖には見覚えがあった。
脳裏に浮かぶのは、広い庭にひっそりと建つ亭子と、そこにいる独りの若者の姿だ。
手綱を僅かに引けば、愛馬が小さく鼻を鳴らして歩調を落とした。鞍上から改めて視線を巡らせたが、周囲には護衛らしき侍女も下男も見当たらない。強面の表情をさらに顰めた張遼は馬から降り、手綱を部下に預けるとそのまま戻るよう命じる。そうして杖をつき、路地へと入っていく若者へと足早に歩み寄った。
「待たれよ。護衛も付けず、何をしておられるか」
片足の不自由な相手を追うのは容易なことだった。声をかけながら腕に触れると、若者は驚きの色を浮かべて勢いよく振り返る。
「……俺の言葉を忘れたか。構わないでくれと言っただろう」
そして若者──曹名は引き留めたのが張遼だと分かると、逃げるように顔を逸らした。その表情にはやはりと言うべきか、警戒と戸惑いが入り混じっている。
曹名自身もどう抗うべきか迷っていた。触れられた腕は強く握られているわけではない。振り払おうと思えば簡単に外すことができるだろう。問題は掴む手ではなく目だ。再び張遼を見上げれば、その瞳が物語っているのだから。逸らすことさえ許されない厳しい視線。けれどもそれは、ただ冷たく責めているのではない。
だからこそ余計に厄介なのだ。複雑な思いを抱いた曹名は抗ったところで逃げられはしないと悟り、諦めたように息を吐いた。
「薬草を買いに来ただけだ」
「薬など城内でも用立ては出来ましょう。ご自身の立場をお忘れなきよう」
「解っている。解っているからこそ、ここまで来なければならんのだ」
緊張の滲んだ声音に含まれる言葉の意味を張遼は静かに理解した。同時に、耳にしてきた数々の評判が思い出される。
屋敷の奥での邂逅からほどなくして、曹名の人物評は望まずとも噂となって張遼の耳に入り込んできた。調練の場での雑談、酒宴の席での戯れ言、書庫の片隅や庭先で交わされる何気ない囁き。他の武将や文官がふとその名を口にするたび、無意識に耳を澄ませていた。
だが、その内容の多くは感心できるものではない。並ぶのは賞賛ではなく陰口と評判話ばかりであった。
「やはり曹名様は嫡男に選ばれなかったとか」
「当然よ。生まれつき片足がないと聞くし、病弱で屋敷からほとんど顔を出さぬそうだ」
「学問の師も辞めさせたのだろう。いや、穀潰し扱いされても仕方なかろう」
「武でも学でも、どうにも役に立たんとはな」
「弟君の曹丕様のほうがずっと優秀だそうだ」
嘆かわしいことに、そう口にする者たちは皆、曹名と直接相対したことがないという。戦場に立てぬ身体であるのは事実。しかし、亭子で目にしたあの精巧な木彫りも、理知を湛えた眼差しもまた紛れもない真実である。それらは今なお張遼の脳裏に焼き付いて離れない。あの場で交わした僅かな言葉だけでも、強かさと繊細さは十分に感じ取れた。
何より父である曹孟徳を思わせる鋭い瞳の光は、軽々しい評判などで推し量れるものではなかった。
こうして下町に一人でいると屋敷の者に知られてしまえば、また新たな噂を呼ぶに違いない。それはやがて尾ひれをつけて広まり、巡り巡って曹操の耳にも届くだろう。曹名の立場を思えば、それが父の負担となることも避けたいはずだ。やや不安の色が浮かぶ表情が物語っているのは、まさにその懸念であろうと読み取れる。
張遼は掴んでいた腕から静かに手を離した。
「ご安心なされよ。口外は致さぬ」
その言葉に曹名は微かに安堵の息を吐く。だがすぐに視線を逸らし、通りを行き交う人々や奥の路地へと目を走らせた。隣にこれほど目立つ男が立てば、警戒を強めるのも無理はない。幸い、通りはいまが最も賑わう刻であるらしく人々の関心がこちらに向く事態は避けられたようだ。皆いつも通りの日常を過ごしている。
