袁紹軍との戦役を終え、本拠地へと帰還した曹操軍には束の間の静穏が訪れていた。大軍勢を相手に掴んだ勝利の高揚感に酔う者もいるが、それも次なる戦が始まれば消え失せよう。
前哨戦にて武功を上げた張遼は慢心せず鍛錬に励んでいた。だが、戦場で得た昂ぶりをいつまでも解かないのも気が休まらないというもの。己を整える時分も必要であるとし、調練を終えると汗の残る身体のまま愛馬のもとへと歩み寄る。荒ぶる戦場を駆けた愛馬にも労いはあってしかるべきだろう。
そうして戦場の熱を胸に残しつつ、張遼は遠乗りへと出る支度を始めた。
「これほど晴天ならば、遠駆けもしたくなろうな」
馬の装具を整え、手元の確認を終えた頃合いで凛とした声が耳に届いた。振り向くと夏侯惇を従えた曹操がゆったりと歩み寄ってくる。陽光に照らされた威容には戦場での苛烈さはない。されど、堂々とした足取りには落ち着いた威厳が漂っていた。
「張遼。先の戦では見事な働きであった」
「身に余るお言葉」
「これでお前も我が軍に欠かせぬ将となった。なにか褒美をやらねばならんな」
「褒美、ですか」
戦功に応じた褒美とは、本人に尋ねずとも主君自らが定めるものだ。欲しいと申し出るものではない。しかし微笑を浮かべた主の瞳には、こちらの望みを聞こうとする寛大さが宿っていた。
張遼は思案する。こういう場面で多くの兵は金銀や新たな馬、武具と答えるのだろう。だが、どれも心から欲しているわけではない。ならば称賛か。いや、それも己の力で得るものであって与えられるものではない。
そこでふと浮かんだのは、屋敷の奥でひっそりと暮らす青年の顔だった。
「殿。曹名殿を遠駆けへお伴すること、許されますか」
これを褒美とするのは些かおかしなことかもしれない。そう自覚しつつも、羽ばたけぬ鳥を籠の外へ連れ出してやりたいと思ったのだ。自分のためではなく、彼の者のために。
「ふむ……張遼よ、何故あやつに構う」
曹操からすれば当然の疑問であろう。己の子と、敵軍から加わった武将とが懇意にしているのだから。曹名の境遇を思えば尚のこと不思議に映るだろう。
同情心故かと問われれば、否と迷いなく答えることができる。育った環境を憐れむのは容易いが、曹名の心は屈していない。例え歪んでいようとも、母を憂い、父を遠く仰ぐ心があった。その強さには尊敬の念さえ抱かざるを得ない。
「脆さを抱えながらも、折れることを良しとせぬ在り方を感じたのです。不思議と目が離せませぬ」
むしろ張遼の胸には、なぜ曹操が我が子を冷遇するのか、という疑念が芽生えてしまう。
「恐れながら、お尋ねしても?」
「構わん」
小さく頷いた曹操に、張遼は姿勢を正して軽く頭を垂れた。そして、これ以上の無礼を働く前に静かに口を開く。
「以前、酒宴に曹名殿をお招きになったことがありましょう。あれは殿がご子息を案じておられるからの策と拝察します。だからこそ私には少し理解し難く……何故ご自身からお会いにならぬのか、そのお心のほどをお聞きしてもよろしいでしょうか」
問いを受けた曹操はすぐには答えなかった。射抜くような鋭い視線を緩やかに外し、張遼の馬へと歩み寄る。傍らに控える夏侯惇も沈黙を保ったまま、その様子を見守っていた。
曹操は馬の鼻梁に手を添え、労わるように撫でる。
「あれと会わぬのは、望まれておらぬからよ」
それは曹名からのものか、それとも奥方からのものか。定かではなかった。ただ、そこにあったのは覇道を征く者ではなく、一人の父としての姿であったのかもしれない。
だがそれも束の間のこと。再び張遼へ向けられた視線には、すでに主としての威厳が戻っていた。
「張遼。あれとの関わり方はお前の好きにするがいい。私の許可など必要はない」
そう言い残し、曹操は踵を返し去っていく。夏侯惇もまた無言で従い、その背は次第に遠ざかっていった。
拱手して見送った張遼は、二人の姿が見えなくなると小さく息を吐いた。親子の問題に口を挟むなど、本来は一介の将がすべきことではない。咎められてもおかしくはなかったが、主君はそれを許した。懐の深さ故か、それとも信頼の証か。
いずれにせよ、親子とは斯も似るものかと呟き、擦り寄ってきた愛馬の首筋を静かに撫でた。
遠乗りの支度を整えた後、曹名を誘うため張遼はいつもの亭子へと向かった。幾度も足を運んだせいか、静かな時が流れるその場所には奇妙な落ち着きさえ覚え始めている。もうすっかりと身も心も馴染んでしまったようだ。
そして曹名の姿もまた、変わらずそこにあった。今日は木彫りに没頭しているらしく、張遼が亭子に足を踏み入れても視線が上を向くことはない。腕に抱えるほどの大きさの木材を太ももの間にしっかりと固定し、工具で内側を少しずつ削り出している。その手つきに無駄はなく、慣れた作業であることを示していた。
