目を覚ますと一瞬そこがどこだか分からなかった。
だがすぐに、自分が慕う警察官の匂いに包まれていることに気づき安心する。
被さっていた布団から抜け出しベッドから降りようとすると、足が柔らかいなにかを踏む。
慌てて下を見れば床で松田が寝ていた。
自分がベッドを占領してしまったせいか? と眉を下げたが、テーブルに転がるたくさんの空き缶にそんなことはなかったと溜め息を吐く。
床に転がる松田を避けてベッドから降りると、もう一人床に寝転がっている男がいることに気づいた。
「……知らない人がいる」
起こさないようにと足音を立てずにリビングを出て洗面所へと向かう。
顔を洗ってから松田が用意してくれた自分用の歯ブラシで歯を磨く。
時々お邪魔するようになったこのマンションの一室には、少しずつ名前用の日用品が置かれるようになってきた。
並べられたコップと歯ブラシを見て「しばらく彼女は呼べねーなぁ」と漏らされた声に「いないでしょ?」と笑ったらデコピンをされたのでもう言わないでおこう。
リビングに戻り時計を見ると、松田がいつも起きるであろう時間まではまだ30分程ありどうしようかと悩む。
「朝ごはん……この人の分も必要だよね……」
ひとまず火を使うときは松田の許可が必要なので、寝ている体を小さな手で揺する。
「ねぇ松田さん」
眉を寄せて声を漏らした松田に続けて声をかける。
「松田さん、キッチン使ってもいい?」
「んー……おぉ……気ぃつけて使えよー……」
覚醒しきれていない寝ぼけた声で返されが、名前は気にせずキッチンへ向かう。
冷蔵庫を覗き必要な食材を腕に抱え、シンク横のスペースに置く。
慣れた動作で踏み台を用意して上に立ち、朝食の準備を進めていった。
鼻に届いた美味そうな匂いに目を覚ました萩原は、昨晩の飲み過ぎからくる頭痛に眉を顰める。
ポケットに入れたままの携帯を取り出して時間を確認し、未だ夢の中にいる同僚を叩き起こした。
「おい松田。そろそろ起きろよ」
「……もーちょい……あと1時間……」
「分かったあと5分な」
眠りから覚めない同僚を放置することに決め、硬い床で痛めた体を解すように伸びをする。
ちらりと見たキッチンには、昨夜寝顔しか見ることの叶わなかった子供がせっせと鍋をかき混ぜている。
この匂いは味噌汁か。
一人暮らしだとなかなか汁物まで作る気になれないため、朝の食卓に味噌汁がある生活を送ってる松田が少し羨ましい。少しだけな。
匂いに釣られてリビングに向かい合うように設置されたキッチンを覗くと、昨夜は見れなかった瞳と目が合う。
「よっ」
「ぁ……えっと……おはようございます」
「はい、おはよーございます」
初対面の男に気まずい様子の名前に苦笑して、キッチンを離れそのままリビングを出て行く。
「松田が起きたら風呂借りるって言っておいてくれ」
途中でそう伝えられ、名前は小さく頷いた。
大方朝食の準備が整った頃、大きく背伸びをして松田が起き上がった。
散乱する空き缶に遠い目をしながら寝癖のついた頭を掻く。
「あ、やっと起きた」
コンロの火を止めた名前はゴミ袋を広げながら床に落ちていた空き缶を拾う。
「あーいい、いい。俺がやっから」
袋を奪って乱雑に片付けていく様子に、手持ち無沙汰になった名前は床に放置していた自分のリュックの上に仕舞っていたはずのテスト用紙が置かれてるのに気づく。
首を傾げながらリュックの中にちゃんと仕舞うと、急に頭が重くなった。
「ぅわっ……なに、松田さん」
「お前すげーじゃん」
乱暴に撫でられた頭がふらふらと揺れる。
「も、もしかして見たの?」
「ばっちりな。しっかし頭良かったんだなぁ」
「できるのは、算数だけだから。他は…そんなに良くないし」
「別にいいんじゃねーの?得意なものが一つあれば十分だろ」
最後に柔らかな髪を撫でてその手を離した。
すっかり綺麗になったテーブルに満足し、ゴミ袋の口を縛って立ち上がる。
「さて、と。朝飯食う前にシャワー浴びちまうか」
「あ……そうだ。今、えっと……名前知らない人がお風呂借りるって入ってるよ」
「はぁ?あいつ家主差し置いてなに勝手してんだ」
洗面所に向かった松田を見送ると言い争う声が聞こえてきた。
怒っているようでどこか楽しんでいる松田の声が新鮮で、思わず顔がニヤけてしまう。