ふと、広い通りの向こうに馬を連れた歩兵の姿が見えた。改めて張遼を見れば戦場へ赴く折と変わらない装いをしている。鎧の縁や衣の裾には、先ほどまで馬を駆っていた名残と思しき土埃が所々に残っていた。
「……張将軍は調練の帰りか」
「いかにも」
「そうか。父上のために励むとよい」
曹名はもはや曹操との関係を隠そうとはしなかった。先程の張遼の言動から自らの素性が既に知られていることは解っている。もとより隠し立てするつもりはなかったが、かといって誇るべき立場にもない。したがって敢えて口にしなかったに過ぎなかったが、今となっては無用な気遣いとなろう。
気持ちを切り替えるように微かに息を落とし、曹名は視線を並び立つ屋台へと移した。目当ての薬草を扱う馴染みの店は、もうほど近い。用を済ませ次第、屋敷へ戻る。そう告げたところで傍らに立つ男が素直に引き下がるとは思えなかった。出会ってから日は浅い。だが、その紳士然とした振る舞いが打算から出たものではないと見抜ける程度には、人を見る目は備えているつもりだった。
この場でこのまま押し問答を重ねても却って人目を引いてしまう。そう判断すると曹名はひとまず張遼に背を向けた。そして杖をつき、歩み出しかけてから顔だけを軽く振り返る。
「放っておけと言っても効かぬのだろう。付いて来るのなら俺の名は口にするな。これ以上、目立ちたくはない」
「うむ、承知した」
緩やかに歩き出した曹名の一歩後ろを張遼は黙して従った。
杖と義肢が土を打つ乾いた音が雑踏のざわめきに紛れて小さく響く。人波を縫うように進む足取りは覚束なく見えて、その実、無駄がない。やがて軒の低い一角、乾いた薬草を積み上げた店先で立ち止まった。仄かに苦みを含んだ香りが漂う。
店主と言葉を交わす曹名の様子に気負いはなく、差し出された品を確かめる手つきも慣れたものだった。指先で葉脈をなぞり、色艶を観察し、茎を折って匂いを嗅ぐ。その一連の仕草は紛れもなく常連のそれで、屋敷の奥にいる病弱な庶子の姿とはまるで重ならない。
──なるほど、これでは誰も気付くまい。
得心がいったように頷いた張遼は、そのまま声を挟まず、薬草を選ぶその横顔を静かに見つめ続けた。
店主から受け取った薬草の束を腰に下げた布袋へと仕舞った曹名が再び歩き出した。杖を軽く地面に打ち付けながら進む足先は、寄り道することなく城下町へと続く門へと向かっている。懸念しすぎる程のことではなかったのやもしれない。少し出過ぎた真似だったかと省みるも、家屋の影から抜け出した瞬間にはその考えも消えた。陽光を受けた顔が思った以上に色が冴えず、僅かに陰影が落ちていると分かったからだ。
張遼は一歩半ほどの距離を一足で縮めて横に並び、歩調を合わせる。
「以前お会いした時より顔色が落ちているように見えます。体調が芳しくないのでは」
「健やかである方が珍しいくらいだ。特に俺の場合は薬が手放せん」
「それゆえ自ら薬草を扱うと。医師もおられるでしょうに」
「屋敷で囲っている医師は母の息がかかっている。信用はできない」
なぜ母君が、と胸中で訝しむ。戦場ならば疑うも道理。だが母子の間に不信があるとは穏やかではない。何より、あの曹操が気付かぬはずがないのだ。天下を制する覇道の眼は、必ずや見抜いていることだろう。必要以上に干渉はしないのだろうが、敢えて目を逸らすようなことでもないはずだ。
そうした思いが顔に出てしまったのだろう。横目でそれを悟った曹名が目を細めて乾いた笑みを零した。
「母のことまでは、そなたの耳に届いてはいないか。だが、大方察しがつくのではないか」
屋台の並ぶ通りを抜けると空き家の壁際に据えられた粗末な長椅子がある。丁度、休憩していた商人が立ち去ったところらしい。
「少し、休むとしよう」
