張遼と曹家庶子 07


 人目を避けるように屋敷を抜け出し、下町の外れにある馴染みの薬種屋を訪れた。薬草を買い求める病弱な客として通うこの店は、今では書簡を託すための大切な場所ともなっている。屋敷から直接文を出せば、母の遣いが封を解き、その内容を改めることは避けられない。だからこそ、個人的な便りは城内から離れたこの店を仲介して人知れず送り届けてもらうしかなかった。
 曹名には文ひとつ出す自由さえないのだ。
 店主は事情を詮索することなく、差し出された書簡を静かに懐へ収める。そのさりげない心遣いには密かな感謝を抱いていた。

「いつもすまないな」
「これくらい構いませんよ」

 気さくな店主に礼を述べ、薬草をいくつか見繕う。品代に少しばかり礼を添えることも今では暗黙の習わしとなっていた。
 書簡を交わす相手はただ一人。今は旅の武芸者に同行し各地を巡っているらしく、便りが届くのは数か月に一度あるかないかだった。それが医術に関する文であっても、屋敷の外を知る数少ない便りであり、長く閉ざされた暮らしを送ってきた曹名にとっては唯一と言ってよい外の世界との繋がりでもある。多少の手間を要するとしても、決して手放したくはない縁だった。
 曹名は薬草の包みを手に店を後にし、傾き始めた陽を見上げた。そろそろ調練を終えた兵たちが戻る頃合いだろう。ならば張遼に見つかる前に屋敷に戻らねばならない。もしまた一人で出歩いていたことを知られれば、きっと眉を顰め、過剰なほどに己を案じるに違いないのだから。それを疎ましく思うことなどありはしないのだが、これ以上余計な心配も掛けたくはなかった。
 杖を突きながらも足早に下町を抜け、賑やかな城下町へと足を踏み入れ、そして背筋を撫でるような視線を感じて歩を止めた。気のせいではない。人の往来の中に紛れるように、何者かの気配が確かにこちらへ向けられていた。

 ──ここでも、か。

 母が懐妊してからというもの監視の目が厳しくなっていることには気付いていた。だが、これまで屋敷の内に留まっていたはずのものが、まさか外にまで及んでいるとは思いもしなかった。
 それでも屋敷へ戻るには城下町を通らねばならない。曹名はできる限り人気の少ない道を選んで進んだ。
 手摺りのない水路は前日の雨の影響で普段よりも水嵩を増しており、足を滑らせぬよう縁から距離を取ろうとした。その瞬間だった。背後から不意に加えられた力に身体が揺らぐ。何者かに押されたのだと理解するよりも早く、均衡を失った身体は水路へと落ちていった。咄嗟に息を吸い込もうと開いた口へ大量の水が流れ込む。冷たさに思考が奪われ、手足を動かしても身体は思うように浮かばない。水面へ伸ばしたはずの指先は揺れる光には届かず、ただ重力に引かれるように沈んでいく。
 泳ぐ術など、曹名は知らなかった。
 息ができない苦しみはこれまで幾度も耐えてきた毒の痛みよりも遥かに苛烈で、恐ろしかった。真の死が、そこまで迫ってきているのだと。

「────!」

 薄れゆく意識の中で何かに強く腕を掴まれた。水底へ沈みかけていた身体が引き戻され、次いで確かな力に抱き寄せられる。流れに逆らうように引き上げられてようやく、顔が水面へと出た。反射的に吸い込んだ空気は喉を焼くように苦しく、曹名は激しく咳き込む。胸の奥が熱を持ち、内側から押し潰されるような痛みに襲われた。
 息をするという、ただそれだけのことがこれほど難しいものだとは思わなかった。まだ震えの残る身体を支える腕の温もりだけが、失いかけた意識を現実へと繋ぎ止めていた。

「若。もう大丈夫です。落ち着いて、ゆっくり息を吸ってください」

 柔らかな声音で「若」と呼ぶ者は一人しかいない。混濁していた意識が徐々に鮮明になり、ようやく己を抱えている人物の姿を捉える。見慣れた顔に安堵が広がると同時に、どれほど危うい状況にあったのかを改めて思い知らされた。

「はっ……り、りて、ん」
「ええ、俺ですよ。さ、しっかり捕まって」

 力強い腕に支えられながら、曹名はどうにか水路から這い上がった。地に両手を着き息を整える合間にも、建物の隙間を抜ける冷たい風が濡れた衣を通り抜け、身体の芯まで冷やしていく。思わず己を抱くように腕を回すと、すぐさま李典が寄り添い震える肩を包み込むように引き寄せた。