「此度の作品は大きいのだな」
「作品、というほどではない。これは俺の足の代わりだ」
「まさか……自ら義足を作っておられるのか」
「驚くことではないさ。自分でやるしかないだけなのだから」
張遼は改めて、曹名の手元の木材と片方の足に嵌められた義肢とを見比べた。言われてみれば造形は確かによく似ている。察するに身体の成長に合わせて作り変えているのだろう。器用なものだと感心すると同時に、その才がこうした形でのみ使われていることを惜しいと思ってしまった。
そこで一息つくように小さく息を吐いた曹名が顔を上げた。
「そなたの戦での活躍は俺の耳にも届いている。息災でなによりだ」
柔らかな声音で労いの言葉を口にしながらも、その表情には僅かな安堵が滲んでいた。そこに宿る憂慮を含んだ情を受け止めるように、張遼は腰掛へと静かに腰を下ろす。
「袁紹殿の軍勢を相手に戦果を挙げるとは、父上も喜ばれたことだろう」
「うむ。恐れ多くも褒美を頂いた」
「そなたのことだ、新しい武具でも賜ったのだろうな」
「外れだ。貴公を遠駆けへお連れすることを許された」
軽く揶揄うように口角を上げていた曹名の表情が、ふと戸惑いを帯びたものへと変わる。戦場を駆ける武人が得た褒美としてはあまりにも突飛で、その内容をすぐには吞み込めなかったのだ。加えて、それを褒美とした曹操の意図にも理解が追い付かない。
呆れるべきか、窘めるべきか。それとも喜ぶべきなのか。どう反応を返せばいいのか整理のつかない様子の曹名を見て、張遼は微かに微笑んだ。
「共に参られぬか」
「……この足のことを忘れたか?」
「無論、承知の上でお誘いした」
「俺は馬には乗れんと言っているのだが」
張遼は立ち上がると迷いなく曹名の傍に歩み寄った。視線を合わせるように膝を折り、義肢を嵌めた脚に添えられている手にそっと己の手を重ねる。
「案ずるには及ばぬ。私に任せられよ」
たったそれだけの行動で曹名の心は揺さぶられた。張遼の言葉には、そして真っ直ぐに向けられる力強い眼差しには、自然と身を委ねたくなるような安心感があった。それでもなお不安が消えたわけではない。逡巡するように視線を落とすと、武骨な指先が頼りない手を包み込むように緩やかに握った。
暫しの葛藤の末、渋る気配を残しながらも曹名は眉尻を下げて小さく笑う。
「……そなたには敵わないな」
そうして押し負けるように誘いに応じたのだった。
人の往来の少ない外門で待機させていた愛馬は、主人の帰りを健気に待ち続けていた。戦場では勇猛さを見せるが、本質は穏やかで従順な気性を持っている。そのためか、主人が手綱を取ると何の躊躇いもなく曹名をその背に迎え入れた。
「二人も乗せて重くはないだろうか」
「なに、鍛えているのは私だけではない。それに曹名殿は軽すぎるほどだ」
続いて張遼も馬上に跨るが、二人分の重みを受けても愛馬は動じる気配を見せない。
「こやつにとっては訓練にもなるまい」
「文句があるのならば、このまま降ろしてくれて構わんぞ」
「いや、そうではない」
言葉通り、抱き上げた身体は武具よりも軽く、その身を馬の背に乗せること自体が荷を積むよりも容易であった。その感覚は慣れた戦場からあまりにかけ離れており、思わず力の配分を誤りそうになるほどだ。
張遼は不服な表情を浮かべる曹名の腹へ腕を回し、揺れぬようそっと引き寄せた。触れた身体は驚くほどに薄い。鍛えられた己の肉体と比べても、その厚さは半分程度だろうか。衣服越しからでも伝わる儚い感触に無意識に眉を寄せる。食事を絶たれているわけではないはずだ。おそらく毒の影響で満足に栄養が摂れていないに違いない。そしてそれは周囲の意向によるものであり、本人が望んで得たものではなかった。
先ほどの言葉は、そうした事情を踏まえぬ軽率なものだったと悔やまれる。
「すまぬ、言葉足らずであった。ただ貴公を案じているだけなのだ」
「……比べる相手が兵士であっては困るぞ、張将軍。俺は病人なのだから」
自嘲を滲ませて笑った曹名は、僅かに顔を俯けると腹に添えられた張遼の手へ静かに自らの手を重ねた。
「だが、気遣いに感謝する」
柔らかな声音に、じわりと温もりが胸の内へ広がっていくのを張遼は感じた。気遣いは不要だと言っていた頃を懐かしむほどに、曹名は確かに心を許しつつある。言葉を内に秘めるのではなく、気持ちに蓋をするのではなく、素直に向き合おうとする姿勢がそこにはあった。その変化を傍らで見届けられることが、何よりも喜ばしい。
張遼は小さく笑みを浮かべ、手綱を握り直した。
