張遼と曹家庶子 03


 書屋にて詩経の句を追っていた曹操の手が、ふと止まった。庭の奥より風に乗って琵琶の音が届いたからである。 奏でる者を写したかように澄んだ調べはまだ若く、どこか寂しさを孕んでいた。けれど、確かな律を宿している。開け放たれた戸口の傍らで欄干越しに庭を見下ろしていた夏侯惇もまた、その音に気付いて視線を細めた。
 青葉に満ちた庭の最奥に建つ亭子の影は小さくとも、そこにいる奏者が誰であるかは言葉を交わさずとも明らかであった。

「知らぬ間に随分と上達したようだな」
「子の成長とは恐ろしいものよ」

 最初こそ拙い演奏であったが、戦から戻るたびに庭先から響く音色は次第に歌うような旋律を帯びていった。その変化を曹操が密かな楽しみとしていることを夏侯惇は知っている。威厳を湛えた声に微かな笑みが混じっていることも筒抜けだ。それほど喜んでいるのなら直接本人にその想いを伝えればよい。そうすれば曹名の肩の荷も少しは軽くなるだろうに、と呆れ半分に肩を竦めた。
 何より、曹名が手にしている琵琶はただの贈り物ではない。手先の器用さを見抜いた曹操自身が、趣向の一つとなればと贈ったものだ。そこには父の期待と関心が込められている。しかし、それを知っている者は少ない。

「余計な噂を立てる者どもに一度聴かせてやれば黙るのではないか」
「うむ……それもよいかもしれんな」

 夏侯惇の提案に曹操は暫し思案した。
 曹昂が亡くなって以降、忘れていたかのように側室との子の名を口にする者は多かった。嫡嗣の問題は争いの種となりかねず、徒に波風を立てられるのは本意ではない。ならばこれを機に、曹名の立場を定めてしまうのも悪くはあるまい。折しも、迫る戦に備えて指揮を高めるための酒宴が開かれる。その酒宴の場に息子を呼び、琵琶を披露させればいいだけのこと。たとえ一つでも才を示せば、周囲の見る目も変わることだろう。
 曹操は両手を組み、僅かばかり目を伏せた。息子の才能を目にし、或いは評判を耳にすれば、母である女の恨みの糸もまた解きほぐされるかもしれない。己を健気に想うあまり、我が子に歪んだ愛情を向ける彼女の姿を静かに想像して瞼を閉じる。

「殿。頼まれていた件についての報告を……あー、出直したほうがいいですか?」

 書屋の静寂を裂くように軽やかな声が響いた。姿を現したのは李典である。詩経に耽っていると聞きつけて訪れたものの、思いのほか厳かな空気だったことに驚いたのだろう。戸口で足を止めてしまった男に曹操は小さく頷いた。

「丁度いい。李典、お前の意見を聞こう」
「俺の、ですか? 次の戦のことでしたら荀ケ殿たちを呼んできますよ」
「お前でなければならん。我が倅のことよ」

 倅、と聞いて李典の脳裏に浮かんだのは二人の若君だった。一人は曹昂亡き後、正室卞氏の子として家中の目を集める曹丕。もう一人は病弱故に屋敷に籠もる曹名である。そこで曹操の背後、窓辺に立つ夏侯惇が無言で顎を外へ向けた。庭から微かに届く琵琶の音色が、自然と答えをひとつに定めた。

「あやつを酒宴の場に呼び、皆の前で楽師として演奏させる」
「……なるほど。殿の目論見は解りました。ですが、若が了承するとは思えません」
「であろうな。ならば李典よ、説得してみてはくれぬか」
「これまた無茶なことを。難攻不落の砦を落とすようなものですって」

 思わず眉尻を下げた李典は人懐っこい困ったような笑みを浮かべた。
 曹名が人に対して強い警戒心を抱いていることは、この場にいる誰もが承知している。加えて己を過度に低く見る癖もあり、何か一つ褒めたところで返ってくるのは行き過ぎた謙遜ばかりだ。身内が集まる場に出てくることも稀だと聞いている。そんな彼が自らを見縊り、値踏みするような視線が集まる場に進んで姿を現すなど到底考えられなかった。
 そこに成り行きを黙して見守っていた夏侯惇が低く口を開く。