「急いで戻りましょう」

 その言葉に促されるように無意識に手を伸ばす。けれど指先が触れたのは杖ではなく、ざらついた地面だけだった。脆い身体を支える杖は水路の底へ沈んでしまったらしい。それでも何とか立ち上がろうとした身体を李典は何も言わずに抱き上げた。常であれば放っておけと拒んでいただろう。だが、今は抗う気力も体力も残っていない。
 温もりに身を委ねるように曹名は静かに目を伏せた。


 周囲の目を避けるように李典は敢えて人通りの少ない裏道を選んでいた。遠回りになることは承知の上で建物の隙間を縫うように進み、誰にも気付かれることなく二人は屋敷の奥へと入っていく。まるで忍び込むような帰路であったが、自室へ辿り着いてようやく張り詰めていた緊張の糸が解れたような気がした。
 曹名は椅子へ腰を下ろし、深くゆっくりと息を吐き出す。濡れた衣の冷たさも、身体に残る疲労も、今はただ無事に戻れた安堵の中へ沈んでいった。そうして落ち着きを取り戻した頃合いで、麻布を探して室内を歩く李典へと声を掛ける。

「俺を尾行していたか」
「まさか、たまたまですよ。でも、今朝から嫌な予感はしていました」
「そなたの勘に救われた。戦場で重宝されるのも頷ける」

 李典があの場に居合わせなければ、自分は誰にも気付かれることなく水底へ沈んでいたのだろう。流れに身を任せた亡骸が下流で見つかったとしても、それが曹家の庶子であると知る者は少ない。名も知られぬまま葬られていたとしても不思議ではなかった。
 何者が背を押したのか、そして誰の差し金なのかも、おおよその見当はついている。だが、それを明るみに出せば失われるもののほうが遥かに大きい。

「このことは内密に頼むぞ、李典。もし誰かに尋ねられても俺が誤って落ちたと言えばいい。訊ねる者は……いないだろうが」

 誰にも知られなければ何も起きなかったことと変わらない。それで済むのであれば、真実は水底に沈めたままでよかった。

「あいつ……張遼にも、ですか」
「……ああ」

 短く頷いた曹名は、ふっと視線を落とし困ったように口元を緩めた。
 一番知られてはならない相手だった。あの男のことだ、事情を知れば案じるだけでは済まないだろう。これまで以上に目を配り、何処へ行くにも付き添うと言い出しかねない。ただでさえ張遼には多くを与えられている。これ以上、自分のために気を揉ませるわけにはいかなかった。
 人の気配がゆっくりと近付き、視界へ影が差した。

「ずるいなぁ」

 顔を上げる間もなく、ふわりと麻布が頭から被せられる。
 李典は濡れた髪を包み込むように柔らかな手付きで水気を拭っていく。丁寧に、労るように、その指先からはどこか愛おしさが漏れていた。布越しに確かな温もりを感じながら、やがてその両手はそっと頭を挟み込むように添えられる。
 僅かに身を屈めた李典は、自らの額を静かに曹名へと寄せた。

「俺にできなかったことをあっさりとやってしまうなんて。俺だって若を知りたいし、若に知ってもらいたいと思ってるんだぜ」

 懇願にも似たその声音に曹名は返す言葉を失った。何を答えればよいのか、いや、李典が何を望んでその言葉を口にしたのかさえ分からない。
 人から向けられる優しさを知ってしまった今だからこそ、李典がこれまで、そして今この瞬間も変わらず差し伸べてくれていたものの意味をようやく理解できた。気付けなかったのは自分の未熟さだ。その想いを知ってしまえば、もう軽々しく傷つけることなどできなかった。
 その戸惑いを見透かしたのか、李典は小さく笑みを零す。さらに身を屈めて目線を合わせると、冷え切った手に触れ、温もりを分け与えるように握った。

「どうして張遼なんです?」
「……俺は案外、単純なのだろうな」

 己の愚かさを恥じるように曹名は目を逸らした。

「あの者は一度たりとも俺を惨めだとは思わなかった。それだけだ」

 李典と出会った頃の自分はまだ幼かった。思慮も浅く、世の理など何ひとつ知らず、生きるだけで精一杯の日々。差し伸べられた手が善意によるものか、それとも打算によるものかを見極めるだけの器量もない。ただ、向けられる憐憫の眼差しだけは嫌というほど知っていた。同じものを幾度となく受けてきたからこそ、それだけは見誤ることがなかったのだ。
 だから、李典の眼差しの奥にあった本当の想いには気付けなかった。いや、気付こうともしなかったのかもしれない。だが今ならば、その優しさを素直に受け止めることができる。
 一度目を閉じてから、曹名はゆっくりと目の前の瞳を見つめ返した。

