張遼と曹家庶子 08


 許都にある曹家の屋敷は、いつになく静まり返っていた。曹操が河北を制圧するため軍を率いて出陣し、その世話役として多くの者もまた屋敷を離れているからだ。普段であれば政務のために出入りする文官の姿も、忙しなく働く侍女や家僮の姿も、今は最低限しか見られない。
 そうしたいつもより物寂しさの漂う屋敷の廊下を、まだ十にも満たない曹沖が小走りに進んでいく。
 屋敷の奥へ進むにつれて、どこからともなく琵琶の音が聴こえてきた。優しく穏やかな音色に誘われるように小刻みな足取りは止まらない。辿り着いた場所は見知らぬ庭園だった。草花の香りを含んだ風が吹き抜け、柔らかな髪をそっと撫でていく。

「こんな場所があったんだ……っ!」

 思わず呆けてしまった意識を引き戻したのは、曹沖をこの場へと導いた琵琶の音。その音の出所は庭にぽつんと建つ亭子だった。手を引かれるように近付けば仄かに甘く温かみのある香りが鼻を掠める。これは桂皮の香りだ。体調が悪くなった日に母が焚いてくれたのを思い出す。
 優しい調べを奏でていた琵琶の音が、ぴたりと止んだ。

「迷子か?」
「え……」

 戸惑いを滲ませた声音とともに視線が向けられる。その瞳を見た瞬間、曹沖は思わず息を呑んだ。こちらの心の内までも射抜き、腹の底まで見透かすような鋭い眼差し。その瞳にはどこか人を圧するものがあった。
 まるで父、曹操のようだ。
 あの瞳を正面から受けると、いつも緊張で背筋が伸びてしまう。目の前の相手もまた同じだと気付けば、曹沖は知らず知らずのうちに姿勢を正していた。
 
「っ、はい。迷子になってしまいました」
「……好奇心で秘事を探る者は背後の危険に気付かないものだ」
「ぁ……!」

 その言葉が叱咤であると同時に身を案じての忠告であることを、幼い曹沖にも理解できた。ただ厳しく咎めるのではなく諭すような物言い。それだけでも目の前の人物が理性的であり、聡明な人物であることが窺い知れる。
 それでいて言動や纏う雰囲気から伝わってくる思慮深さは、やはり父によく似ていた。
 曹沖は己が咄嗟に吐いた嘘を恥じた。少しでも誠意を示さねばならぬと思い、姿勢を正すと深々と頭を下げる。

「申し訳ありません。本当は、ここに何があるのかを知りたくて来ました」
「ならばもう用は済んだろう。見ての通り、此処には何もない」
「いえ、あなたがいます」

 顔を上げ、改めて青年を見つめた。同じ色彩を宿した瞳と瞳が重なる。誰かに教えられたわけではない。まして、誰もが口にしていることでもない。それでも己の中に流れる血が、目の前の青年との繋がりを確かに感じさせていた。
 言葉にするより先に、それを悟っていたのだろう。曹沖は自然な動作で拱手をした。

「わたしは沖。曹孟徳の子にございます。あなたは────」

 兄さまでしょうか、と続けようとして咄嗟に遠回しな言葉を考える。

「あなたにも、父の面影が見えます」
 
 はっきりと明言してはならないような気がしたのだ。皆がひた隠しにしているから、というわけではない。ただ、言葉にして己との関係を明らかにしてしまえば、もう二度と会うことすら叶わない。そんな雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
 きっとこの方は父の子であり、曹沖にとっての異母兄なのだろう。だが、おそらく周囲はそれを認めてはいないのではないか。そうでなければ公の場で顔を合わせる機会など、いくらでもあったはずなのだから。
 では何故、屋敷の奥に隠されているのか。
 先ほど忠告を受けたばかりだというのに、その疑問を抑えることはできなかった。むしろ、知りたいという欲が胸の奥で静かに膨らんでいく。
 
「名を、教えてはくれませんか」

 僅かに警戒の色を滲ませた眼差しに気圧されそうになりながらも、曹沖は逃げることなく真っ直ぐに青年を見上げた。すると、兄であろう青年は僅かに眉を寄せ、困ったように息を吐いた。