「孟徳。俺が提案したこととはいえ無理強いはよせ。あいつの意思は尊重すべきだろう」
「だからこそだ。私が直接赴いては、あやつは拒むこともできん」

 そこにあったのは覇を志す主君の策というより、一人の父としての情であった。事実、曹操の前で否と口にできる者は多くない。まして実子であれば尚のこと抗う術はないだろう。
 李典はその思いを汲み取り、心得たとばかりに頷いた。

「ま、やれるだけやってみます」

 そして拱手をした後、書屋を後にした。戸が閉ざされると室内には再び琵琶の音が満ちる。曹操は静かに詩経の句へと視線を落としながら、庭の奥から届く調べにそっと耳を傾けた。



 屋敷の奥深くの庭にひっそりと佇む亭子には常に寂寥が住みついている。
 曹名は琵琶を弾く手を止め、高欄を越えて外へと手を伸ばした。そよぐ風が手の甲を撫で、指の間を抜けていく。相も変わらず物寂しいこの場所に人は寄り付かない。だが最近、折に触れて訪ねてくる物好きな知り合いができた。その者は己とは正反対に戦場にこそ生きる武人である。出会ったこの場所が、いつしか不思議な縁を育む場となっていた。
 そうしてかの御仁の姿を思い浮かべていると、小さな足音と人の気配がして僅かに胸が跳ねた。緊張からではない高鳴りにはまだ慣れず、戸惑いながら振り返る。

「若」

 耳に届いた声も、朗らかな笑みを浮かべた姿も、無意識に望んでいた者ではなかった。けれど「若」と親しげに呼ぶのはただ一人。その声音に幼少の頃の記憶がふと蘇る。
 亭子にやってきたのは李典だった。

「何か、用だろうか」

 曹名の表情に微かに落胆の色が滲んだ。まるで何かを期待していたような、誰かを待っていたかのような反応に、李典は思わず眉を寄せる。警戒や諦め、居心地の悪さならこれまで幾度も目にしてきた。しかし今向けられた瞳に宿る感情は初めてのものだ。それはきっと我が子を案じる曹操が望んでいるものだろう。何より、己自身が欲していたものでもある。
 それが他者へ向けられているのだと突きつけられるのは、決して愉快な気分ではない。

「用がなければ会いに来てはいけませんか?」

 嫉妬にも似た感情が声に乗ってしまったのか、曹名が視線を逸らし言葉を詰まらせた。おそらく咎められたのだと受け取ったのだろう。
 またやってしまった、と李典は小さく肩を竦めた。この反応ですら悪い意味で捉えられるに違いない。それほどまでに屋敷に引き籠る若君の中で築かれた他者との壁は厚く、齟齬が生じている。
 二人の間に流れる気まずい空気を変えるように、李典は高欄から身を乗り出して空を見上げた。

「いい天気ですね。遠乗りするには絶好の日だ」
「……それは辞めた方がいい。暫くすれば雨が降る。風が湿ってきた」
「えっ……うわ、本当だ」

 遠くの空を見ると確かに厚い雲が迫っていた。戦場ならばすぐに気付いていただろう。無理に会話を続けようとして適当に口走ってしまった自分が少し情けなく、くしゃりと後ろ髪をかいた。

「あーなにやってんだ、俺」

 こうして面と向かって話すのは数年振りになる。初めて出会った頃の曹名は今よりもずっと幼く、ずっと繊細であった。なかなか心を開いてくれず、かと言ってゆっくりと時間をかけて信頼を築けるだけの余裕もなかった。主の求める世はまだ道半ば。忙しさを理由に孤独な若君との交流は諦めた。そのつけがこうして回ってきたのだろう。
 だが今は自分の行いを悔いている場合ではない。李典は軽く首を振り、改めて向き直った。

