手にした果実はまるで己を映したかのように青臭く、ひと齧りすれば口内に強い酸味が広がった。鳥でさえ見向きもしない不出来な実であっても、親から与えられた餌ならば黙して受け入れねばならない。誤って種まで噛み砕かぬよう気を配りながら未熟で硬い果肉に歯を立てる。刺すような酸味が胸の内に巣食う不安を僅かでも掻き消してくれることを願いながら、奥歯で噛み潰した実を飲み込んだ。
ついに今夜が曹操に招かれた酒宴の日。曹名は腰掛の上に置かれた琵琶へとそっと手を伸ばし、その表面を静かに撫でた。
「琵琶を嗜んでおられるのか。曹名殿は手先が器用ゆえ、腕も良いのでしょうな」
「どうだろうな。人に聴かせたことがないから出来の程は分からん」
挨拶もなくかけられた声に曹名は特に意を払わなかった。亭子へ近づく人の気配にはすでに気付いていたし、それが誰であるかも察していた。相手もまた、それを承知の上で声をかけてきたに違いない。そう思えるほどにこの場所で共に過ごした時間は少なくなかった。
声のした方へと視線を向けると、亭子に足を踏み入れてきたのはやはり張遼であった。大事な戦を前にしているためか過度な調練は控えているのだろう。平服に身を包んだ姿はどこか新鮮に映った。
「戦場に名を轟かせる武人も、その姿であれば随分と身近に見えるものだな」
武人としての威厳は依然としてある。しかし見た目の印象は以前とは異なり、曹名には不思議と距離が縮まったように感じられた。
だが、胸の奥に広がった安堵は同時に醜い烏滸がましさをも自覚させる。幼少の頃より抱え込んできた武人になれぬ無力さと遣る瀬無さ。心の奥で息を潜めていたそれを、無意識のうちに張遼とも比べていたのだろう。それが僅かでも和らいだことに却って己の弱さを思い知らされた。
「すまない、今のは聞かなかったことにしてくれ」
曹名の卑屈さは今に始まったことではない。張遼もその性分を理解しているが故に、小さく微笑んでそのまま隣に腰を下ろした。
「ならば、これよりはこの装いで貴公の元へと参ろうか」
「揶揄わないでくれ。我ながら失礼なことを申したと思っている」
気恥ずかしさを誤魔化すように顔を背ける曹名に、張遼は思わず声を上げて笑った。その視線がふと、二人の間に収まるように置かれた果実へと向けられる。皿の上に無造作に並べられた実はどこか見覚えのあるものだった。記憶の中にあるそれとの違いは実の色合いだろう。
「これは杏か」
「ああ。母から頂いたものだ」
「まだ熟していないように見えるが……」
青みを残したそれらは、未だ熟しきっていないようで仄かに酸の香りを漂わせていた。明らかに人が食すには早いと一目で分かる。
「然り。これはまだ未熟な実だ。間違っても口にはするな。苦しみたくはないだろう」
そう言ってのける声音はあまりにも平然としていた。だが、皿の上にはすでに食されたことを示すようにいくつもの種が残されている。曹名の手にもまた、齧りかけの実が握られていた。先程から漂っていた酸の香りもそれが要因なのだろう。
未熟な果実には害があることなど幼子でも知っている。飢えた獣でさえ本能で避けるほどだ。口振りからして曹名がそれを知らぬはずもない。医学の心得もあるのだから、果実に含まれる毒性も知識として持ち合わせているだろう。だからこそ張遼には理解が及ばず、思わず顔を顰めた。
「害あるものと知りながら、何故口にする」
「言ったであろう。これは母から頂いたものだ。無下にはできん」
「熟すのを待てばよかろう」
「それではあの人にとって意味がない」
「何を申して…………まさか、あり得ん」
害がなければならない。その意味合いに思い至った張遼は息を呑み、動揺を露わにした。そして以前、下町で聞いた曹名の言葉が脳裏を過ぎる。どうして我が子を愛せようか、と。母上は俺を恨んでいる、と。確かにそう語っていた。あれは子から見た親の生半可な想いなどではなく、言葉以上に淀んだ真実が込められていたのだ。