「参ろうか」
合図に応じて馬は緩やかに歩みを進めた。不慣れな者を背に乗せていることを察しているのか、足取りは慎重で揺れも穏やかである。やがて都の喧騒から離れ人の気配が遠のくにつれ、次第にその脚は大地を軽やかに駆け始めた。
逞しい腕に支えられながら揺れに身を任せるうちに、曹名の意識は自然と外へと向いていった。
視界の先にはどこまでも続く野が広がり、草木は優しく風に撫でられ波のように揺れている。頬を撫でる風には土と草の匂いが混じり、遠く見える山並みは淡く霞みがかっていた。ふと、鳥の影が横切り頭上を見上げれば、すぐそこにあったのは澄み渡る青々とした空。閉ざされた庭では決して知り得なかった景色が、惜しみなく目の前に広がっている。そのすべてがあまりにも鮮やかで、あまりにも尊いものだった。
見晴らしの良い丘で足を止めた馬上から眺める風光明媚な景色に感嘆の声を漏らす。
「この国は、こんなにも広かったのだな」
そよぐ風に靡いた髪を抑えながら曹名は独り言のように呟いた。そして深く深呼吸をした後、振り返り背後の張遼へと視線を向ける。
「礼を言うぞ。俺はこの景色を生涯忘れはしないだろう」
そこには確かに喜びの感情があった。けれど同時に、この先はもう見ることが叶わないのだとも告げているようだった。
張遼は思わず顔を顰めそうになる。深く根付いた呪縛の楔を抜くのは、やはり容易なことではないと痛感させられたのだ。憎しみから生まれた歪んだ愛情が、曹名から自由を諦めさせている。
ならば今すぐにでも彼を縛りつけるモノを断ち切ってしまいたい。この手で斬り捨ててしまいたい。
そう衝動に駆られるまま浮かびかけた言葉を張遼は理性で抑え飲み込んだ。こうした時にこそ、武に偏った己の在り方を思い知らされる。いかに武を磨こうとも、それだけでは救えぬものがあるのだと。
──あれとの関わり方はお前の好きにするがいい。私の許可など必要はない。
思い出したのは曹操の言葉だ。どこまで許されるかは分からない。だが、僅かでも父としての姿を見せた主の言に偽りはないだろう。周囲が自由を諦めさせるのであれば、この手で連れ出してしまえばいい。
冷静さを取り戻した張遼は僅かに寄った眉間を緩めると、曹名の肩にそっと手を置いた。
「何を申されるか。私が何度でも、何処へでも、貴公をお連れしよう」
その言葉は力強くありながらも、寄り添うような優しさが滲んでいた。
曹名の目が驚きに見開かれる。都の外へ出ることさえ夢物語だというのに、それ以上を与えてくれるというのか、と。それは胸の奥深くにまで沁み入るような甘美な誘惑であり、届くことのない無意味な願望であった。
真意を確かめるように見上げた張遼の瞳には慈愛にも似た真摯な想いが宿っており、気休めな慰めではないのだと悟った。そこに偽りはないのだと。不意に触れた温もりに視界が僅かに滲み、込み上げるものを押し留めるように息を詰める。動揺を悟られぬよう顔を背け、戸惑う気持ちを落ち着かせるように遠い景色に視線を向けた。
「そなたはいつも俺が欲している言葉をくれるな。俺のような者を徒に喜ばせて……淡い期待を抱かせる」
「この張文遠。口にした以上、違えるつもりはない」
「ああ、分かっている。そなたの義ほど信頼に足るものはないからな」
じわりと溢れそうになる感情に蓋をするように曹名はそっと瞼を閉じた。これまで生きてきた中で、何も得られぬことを当然のように受け入れていた。これから先も変わらぬまま、ただ続いていくものだと受け入れていた。その決意が、覚悟が、揺らぎ始めている。求めてはいけないと遠ざけていた願いが輪郭を持ち、手の届く場所に現れようとしていた。変化とはいつだって恐ろしい。
それでも、とゆっくりと瞼を開く。張遼の手ならば掴んでしまいたいと思ってしまう。手放しきれない微かな期待が否応なく膨らんでいく。眼前に広がる景色は雄大で、己の抱えるものの小ささが際立って見えた。
僅かに口元を緩めた曹名は張遼を見上げ、困ったように眉尻を下げて笑った。
「まったく、厄介な武人と出会ってしまったものだ」
言葉こそ嘆息めいているが表情には隠しきれぬ喜びが滲んでいた。
その微笑に張遼は暫し見入ってしまう。感情を抑えることなく、遠慮することなく、あるがままを映し出した姿を愛おしいと感じた。風に揺れる髪が頬を掠める面差しはどこか儚さを帯びており、思わず手を伸ばしかけ、不意に躊躇いが生まれる。今触れてしまえば向けられた信頼を裏切ることになると思ったのだ。だからこそ、拳を握り締めた。
張遼は胸の奥に芽生えた熱の正体を名付けることすら出来ぬまま、ただ静かに曹名を見つめた。