「俺の名を知ったところで利はないぞ」
「そうでしょうか。わたしには、知るだけでも十分にございます」
「ふっ……幼いお前に一体どんな利があるというのだろうな」

 嘲るような物言いとは裏腹に青年の視線がすっと外れ、手元の琵琶へと向けられた。細い指が弦の上を静かに滑っていく。
 やはり、名を教えるつもりはないのだろうか。曹沖が半ば諦めかけた時、青年の指が弦を軽く弾く。緩やかに震えた音色には、言葉にはならぬ迷いが滲んでいるように思えた。
 耳を撫でるほんの僅かな音の揺らぎに、曹沖は初めて青年の胸の内に触れたような気がした。

「名」

 音は亭子の中へ静かに広がり、やがて長い余韻を残して消えていく。その余韻に沿うように、青年は静かに名を綴った。

「俺の名だ。年の割には賢しいお前ならば、家名は名乗らずとも分かっていよう」
「では、やはりあなたは────」
「知りたいことは知れただろう。ここへはもう来るな」

 それ以上の干渉は無用だと言わんばかりに、青年──曹名の瞳が向けられることは、それきりなかった。琵琶を奏でる横顔に、つい、目を奪われる。いっそ羨ましいと思ってしまう程に、鼻筋の通ったその面差しは詩経の句を詠む父とよく似ていた。
 小さく漏れた吐息はどちらのものだったか。曹沖はこれ以上ここに留まれば気を害してしまうと察し、礼を述べてから踵を返した。


 自室へ向かう足取りは、来た時よりも微かに重い。これまで知ることのなかった屋敷の奥に秘められた存在を垣間見られたことは喜ばしいことである。けれど、その秘密が己の兄であったという事実は胸の奥に小さな不安を残していた。
 屋敷の奥へ行ってはいけない。母である環夫人は、いつも悲しげな顔をして曹沖にそう言い聞かせていた。なぜ行ってはいけないのかと尋ねても、大人たちは誰一人として教えてはくれなかった。父に問うても答えは得られず、他の異母兄たちもまた、顔を顰めて口を閉ざすばかりだった。
 見つかれば叱られるかもしれない。それでも、何も知らぬままでいることのほうが不誠実であるように思えた。折しも父は戦に出ており、屋敷に残る者も普段より少ない。行動を起こすのなら、この機会しかなかった。
 だからこそ初めから秘められたものを知るつもりで、己の意思で、あの場所へ向かったのだ。



 こうして使命感にも似た好奇心から兄との出会いを果たした日を境に、曹沖は人目を盗んでは屋敷の奥へ忍び込むようになった。
 兄は、曹名はいつも独りだった。
 広い庭の片隅にぽつんと建つ小さな亭子に、いつも独りでいる。屋敷に仕える侍女や家僮も、避けられぬ用がない限り寄り付こうとはしない。たった数日のこととはいえ兄が周囲から異様な扱いを受けていることは、幼い曹沖にも知れた。そしてそれを誰もが、当の本人までもが、さも当たり前のことのように受け入れて日々を過ごしていることも。
 見上げた空は厚い雲が覆っており、昼間だというのに薄暗い。少しばかり憂鬱な情を抱きながら、今日も曹沖は庭へと向かった。
 小さな体を駆使して人目を避けながら廊下を進んだその途中で、異母兄の一人である曹丕から声を掛けられた。

「沖、あれと会っているようだな」

 見つかってしまった、と肝が冷える思いがした。しかし、続く言葉に咎める様子はない。まるで他愛のない天気の話でもするかのような声音には、興味も関心も含まれてはいなかった。その対象が兄に対してなのか、曹沖に対してなのかは分からない。どちらにしても気に留めるつもりはないらしい。

「気付いていたのですか」
「こうも人がいないと、おかしな動きをしている者は目に付く」

 周囲には十分に気を配り、誰にも見つからぬよう行動していたつもりだった。それでも、甘かったのだろうか。人の出入りが少ないことに、どこかで油断していたのかもしれない。そう思い至ると、曹沖は気まずさに顔を背けた。
 そんな弟の様子を見て、曹丕は小さく肩を竦めてみせる。