そうして苦虫を噛み潰したような顔を露わにする張遼の横顔を見つめた後、曹名は手元の果実に視線を落とした。
「張将軍。そなたにひとつ、秘密を教えよう。これは父上も存じ上げないことだ」
一拍の間を置き、示し合わせたかのように二人の視線が静かに交差した。一方は言葉の続きを促し、もう一方は覚悟を問うように、それぞれ異なる色を宿している。
曹名は僅かに目元を細めると腰掛に片手を着いて重心を張遼へと寄せた。誰に聞かれるわけでもないが、それでも警戒は怠らない。
「俺は元来、病弱ではない。この体を鈍らたらしめているのは、母より注がれる毒のせいよ」
そうしてそっと耳元に顔を近付け、まるで物語を囁くように語り始めた。
食事に毒が仕込まれていると気付いたのは随分と昔のことだった。体調が著しく崩れるのは決まって何かを口にした直後だったからだ。最初は侍女に疑いを向けた。食事を用意するのは彼女なのだから当然のことだろう。だがいくら疎まれようとも、後継者争いの舞台にすら上がれない曹名を毒殺しようなどという者はいない。仮にいたとしても、じわじわと年月をかけて毒を盛る必要はないはずだ。
では誰が、何を目的として毒を盛るのか。侍女に問うても彼女は顔を青褪め、許しを乞うばかりで名は上がらなかった。だからこそ、悟ったのだ。
母は我が子を病気と偽らせ殺そうとしている、と。
不思議はなかった。疑問もなかった。けれど、自分はそこまで疎まれていたのかと、やはり少し悲しくはあった。それでも望まれているのならと受け入れた。母に命じられた侍女には、行いを続けさせ、咎めもせず、口止めもしていない。自分の身が危ぶまれる行動を選ぶことはないだろうと理解していたからだ。
だから母は、我が子が知っていることに気付かず、死を願っては毒を仕込み続けている。
「俺は生まれた時よりずっとそうして生きていた」
そう告げて体を離した曹名の顔を張遼が見つめる。その瞳に映るのは驚愕と困惑、そして隠しきれない憐みがあった。
「実の子にそのような仕打ち、到底許されるものではないっ」
「これは母が唯一、俺に向けた願いなのだ。それすらも許されなくなってしまっては可哀想だろう」
憐れなのは自分であるはずなのに、曹名の慈悲の矛先は母へと向けられていた。手にした果実がその象徴とも言えよう。本来なら体が受け付けぬ酸味や苦味、そしてえぐみでさえも、母が受ける哀しみや苦しみと同じだと思えば拒むことはできない。幸いにも、病弱だと言われた体はそれらに慣れてしまっていた。
曹名は小さく笑うと食べかけの実を再び口元に近付ける。
「よさぬか!」
咄嗟の行動だったのだろう。張遼は力加減もままならぬまま、果実を持つ手を掴んだ。行動を阻まれた曹名は痛みに顔を顰めたが、何も言わず静かに手首を掴む手に触れた。
「俺はな、これを母からの一種の愛なのだと受け止めているよ」
そうと思い込まなければ自分を保つことはできない。望まれた先が死であっても拒むことはできないのだ。でなければ、本当に誰の目にも映らぬ透明な存在になってしまう。
張遼には、真っ直ぐに向けられた瞳がそう訴えているかのように見えた。
「曹名殿……」
曹名の抱えるもの、置かれている環境の歪さ、それらが嫌でも突きつけられる。戸惑いが出たのか、掴んでいた手首から力なく手を離した。
「貴公は、気付いたにも関わらず、その身を危険に晒し続けるのかっ」
「俺もこの体がいつ腐り朽ちるのか興味がある。そう答えたら、納得してくれるか」
「できるはずがなかろう!」
声を荒らげた張遼は思わず立ち上がった。表情を伺わずとも纏う空気が抑えきれぬ怒りを露わにしている。
亭子は一時の静寂に包まれ、屋敷の奥からは何事かと色めき立つ声も僅かに漏れ聞こえた。すぐに誰かが様子を探りに姿を見せることだろう。そうしてまた噂が立つのだ。病弱な庶子が将軍の怒りを買った、と。曹名の視界には力が入りすぎて微かに震える武骨な拳があった。