「殿が酒宴の席に若を招待したいとの仰せです。演奏を披露してほしいそうですよ」
「父上が……酒宴は皆を労い鼓舞するための場であろう。何故、俺が……」

 戸惑いを隠しきれない声音がだんだんとか細くなっていった。曹名は膝に置いていた琵琶を胸元へと抱き寄せ、細い指で胴の縁を撫でる。
 まるで己を守る盾にでもするかのようなその仕草には、やはり警戒心が滲んでいた。仕方のないこととはいえ、これまで半ば放置されてきたも同然の扱いを受けていたのだ。困惑を隠せぬのも無理はない。
 せめて張り詰めた空気を和らげようと、李典はそっと背を向けて一歩だけ距離を取った。

「そりゃあ急な話で若も困りますよね。俺もついさっき聞いたばかりでして……殿の考えることには驚かされてばかりだ」

 努めて軽い口調を装いながらも内心では悩んでいた。曹操が案じている通り、戦にも政にも役目を与えられぬ若君を快く思わぬ者は少なからずいる。陰口だけで済めばいいのだが、公の場に姿を現せば好奇や侮りの視線を向けられることは避けられないだろう。今の様子を見る限り、それらを受け止めきれるとは思えない。
 それでも、李典ならばと任せてくれた主の思いを裏切るわけにはいかなかった。託されたからには成し遂げたいと、きっと自分が想像している以上の成果が得られるのだと信じたい。
 再び振り返り、腰掛に座る曹名と視線を合わせるように身を屈めた。

「若。殿は決して意味のないことはなさらない」
「だが、俺の技量など遊びの延長に過ぎない。父上に聴かせられるほど立派なものでは……」

 力強く、けれども優しさを帯びた眼差しに、曹名は眩しさを感じて視線をそっと落とした。抱え込んだ琵琶の弦に影が差し、その表情もまた翳る。己を低く見積もる癖はもはや呼吸のようなもので、簡単には拭えるものではなかった。
 微かに強張った細い肩に優しく手が置かれた。

「大丈夫ですって。宮廷の楽師のように立派でなくとも、誰も若を責めませんよ。それに悪い事よりも、良い事が起きそうな予感もしてるんです」

 冗談めかした言い回しではあったが、李典は己の勘に自信を持っている。言葉通り、胸騒ぎのようなものは感じていなかった。
 戦場においてその才が幾度も兵の窮地を救ってきたことは、曹名の耳にも届いている。ゆるりと顔を上げると、懐疑の色を帯びた瞳が真意を探ろうと真っ直ぐに李典を射抜く。その視線は年若い身には似つかわしくないほどに鋭く、一瞬、錯覚を覚えるほどに曹操とよく似ていた。
 それがなぜか嬉しくて李典は僅かに口元を緩める。

「この話をお引き受けくださると殿が喜ばれます。もちろん俺も」
「本当に父上はそれを望まれているのか」

 その問いに迷わず強く頷いた。これ以上はどんな弁舌も尽くす必要はない。主を思わす瞳が、きっと偽りはないと見抜いたはずだ。
 暫し黙した後、曹名は緩やかに視線を落とした。抱えた琵琶を撫でると指先が弦に触れて微かに震える。音にならぬ揺らぎは、まるで胸の内を映しているようだった。

「……父上の期待には応えたい。善処しよう」

 それは決意というよりも自らを奮い立たせるための呟きに近かった。胸の奥にある疑念がすべて晴れたわけではない。不安は取り除かれることはなく、応じたことでより一層重くのしかかる。それでも前へ踏み出そうとする意思がそこにはあった。
 はっきりとした返事ではなかったが、確かな歩み寄りに李典は柔らかな笑みを浮かべた。そして静かに立ち上がり、名残を断ち切るように踵を返す。

「そろそろ降ってきそうだ。雨が降る前に自室へ戻ってくださいね」

 気遣う言葉を残して去っていくその背を見送りながら、曹名は琵琶を抱えたまま腰掛に身を横たえた。張り詰めていた糸が解けたのか、疲れが一気に押し寄せる。米神の奥が鈍く疼き、弦を撫でる指先は池の水の如く冷えていた。凪いだ風がそっと吹き抜け、労わるように前髪を揺らしていく。耳を澄ませると遠くの方から調練に励む兵の声が聞こえた気がした。
 雨の匂いが近付いてきたのを感じ取り、そっと瞼を閉じた。