「関わるなとは言わない。だが沖よ、覚えておけ。あれは放っておかれているように見えて、徒に飼われているに過ぎない」
「飼われて、いる……?」
「片翼を捥がれ、一生を籠の中で過ごすことしかできぬ憐れな鳥だ」

 まるで詩でも読むかのように紡がれた言葉に、曹沖はひゅっと喉を鳴らした。すぐには声を返すことができない。
 幾度か顔を合わせれば、気付かないわけにはいかなかった。亭子で過ごす兄の片足は明らかに不自由で、まともに動かない。あれでは戦場に立つことはできないだろう。馬に乗ることすら、容易ではないはずだ。
 賢いが故に曹沖は理解してしまった。
 何故皆が目を背けるのか。何故、初めから存在しないもののように扱うのか。それはあまりにも非情な答えでありながら、否定することのできない現実だった。
 もし足が健常であったなら、鳥籠に閉じ込められることもなかったのだろう。父と共に戦場へ赴き、その武を示す機会もあったのかもしれない。それが、曹孟徳の子のあるべき姿なのだ。
 小さな手が震えるほど強く握り締められる。
 曹丕は、片翼を捥がれたと言った。それが真実なのか否かを判断するだけの知見は、残念ながら今の曹沖にはなかった。

「まさか兄さまの足は故意に? 誰が、そのような酷いことを……」
「さてな。跡目争いというのは何処でも聞く話だ。気になるのであれば、あれに直接訊いてみるといい」

 曹沖は僅かに顔を俯け、眉を顰めた。嫡嗣をめぐる争いそのものに不満を抱いたわけではない。それは、生まれた瞬間から背負う定めであり、曹家の兄弟たちも皆それを受け入れている。引っかかったのは、曹丕が幾度となく口にする「あれ」という呼称のほうだ。
 いや、曹丕だけではない。屋敷にいる多くの者が、彼をそう呼んでいる。
 それは名を持つ人間に向けるには、あまりにも遠く、冷たい呼び方だった。

「あれ、ではありません。名兄さまです」
「……あぁ。そんな名だったな」

 まるで初めから存在していない者について語るような口振りに、曹沖は腹の底が冷えるような感覚を覚えた。
 あの日、好奇心に急かされて屋敷の奥へ向かわなければ、曹沖自身もまた、曹名という兄の存在すら知らぬまま大人になっていたのだろう。


 空模様と同じく沈んだ気持ちを抱えながら亭子を訪れた。そこでは曹名がいつものように手元の作業に集中していた。どうやら木彫りをしているらしい。木片を削る動作に迷いはなく、木目を撫でるように小刀を滑らせていく。
 いったい、どれほどの刻をこうして過ごしてきたのだろう。この狭い世界で、誰に認められることもなく生きてきたのだろうか。誰にも必要とされぬまま、それでもこうして手を動かし続けてきたのだろうか。小刀を握る手は、どんな想いを抱えているのだろう。
 本来ならば、その手は父の支えとなるはずだったのに。
 ぽつり、と水滴が地を濡らした。曇天の空から、ついに雨が降り始める。湿った土と草の香りが辺りに満ち、しっとりと肌にまとわりついた。

「何故、お前が泣くんだ」
「わかりません」

 そう問われて初めて、頬を伝っていたものが雨ではなく、己の涙であることに気付いた。
 何故、泣いているのだろう。悲しいのか。虚しいのか。それとも、悔しいのか。胸の奥から込み上げてくるものの正体が分からない。ただ、溢れ出す感情を抑えることができなかった。
 もしかしたら、目の前にある理不尽への怒りなのかもしれない。誰にも望まれず、誰にも顧みられず、それを当然のこととして受け入れるしかない兄の姿が、どうしようもなく悲しかった。

「なんで兄さまは泣かないのですか。悲しくはないのですか。怒りたいとは思わないのですか。なんで、どうして……声を上げようとはしないのですか」

 一度口にしてしまえば、堰を切ったように言葉が溢れた。どうして。なぜ。胸の内に積もっていた疑問や悔しさが次々と零れ落ち、気づけば兄を責め立てるようにまくし立てている。悪いのは兄ではない。そんなことは分かっているはずなのに、感情だけが先に走ってしまう。
 泣き顔を晒すべきではないと、曹沖は顔を俯けた。乱暴に服の裾を掴み、頬を伝う涙を拭う。けれど、涙は止まらなかった。