曹名は一度立ち止まり、空いた長椅子へと向かった。人気のなくなった椅子にゆっくりと腰を下ろし、杖を傍らに立てかける。そして、陽光を遮るように脇に立った張遼に軽く手を差し伸べて座るよう促した。一瞬の躊躇いの後、やがて静かに並んで座る武人の様子を見届け、義肢を着けている足をそっと労わるように撫でる。
「愛する男の征く道を支えんがために身を捧げ生んだ子が、重荷となり、枷となる存在として生まれてしまった」
その語り口は、屋根に舞う鳥の声に話しかけるかのように柔らかく、内容とは裏腹に穏やかだった。けれど同時に、長く抱えた想いの重さがそっと滲んでいる。
「望んだものは得られず、理想も願望も砕かれて、どうして我が子を愛せようか」
通りを行き交う人々を見つめる瞳が、元気に駆け回る子供たちの姿を捉える。目元は自然と細まり、そこには憎悪はなく、羨望もない。ただ健やかな姿を慈しんでいるのだと、張遼にはそう映った。
「母上は俺を恨んでいる。だから俺は、あの人が穏やかに過ごせるように……」
言葉はそこで途切れた。いや、語ることを自ら止めたといった方が正しいだろうか。口を閉じた表情には自戒の念が浮かんでいる。気付けば静かだと思われた空間に町のざわめきが戻って来ていた。
不思議だ、と張遼は目を緩める。亭子で出会った時にも感じたことだが、曹名の傍にいると何故か心が落ち着く。纏う雰囲気のせいか、或いは、父と同じく場を支配することに長けているのか。いずれにせよ、その才を眠らせておくのはもったいないと密かに思った。
「瑣末な話だった。忘れてくれ」
軽く顔を横に振った曹名は肩の力を抜き、誤魔化すように小さく笑って張遼を見上げる。
「ところで、相当熱心に鍛錬に励んだようだな。頬に血の滲んだ痕がある」
「掠り傷程度でしょう。ご心配めさらぬよう」
「僅かな傷でも放っておくな。偉大な武人も病には勝てない」
そう言うと曹名は懐へ手を差し入れ、木製の小ぶりな丸盒を取り出した。掌に収まるほどの蓋付きの器で、外面には控えめながらも端正な文様が彫り込まれている。その彫りの手際は、亭子で見た細工とどこか通じるものがあった。
「これをやろう」
張遼へと差し出されたそれは、使い込まれているのか木肌が僅かに艶を帯びていた。
「俺が作った薬だ。傷口に塗るといい。心配せずとも、知人の医者に製法を学んだ。効果はある」
「そこまで医学の心得があろうとは驚きだ。私が使っても差し支えはないでしょうか」
「見えぬ箇所にも傷はあろう。使い切ってしまって構わない」
「だが、これは曹名殿がご自身のために用意されたものでは……」
先程も薬が手放せないと言っていたばかりだ。病弱な体質だということは今の顔色からも明らか。塗り薬までも携えているのは木彫りを趣味としているからだろう。刃物を扱う以上、作業中の小さな怪我は避けられない。掌にある丸盒はそのための薬であることも理解できる。だからこそ躊躇いを抱いてしまうのも無理はなかった。
渋って受け取ろうとしない張遼を前に、曹名は困ったように軽い笑みを浮かべる。そして膝の上で握られた武骨な拳をそっと開かせ、丸盒をその掌に置いた。
「父上はそなたを随分と高く評価しておられると聞く。ならば、常に万全の状態でいるべきだと俺は考えるが?」
「うむ……もはや何も申すまい。有難く使わせていただこう」
そうまで言われてしまえば否と応えることもできず、張遼は木肌の感触を確かめるように優しく丸盒を握る。些細な怪我を労わられるのは稀なことで、少しばかり面映ゆい気持ちであった。
暫くの後、休憩を終えるかのように立ち上がる曹名に続いて張遼も腰を上げた。通りの人々を避けながら、杖をついて歩くその後ろ姿は頼りなく見える。けれど、将来この若者が自らの主となれぬことを残念に思ってしまう。素質は十分にある。しかし、それに相応しい身体が与えられていないのだ。
張遼は空を仰ぎ、自由に羽ばたく鳥を見つめた。天は、なんと過酷な試練をこの者に課したものか。