「李典、助けてくれたこと感謝する。それと、そなたの優しさを無下にしてきたことを心から詫びたい」

 今さら伝えたところで遅すぎることくらい分かっている。それでも言葉にせずにはいられなかった。たとえそれが、己だけが救われたいがための懺悔に過ぎないのだとしても。
 李典は一瞬目を丸くすると、やがて眉尻を下げて穏やかに微笑んだ。その笑みは優しく、それでいてどこか諦めにも似た寂しさを湛えている。

「若の洞察力は殿譲りですね」

 その言葉の真意を掴めぬまま、曹名は立ち上がる李典を目で追った。

「あなたが謝る必要なんてない。これは俺が受けるべき……然るべき報いですから」

 静かにそう言うと李典はもう一度、麻布越しに曹名の髪を優しく撫でた。その手付きは幼い頃と何ひとつ変わらない。やがて体調を気遣う言葉を残して部屋を去っていく背中に、言葉をかけることはできなかった。閉ざされた扉を見つめながら、被さったままの麻布を握りしめる。
 ようやく気付くことのできた優しさが、その背中と共に遠ざかっていくような気がしてならない。この胸に残された答えの解らない小さな空白は、暫く埋まることはなかった。



 案の定、翌日から体調を崩した。
 長年毒に晒され続けたことで多少の耐性こそ身についたものの、脆弱な身体までは変えられない。水に浸かった冷えは容赦なく身体を蝕み、一度床に伏せれば快復するまでには幾日もの時を要する。
 窓の外では今日も絶え間なく雨が降り続いていた。軒先を叩く雨音は静かな室内によく響き、湿り気を帯びた冷たい空気が隙間から忍び込んでくる。これでは庭へ出ることも叶わない。未だ怠さの残る身体では寝台の上で一日の大半を過ごすほかなかった。曇天から視線を外した曹名は寝台に手をつきながら上体を起こし、小さく吐息を漏らす。
 ──病に伏せる日々は何も今に始まったことではない。
 曹名は慣れた動作で枕元に置いていた色糸の束を手に取り、膝の上に広げ、縺れることなく紐状に編み上げていく。手慰みに時を過ごす術なら、とうの昔に身についていた。

 そうして手元の細かな作業へと没頭すること幾刻。ふと人の気配を感じて手を止めた。
 部屋の外で足音が止まり、静寂を乱さぬよう控えめに扉が開かれる。顔を上げると僅かに開いた扉の向こうから見慣れた人影が姿を現した。

「曹名殿。失礼しても構わないだろうか」
「構わない。入ってくれ」

 訪ねてきたのは、やはり張遼であった。
 これまで一度として自室に招いたことはなかった。おそらくは数日もの間いつもの亭子へ姿を見せなかったことを案じたのか、或いは誰かから伏せっていることを聞いたのだろう。どのような理由であるにせよ、こうして顔を見せてくれたことは素直に嬉しかった。
 一礼して室内へと足を踏み入れた張遼に対し、曹名は迎え入れるように手を向けて寝台の傍へ置かれた椅子へと促す。本来であれば立ち上がって出迎えるべきなのだろう。しかし今は義足を外しており、杖を使うことも叶わない。
 その事情を張遼も察しているのだろう。何も言わず、促されるまま腰を下ろした。

「満足なもてなしが出来なくてすまないな」
「突然訪ねたのだ、気になされぬよう」
「心配してくれたのだろう。嬉しいものだ」

 そう言って笑みを返すが、向けられる眼差しには隠しきれぬ懸念が浮かんでいる。体調を案じているだけではない。そこに含まれるものを曹名は正しく理解していた。

「母上のせいだと思っているな」

 額の傷を見た時と同じだ。張遼はあの時の話を覚えている。そして今の不調もまた、その延長にあるのではないかと考えているのだろう。母との関係を知っている以上、結び付けるのも当然だろう。

