香の焚かれた自室で曹名は書簡に目を通していた。体調を気遣う挨拶から始まり、薬草の煎じ方や処方の仕方が記されている。一見すれば医師からの手紙にも見えるが、その実、数少ない友人と呼べる相手からの便りである。
薬を求めて屋敷を抜け出し、辿り着いた店で偶然居合わせたのがきっかけだった。もし彼と出会っていなければ、今頃は病に屈していたかもしれない。
懐かしさに口元を緩めつつ返事を書こうと筆を取る。
「──お待ち──様!」
すると、静かな室内に不釣り合いな騒がしさが割り込んできた。苛立ちを隠さぬ足音と、その主を押し留めようとする侍女の慌ただしい声。
「どうか──お気を静めて──! お体に──!」
それらは次第に近付いて来て、やがて自室の扉の前でぴたりと止まった。
扉が乱暴に開かれ、差し込む陽光を背にして立っていたのは紛れもなく母であった。姿は見えないが傍らには侍女が控えているのだろう。母は室内を一瞥し我が子の姿を捉えると、その険しい表情を更に歪めた。それでもなお、多くの者を魅了した美貌が損なわれることはない。
曹名は筆を置き、杖を手にして立ち上がると母を迎えた。
「母上、どうされましたか」
わざわざこのようなところまで、とは口にはしなかった。本人が一番それを不服に思い、不毛であると理解しているからだ。曹孟徳に見初められるにふさわしい女性が愚かであるはずもないという自負があるからこそ、曹名の言葉に母は目線を鋭く尖らせた。
「将軍のお手を煩わせているそうですね」
誰を指しているのかは聞かずとも分かる。彼と初めて会ったあの日から、すでにその存在や接触している事実は母の耳にも届いているはずだ。それを今になって持ち出してくるのは、彼が先の戦で武功を上げ、その地位を確かなものにしたからに違いない。
曹操軍において欠かせぬ武力として彼を──張文遠を認識し直した。
つまり母が言いたいのは、屋敷の奥に引き籠る役立たずが張将軍と関わるなど不相応だ、ということなのだろう。だが、母はそれを敢えて口にはしない。何よりも曹名自身が、その事実をよく理解していると知っているからだ。
「お前はどうしてあの方の足枷にしかならないの。何もできないのなら何もしないと、何故分からないの」
「……申し訳ございません」
軽く頭を下げると落胆に似た溜め息が降りかかった。最初から期待などしていないのに、彼女は何を求めていたのだろうか。
顔を上げると、母の視線は卓上に置かれた木彫りへと向けられていた。小動物を模したそれらは、いつもであれば出来栄えに関係なく処分していたもの。捨て置かれず飾られているのは、つい先日その出来を張遼が褒めてくれたからだ。だから暫くは思い出に浸れるように残しておきたかった。
それが間違いだったのだろう。
傷ひとつない白い手が木彫りを乱雑に鷲掴み、次の瞬間、母は腕を振り上げた。
「こんなものが一体、孟徳様のなんの役に立つと言うのッ」
悲鳴にも似た叫びと共に木彫りが容赦なく投げ付けられた。小さな細工物とはいえ、所詮は硬い木塊だ。当たれば痛みも生じる。けれど、咄嗟に顔を庇いかけた腕は寸前で止めた。強く拳を握り締めて衝動を押し殺す。
身を守ることは母の行いを拒絶することに等しい。それは即ち、母への反抗であり否定となってしまう。
「愚かなら愚かなりに役に立ちなさい! 生きていることを恥じなさい! 孟徳様のお情けに縋らず大人しくその命を捨てなさい!」
浴びせられる言葉に改めて思い知る。ああ、そうだ。母の望みはただ一つなのだと。それが叶わぬ限り母は期待し、そして失望し続けるのだと。
だからこそ母は曹名の全てを否定する。生まれた意味を、生きる価値を、何より存在そのものを。全てだ。愛しい男からの恵みを受けながらも、自らが産んだ我が子を全身で拒んだ。
その向けられる憎しみに対する曹名の応えは、何も言わずに受け止めることだった。そうすることで少しでも母の心が軽くなるのなら、どれほど苛烈な言葉であっても耐えられる。
「いつまで私を苦しめるつもりなの!」
投げ付けられた木彫りの一つが額を打った。鈍い痛みが走り、遅れて熱を帯びた感覚が滲んでいく。やがて傷口から溢れた血が額を伝い、静かに頬へと流れ落ちた。
激情のまま声を荒げた母は肩で浅く息を繰り返している。傍らの侍女が慌てたようにその背へ手を添え、少しでも落ち着かせようとしていた。