「お前は優しい子だな。それに聡い」

 涙で滲んだ視界に、歪んだ歩みを見せる片足と杖が映った。次いで頭に優しい重さが加わる。ゆっくりと顔を上げると、兄が眉尻を下げて困ったように微笑んでいた。頭を撫でる手つきはどこか不慣れで、それでも不思議なほど温かい。仄かに伝わる熱が、荒んでいた心を少しずつ凪がせていった。
 そうして次第に落ち着きを取り戻していく曹沖を見下ろし、曹名は卓の上に転がっていた木彫りを一つ手に取った。

「これをやろう」
「よいのですか」
「ああ。だから泣き止め。お前はいずれ、曹家を導く男になるのだからな」

 両手を差し出した曹沖の小さな掌に転がったのは、今にも羽ばたかんとする小鳥の木彫りだった。細やかに刻まれた羽は一枚一枚が生きているかのようで、握れば壊れてしまいそうなほど繊細に作られている。兄の目には、鳥はこんなにも美しく見えているのだろう。醜ささえも孕んだこの屋敷の中にいてなお、自分を見失わない強さはこうした姿勢にあるのかもしれない。
 掌の中の小鳥を見つめているうちに、胸の奥に残っていた淀みが、ほんの少しだけ温かなものへと変わっていくのを曹沖は感じていた。


 乱暴に拭ったせいか、目尻には沁みるような痛みが残っていた。そこへ触れぬよう気にしながら曹沖は長い廊下を歩いていく。あの後、雨脚が強くなるから早く戻るよう促されたのだ。兄の言葉に偽りはなく、軒先から覗く庭では雨はますます激しさを増している。
 やがて自室へ戻ると、そこには母である環夫人が待っていた。その厳しい表情を目にした瞬間、己の愚かさを悟る。屋敷の奥へ忍び込んでいたことなど、とっくに知れていたのだ。

「屋敷の奥へ行ってはいけないと言ったでしょう」
「申し訳ありません、母さま。お叱りは受けます」

 母は咎めるような言葉とは裏腹に、どこか悲しげな顔をして小さく息を吐いた。叱責が続くものと思っていた曹沖が意外そうに顔を上げると、母は何も言わずに赤くなった目尻へ指の背をそっと添える。それは泣いたことを責めるのではなく、慰めるような優しい手つきだった。

「いいですか、沖。貴方が起こしたことの責任を、貴方が負うとは限らないのですよ」
「どういう意味でしょうか?」
「もう少し大きくなったら教えてあげます。ですから、今は母の言うことを守りなさい」
「……わかりました」

 他の大人たちとは違い、母が意地悪でこのようなことを言っているのではないと十分に分かっていた。その声にはどこか憐れむような響きが滲んでいたからだ。きっと母は兄の置かれた境遇を知っている。それでも、自分の力ではどうすることもできないと諦めているのだろう。
 そして、それは曹沖自身も同じだった。立場はあっても、力がない。だからどうすることもできない。口を噤み、ただ遠くから兄の安寧を願うことしか許されないのだ。無情な現実に胸の奥が苦しくなった。
 思わず握り締めた手に僅かな痛みが走る。ゆっくりと指を開けば、その掌の中から木彫りの小鳥が顔を覗かせた。

「それは、あの子から頂いたのですね」
「はい」
「そう……とても可愛らしい小鳥ですね。大切にするのですよ」

 母の慈愛に包まれながら、曹沖は木彫りの小鳥を大事そうに胸へ抱き、しかと頷いた。
 その日を最後に、二人が顔を合わせることはなかった。
 兄の曹名と過ごした時間も、交わした言葉も、決して多くはない。けれど、その存在は幼い曹沖の記憶に深く刻まれた。そして、あの日兄から贈られた小鳥だけが、唯一手元に残った思い出となった。


 これより数年後、曹沖は若くしてこの世を去る。
 その生涯で再び曹名と言葉を交わすことも、顔を合わせることも叶わなかった。それでも、あの日々の思い出を象徴する小さな鳥だけは、肌身離さず大切に持ち歩いたという。