「呆れてくれて構わない。失望してくれて構わない。元より、期待など抱いてはいないだろうがな」
「貴公は何故っ……いや、此度はこれにて失礼する」
ぐっと何かを堪えるように眉を顰めた張遼は、顔を背け、目を合わせようとしないまま亭子を去っていった。
曹名もまた、遠ざかる背を見届けるだけで追いかけようとはしなかった。例え健全な足があろうともその選択はしなかっただろう。やがて姿が見えなくなると手元に視線を落とし、食べかけの果実を皿に転がす。
「そなたは怒ってくれるのだな」
その呟きは誰にも届かず霧散していった。同情を寄せる者はいても、憤りを示す者は初めてだ。それが曹名にとって喜ばしいことなのは確かだろう。
差し込む西日から目を背け、思い出したかのように膝の上に琵琶を乗せる。あれほど押し寄せていた不安は、張遼の顔を見た途端に驚くほど和らいでいた。いや、一時でも忘れさせてもらえた、と言った方が正しいのかもしれない。
不思議と張遼の傍は居心地が良く、己の至らなさを晒してしまうことに躊躇いがなくなる。きっと心を許し始めているのだろう。そんな存在が現れるなどと曹名は考えたことすらないのだ。だから感謝こそあれど、軽蔑されたとしても悲しくはなかった。
陽が暮れて灯籠に火が灯される。屋敷の広間には杯を交わす音と賑やかな笑い声が満ちていた。
しかし、その喧騒は張遼の耳には遠いもののように感じられた。酒宴の席に着いていても、巡る思考は亭子での出来事に囚われたままだ。さすがに怒りは鎮まったが、何故あのように感情を露わにしたのか自分でも整理がつかない。おかげで口に運ぶ酒も一向に酔いをもたらさなかった。
最初は望まれた死を抵抗もせずに受け入れている態度に対してかと思っていた。だが冷静になれば、すぐに違うと分かる。曹名は生きるために医学を学び、病弱な身体に抗っていた。
ならば何も知らぬ曹操か、歪な感情を我が子へ向ける母親か。結局答えを見つけられぬまま杯を空にした張遼は、夜風に当たろうと席を立った。
広間を出ると灯籠の数は途端に減り、辺りは薄暗い。時折、給仕の者が忙しなく行き交うだけで人の気配もまばらだった。宴の場を離れても咎める者はいまい。そうして歩き出した足は数歩進んだところで止まる。こつ、こつ、と足音とは異なる何かを突く音が背後の喧騒に紛れて耳に届いたからだ。
「曹名殿?」
周囲を見渡せば、灯籠と月明かりに照らされ暗がりの中に浮かぶ背を見止めた。考えるよりも先に体が動く。足早に近付くと、こちらの気配に気付いたのか曹名が立ち止まり振り返った。そこに驚いた様子はなく、むしろ困ったような笑みを浮かべている。
「そなたに勘付かれるとは、運が良いのか悪いのか……」
歯切れの悪い物言いに、張遼は亭子での出来事を気にしているのだろうと思った。だが、杖を持たぬ片手には琵琶が抱えられている。
その視線に気付いたのか曹名もまた手元へと目を落とした。
「ああ、父上に招かれたのだ。これを弾いて欲しいと」
「なるほど。殿の機嫌が良いのはそのためか」
張遼は視線を宴の場へと向ける。格子戸越しに見える曹操は表情こそ普段と変わらぬものの、どこか上機嫌のように見えた。さぞ我が子の演奏を楽しみにしているのだろう。
しかし、その一方で曹名は背を向け、広間から離れようとしている。
「何処へ行かれる」
「屋敷へ戻る。誰かに見つかっては面倒だ」
「殿のご期待に背くおつもりか」
「期待など────」
その時、広間のほうから話し声が聞こえた。はっきりと内容は捉えられないものの、確かに曹名の名が含まれている。耳に届いた声は低く、嘲るような色を帯びており、侮蔑の感情が混じっているのが伝わった。言葉の断片から拾えるのは主の倅を軽んじ、貶す響きばかりだ。
曹名がこの場を逃れたいのはこれが原因なのだと。父のためにと背負った覚悟はいとも容易く挫かれてしまったのだと。張遼は静かに悟った。