頬を伝う血を拭うこともせず、曹名は顔色ひとつ変えずにその場に立ち尽くす。すでにその心には哀しみも虚しさもなく、目の前の女性をただ憐れんだ。
「母上、そのように興奮されてはお腹の子に障ります」
思わず零れた懸念の言葉は胸に秘めるべきであったと、すぐに己の過ちを悟った。
あれほど激しく感情を荒げていた母の体が、木偶の人形のようにぴたりと止まる。みるみるうちに顔色が青褪め、揺れる瞳を隠すように震える両手で覆った。指の隙間から漏れる嗚咽に曹名は静かに目を伏せる。
──また、間違えてしまった。
身を案じる声は刃となり彼女の心を切り裂き、同情の視線は槍のごとく突き刺さる。自分に許されるのは、許されたのは、沈黙であると解っていたのに。腹の子がまた不具であったらという恐怖は常に母につき纏っていることは知っていたのに。
侍女に支えられながら部屋を後にする母の背はひどく小さく、毒に蝕まれる己よりも脆く儚いもののように見えた。
庭の池にかかる小さな橋の上で、曹名は水面に映る己の姿をぼんやりと見つめていた。揺らぐ水面を眺めていると気持ちが凪いでいくような気がしたからだ。母の恨嘆をこれまでは当たり前のように受け止めてきた。当然のことだと受け入れてきた。生き苦しんでいるのは母であり、自分ではない。そのことは誰よりも理解しているつもりだった。
だが、どうしてだろうか。今は胸が苦しい。
その心境を弄ぶかのように小さな波紋が水面へと広がった。映っていた己の姿が揺らぎ、歪んでいく。何気なくその先を辿れば、羽を休めるため池の縁に降り立った野鳥が嘴を浸して水を飲んでいた。やがて鳥は羽繕いを終えると、軽やかに空へと飛び立つ。両翼を広げ、風に乗って舞う姿はどこまでも優雅で美しい。何より自由だ。
「あぁ……俺もここから────」
「こちらにおられたか」
不意に掛けられた声に曹名は肩を震わせた。咄嗟に振り返ろうとした身体は勢いに負けて重心を崩し、大きく傾いてしまう。杖で支えることもできなかった身体に伸ばされたのは、がっしりとした腕だった。確かな力強さとどこか安堵を覚える温もりが倒れかけた身を受け止める。
「すまぬ、驚かせてしまったようだ」
耳元で響く気遣う声音に、一度強張った身体から力を抜いて倒れかけた体勢を整えた。
「いや、俺が腑抜けていたのが悪い。助かった、張将軍」
「貴公が人の気配に気付かぬとは珍しい。何か考え事でも?」
「俺だって常に気を張っているわけではない。ただ、鳥を見ていただけだ」
そう言って再び空を見上げる。しかし、先ほどまで羽ばたいていた鳥の姿はもうどこにも見当たらなかった。
「飛んで行ってしまったか」
ぽつりと零した言葉と共に僅かな寂しさを覚える。まるで慰めるように柔らかな風が吹き、髪をそっと撫でた。
ふと視線を感じて顔を下ろす。そこには眉間に皺を寄せた張遼が何かを確かめるように曹名を見つめていた。何事かと問うよりも先に、その視線の先を辿れば理由はすぐに知れる。額に残る傷痕だ。
「これか? ただの掠り傷だ。薬も塗ったし気にするほどではない」
「何があったのだ」
隠すつもりも、自ら進んで語るほどのことでもなかった。所詮は親子の間で起きた些細な諍いだ。他人が知る必要などない。父であれば詮索はしないだろう。李典であれば深く追及はしない。他の者ならば気付いても見て見ぬふりをする。
しかし、張遼は違った。
向けられた眼差しには有無を言わせぬ鋭さがあり、その奥には深い憂慮が覗いていた。
「曹名殿」
不要だと突き放され続けてきた己を案じる眼差しには未だに慣れない。けれど、不思議と嫌ではなかった。その気遣いを嬉しく思う自分がいるのだ。これも張遼と出会わなければ得られるものではなかった、と曹名は小さく微笑んだ。
「そう睨むな。そなたは心配性だな」
杖を突き、ゆっくりと歩き出す。向かう先は常の亭子だ。いつまでも橋の上で話していては人目を引きかねない上に、母の耳に余計な知らせが入る恐れもある。亭子は程よく身を隠すには都合がよかった。
やがて張遼が隣へと並ぶ。歩幅に合わせるように自然と歩みが緩められ、二人の間には半歩ほどの距離が保たれていた。
「本当に大したことではないのだ。母が、少々物にあたっただけのこと。おかげで俺の部屋は荒れてしまっていてな、片付くまでそなたを招待できないのが残念だ」
冗談めかして言ってみるが、隣から笑い声は返ってこない。むしろ表情は更に強張り、眉間の皺を深くしているのだろうことが見ずとも伝わってくる。