「すまぬ。不躾であるとは解っているのだが……」
「そなたを責めはしない。俺が要らぬ話をしたせいなのだから。懸念せずとも、ただの不調だ。最近は雨続きで冷えるだろう。そのせいで少し体が鈍っているだけだ」
「うむ……そうか。ならばこの部屋はもう少し暖かくすべきだな」

 張遼は納得したように頷くと部屋の隅へと視線を向けた。そこには今朝方、侍女が火を整えて以来そのままになっていた火鉢がある。腰を上げて火鉢へ歩み寄り、火の具合を確かめるように手をかざすと僅かに眉を寄せた。
 その横顔を眺めながら曹名は胸の内で小さく息を吐く。
 どうやら水路へ落ちたことは知られていないらしい。もし耳にしていれば、この程度の言葉だけで済ませるはずはなかった。あの出来事は未だ誰にも知られていない。李典は約束を守ってくれたのだ。
 曹名は膝の上に置いていた紐へと視線を落とす。編みかけのそれは、青と黒の糸を交互に重ねたものだった。指先に残る感触を確かめるように残りの作業へと取り掛かる。

「これでいい。暫くは暖が取れるだろう」
「客人に手間を掛けさせてしまったな」
「気にせずともよい。しかし、臥せっていても貴公の手元は忙しそうだ。それは何を作っておいでか」
「そう急かすな。もう終わる」

 寝台の傍に戻って来た張遼の問いに答えながら、手を止めることなく紐の端を結んでいく。ほどけぬよう固く結び、余った部分を刃で切り落とす。最後に軽く引いて形を整えれば完成だ。

「発つのは明日だったな」
「ご存知だったか」
「当然だ。このような成りでも一応は曹家の子だからな」

 屋敷の奥に身を置く曹名の耳にも、袁紹が病に倒れたという報せは届いていた。そして後継を定めぬまま世を去ったことも、すでに聞き及んでいる。長年にわたり覇を競ってきた宿敵ではあるが、父がその機を逃すはずはない。情に流されず、河北が揺らいでいる今こそ好機と見て、曹操軍は北へ進む準備を整えている。なれば、張遼をはじめとする将たちも暫くこの地を離れることになるだろう。
 だからこそ、今日ここへ足を運んだのかもしれない。そう自惚れてしまうけれど、少しくらいならば罰は当たらないだろうと己を咎める気にもなれなかった。
 曹名は仕上がった紐を手に取り、張遼へと差し出した。

「俺は見送りには行けぬから、その前にこれをそなたに」
「これは……丸薬入れか」

 張遼の手に収まったのは紐の先に結ばれた薄い小箱だった。掌ほどの大きさでありながら、表面には細やかな彫刻が施されている。見覚えのある、親しみの持てる意匠。無骨な指先が確かめるように箱をなぞる。その触れ方は驚くほど優しく、まるで壊れやすい宝物を扱うかのようだった。
 箱を包むその手に、曹名は己の手をそっと重ねた。

「そなたの活躍と無事の帰還を願って、祈りを込めて彫った」

 手の温もりを確かめるように、互いの視線が静かに絡み合う。
 張遼は唇を引き結び、静かに視線を手元へ落とした。やがて重ねられた手を包み込むように握り返す。温かく、大きく無骨な手が、戦場を知らぬ頼りない手を包み込んだ。

「曹名殿の想い、しかと受け取った。必ずや貴公の元へ戻ると誓おう」

 その言葉は不思議なほど素直に曹名の胸へと届いた。根拠のない慰めではない。幾度も死地を潜り抜けてきた武人の覚悟が込められているからこそ、信じることができた。けれど、戦場に絶対など存在しない。どれほど強き者であろうと、僅かな判断の違いが命を奪うこともある。
 握られた手を見つめながら、曹名はそっと目を伏せた。
 ならば、己の身に起きた不運な事故など知られるべきではない。それは余計な重荷を背負わせ、刃を鈍らせる迷いとなりかねないのだから。傍にいなくとも自分は変わらず此処にいる。案ずる必要はないのだと。そう信じて、迷いなく戦場へ赴いてもらわねばならない。
 ふと、胸の奥に蘇ったのは、優しさを手放してしまったかのような喪失感。
 知らなかった頃には戻れない。差し伸べられた手の温もりを知ってしまった以上、手放すのは困難で、失うことが何よりも恐ろしい。そう気付いてしまったのだ。あの時、初めて芽生えてしまったのだ。
 胸に残された答えの解らない小さな空白の正体は、張遼を失うかもしれないという恐怖だった。