「夜道は危険だ。お供致そう」
杖を突きつつ進むたびに揺れる背を追い、歩幅を合わせながら隣に並び立つ。
広間を離れ、屋敷の奥へと進むにつれて灯りは次第に数を減らしていった。まるでこの先には光など不要だと言わんばかりに静寂な暗闇が満ちている。張遼は道中の灯籠を一つ手に取り、その淡い光で曹名の足元を照らした。足並みを揃えて歩む二人の間に会話はない。けれどもその足取りは自然と亭子の方へと導かれていく。それはまるで互いに言葉を求めているが故の、無言の合図であるかのようだった。
亭子の腰掛に腰を下ろした曹名は、杖を横に置き、対面に張遼が座るのを静かに待ってから口を開いた。
「これはな、父上から頂いたものだ。初めての贈り物だった」
琵琶を膝に置き、指先でそっと弦を撫でる。その手つきも声音もどこか穏やかで、手元の琵琶がいかに大切なものかを自然と伝えていた。
だが────。
「お前に剣は持てぬ、と。そう言われた気がした」
指先で弾かれた弦は、吐露された無力感とは裏腹に軽やかな音を亭子に響かせる。その一音に込められたのは哀しみか。それとも虚しさか。やがて旋律は夜の闇に溶けるように消えていった。
琵琶に落とされていた曹名の視線が、ふと、遠く広間の方へと向けられた。あの喧騒もこの亭子までは届かない。
「俺はただの穀潰しだ。父上も、それを自覚させたかったのだろう」
「曹名殿。殿は戦において非情な判断を下されることもある。だが、我が子にそれを向けるようなお方ではない」
「慰めなど要らん。俺だって身の程は弁えている。重鎮たちが何を言っているかも承知している」
風のない夜だったが、灯籠の炎が微かに揺らめき顔に落ちる影を淡く踊らせた。ゆっくりと二人の視線が交わる。
「最初から誰にも期待されていないのだから、応える必要もないだろう?」
そう言って曹名は諦めを含んだ微笑を浮かべた。自嘲の色も混じるその表情には、どこか諧謔めいたものも滲んでいる。
笑えぬ冗談だ、と張遼は眉を顰めた。曹操の思惑は知らないが、恥をかかせるために息子を招いたとは考えられない。何か策があってのことだろう。しかし曹名の育った環境が、父の真意を覆してしまっている。孤独と共に育ってきた年月があまりにも長すぎたのだ。
そこでようやく張遼は自分があの時、何故怒りを抱いたのか、その理由を理解した。あれは、どうすることもできない己自身に向けられたものだったのだ。曹名の境遇を知っても、その原因を消すことはできない。戦場とは異なり武の力では状況を変えられない。無力である自分に対して憤りを覚えていたのだ。
だが、理解したことで不思議と心は軽くなった。自分にできることは限られている。だからこそ、何をすべきかは明瞭であった。
「ならば、私にお聴かせ願えないだろうか」
「えっ」
その申し出に曹名の瞳が一瞬大きく見開かれ驚きを露わにした。
「武ばかりを磨いてきた身ゆえ、殿ほど耳は肥えておらぬが……曹名殿の奏でる音の葉を、私は知りたい」
「そう言われてもな。人前で弾いたことがない」
「見られるのが嫌ならば目を瞑っていよう」
「ふっ……そなたは物好きだな」
淡い灯篭の灯りに照らされた表情には困ったような、けれど、どこか抑えきれない嬉しさが滲んでいた。その様子に張遼は微かに笑みを漏らす。そして琵琶を抱え指を弦に添える曹名の姿を見守り、そっと目を閉じる。
張遼が選んだのは寄り添うことだった。何も変えてやることはできないけれど、傍らに自分がいることで生きるための望みの一つになればと思ったのだ。そして生きることを望まれていると知って欲しい。いつしか、この窮屈な鳥籠から自由に羽ばたける日が来ることを願いながら、ただ共にあろう。
耳を澄ませば、やがて旋律が耳を撫でるように響き出す。優しくも寂しさを帯びた琵琶の音は、そっと包み込むように亭子を満たしていった。