曹名は一拍の間を置き、それから再び口を開いた。
「あの人の癇癪は今に始まったことではない。もう慣れたものだ。母上がご懐妊したことは噂で聞いているだろう?」
「文官たちが話しているのを耳にしたことはあるが……噂は真であったか」
「ああ。知っているのは限られた者たちだけだ。そなたも聞かなかったことにしてくれ」
「承知した。だが、それと貴公が怪我を負う理由が結びつかん」
主に新たな子ができたとなれば配下の者たちはこぞって祝意を述べるものだ。男子であれば跡目争いの火種になると懸念する者もいるが、それ以上にまずは吉報として受け止められる。女子であれば他家との縁を結ぶ要にもなる。本来ならば子の誕生を伏せる理由などない。
曹名の母の懐妊が噂の域を出ないのは、曹操自らがそれを公にしていないためであった。それはまた、母自身の望みでもある。
「次もまた俺のような子が生まれるのではないかと、あの人は不安で仕方ないのさ」
一度抱いた大きな期待と、その後に訪れた落胆、そして精神が耐えきれず悲鳴を上げた絶望が今なお母の記憶には色濃く残っている。故に、今腹に宿した子を曹操の子であると胸を張って言うことができないのだ。
「だから無事に子を産めば、母上もやっと俺を『要らぬ子』として割り切れるだろう」
待ち望んでいた愛しい人との子が不具であったと知ったときの傷は何よりも深く、時の流れでも癒えるものではなかった。だからこそ、その腕に新たに生まれた子を抱き上げ、五体満足であると確かめて初めて母は解放されるのだ。長く、気が触れるほどに続いた苦しみから。
杖と義足が軽く地を叩く音を響かせながら、曹名は亭子へと足を踏み入れた。差し込んでいた陽光が遮られ、視界は柔らかな影に包まれる。歩みを止め、外の眩しさとの落差に目が慣れるのを待つように静かにその場に佇んだ。
「もしかしたら俺も……その時を待っているのかもしれない」
本当の意味で母に見限られる日を心の奥底で望んでいた。だからこそ、自由に空を舞う鳥の姿に心を奪われたのだろう。
そこまで考えて曹名は僅かに目を伏せる。母の愛を知らず、父の愛を知らず、巣立ちの術さえ知らない。誰も教えてはくれなかった。無意味な憧れを抱けば、いずれ苦しむだけなのだと学ぶばかりだ。自由になりたいなどという望みは儚い夢でしかない。
自嘲するように口元を緩めた、その時だった。不意に背後から伸ばされた腕が曹名を包み込むように抱き寄せる。
「っ、張将軍?」
「私の前では強がらずともよい」
「強がってなど……」
「曹名殿は知るべきだ。貴公が母君を案じ続けてきたように、貴公を大切に想う者もまたいるのだと」
身体を抱く腕に僅かに力が込められる。けれど苦しさはなく、むしろ逃がすまいとするような優しさだけがあった。広い胸に背が重なり、伝わる温もりがゆっくりと沁み込んでいく。耳元では微かな吐息が肌を掠め、その近さを否応なく意識させた。
「許しを頂けるのであれば、私は貴公の隣にありたい」
曹名は息を呑み、目を見開いた。
これまで隣にいたいなどと、そんな酔狂なことを口にする者はいなかった。いや、それだけではない。毒に蝕まれる身を案じられたことも、馬に乗って遠くまで駆けたこともなかった。そのどれもを与えてくれたのは張遼だった。
必死に守り続けてきた己の在り方が、張遼と出会ってから少しずつ剥がれ落ちていくのを感じていた。今もまた、長く閉ざしていた殻にひびが入り、静かに砕ける音がした気がする。
「俺に、許しを乞うのか? これほどまでに長く傍にいたのは……そなただけだというのに」
「ならば自覚なされよ。でなければ苦しむのは貴公自身だ」
「……ああ」
出会ったことで知ってしまった。生きていてもいいのだと。何かを望んでも咎められないのだと。
「ああ、そうだな」
己を抱く太い腕に、曹名はそっと手を添えた。振り払うことも、拒むこともできたはずなのに、その温もりを失いたくないと思ってしまう。
張遼は役立たずの庶子としてではなく、一人の人間として曹名を見ていた。何ができるかではなく、何を成せるかでもなく、ただ曹名という存在そのものに手を差し伸べてくれたのだ。彼の矜持がそうさせたのだろう。だが、それでも構わなかった。
初めて知る人の温もりは斯くも優しく、恐ろしいほどに愛しい。その心地良さに触れてしまえば、もう知らなかった頃には戻ることができない。ずっと求めていたものだったのだから。