バタバタと出勤の準備をする二人分の朝食もテーブルに用意して座って待っていると、だらしなくネクタイを緩めた松田が対面に座る。
「うっそ俺の分も用意してくれちゃってる?」
「いいからさっさと座って食えよ。時間ねぇぞ」
遅れて、ネクタイを結びながら座った男を見つめる名前はなんて呼べばいいのか分からず、困ったように視線を松田に向けた。
「松田さん、あの……このお兄さんって……」
「あぁ、言ってなかったな。萩原だ。俺と同じお巡りさん」
「よろしく、名前ちゃん」
『ちゃん』付けで呼ばれたことが不満で少し怒ったような表情を浮かべ「俺、男だし……」と漏らしながら箸を手に取った。
しかしその表情も、
「お前いつもこんな美味い飯食ってんのかよ」
「羨ましいだろ」
「こりゃ暫く彼女できそうもないな」
「……おいそれは言うんじゃねーよ」
いつもより賑やかな朝食の風景に不満はすぐになくなり、言い合いをする二人に笑ってしまう。
──もっと、この楽しい時間が続けばいいのに。
母親が入院する前まではあった、あの幸せな時間を思い出してそう願わずにはいられなかった。
マンションの前で朝の日差しを遮るためにサングラスをかけ、傍に立つリュックを背負った名前を見下ろす。
「勉強しっかりやれよ」
「うん。松田さんもお仕事頑張ってね。あと萩原さんも」
「んーこのついで感……」
「いや実際についでだろ」
いってきます! と手を振って去る名前を見送り二人は警視庁へ向かった。
確か今日は自分達が所属する隊が爆発物処理の当番だったな。
出動があるまでは待機だ。なんの通報もないことを願うばかりである。
「儚い願いだったな」
「なにが?」
「いやなんでもねぇよ」
登庁してから暫く、慌ただしくなる署内に溜め息を吐く。
爆弾を仕掛けた、と警察に電話がかかってきたのがつい先ほど。
すぐに出動の準備に取り掛かった松田と萩原は隊員から伝えられる報告に耳を傾ける。
「爆弾が同時に二箇所、か」
「おまけに10億円寄こせだもんな」
「で、仕掛けたマンションの住民が一人でも避難したら即アウト」
「欲張りセットかよ」
「ふざけてヘマすんなよ萩原」
「おいおい不吉なこと言うなっての」
出動準備を整え、別々の現場に向かうことになった二人は互いに背を向けた。
「そっちは頼んだぜ松田」
「おう、任せとけ」
車両に乗り込み現場に向かえばタイマー式の爆弾が仕掛けられており、松田はなんとか時間内に解体することができた。
隊員にもう一つはどうなったか聞けばまだ解体できていないと報告があがる。
松田は舌打ちをし、解体した爆弾の処理を隊員に任せもう一つの現場へと向かえば、マンションの住民が次々と避難していた。
どうやら犯人の要求を飲んだようだ。
「爆弾はどうなってるんだ?」
「タイマーは止まっているようです。解体にはまだ時間がかかるそうです」
「ったく、あいつなにやってんだよ」
「安全のため、避難が完了してから解体作業を再開すると報告がありました」
しかし住民の避難が完了してから暫くしてもなかなか解体完了の連絡は来ない。
苛立たしげに携帯を取り出し電話をかける。
『松田、何の用だ』
「萩原お前なにのんびりやってんだ! さっさとバラしちまえよ!」
『おいおいそうがなりなさんな』
ふざけるなって言ったの忘れたのかこいつは。
『っ! みんな逃げろっ』
突然緊迫した声を上げる萩原に息をのむ。
おい冗談ならやめろよ。
『逃げるんだっ!』
電話の向こうが騒がしくなる。
「萩原っ? おいっ──」
頭上から轟く爆発音に、ただ愕然と見上げることしかできなかった。
耳元の携帯からは通話が切断された後の無機質な音が聞こえるだけだった。
夜の病院前で名前は黙って座り続けた。
隣に座る男が、雰囲気が、そうさせる。
なにかあったの?なんて聞ける程、名前は無邪気になれなかったし、松田が望むような言葉をかけてやれる自信もない。
病室の電気はとっくに消えていた。
ゆっくりと立ち上がり、今日はタバコを咥えたままの松田の前に立つ。
「一緒に帰ろう、松田さん」
なかなか立ち上がらない松田に差し伸べられた小さな手。
小さく暖かいその手を暫く見つめ、ゆっくりと握る。
「今度は俺が、松田さんの傍にいてあげるね」
冷えた手を温めるように握り返された熱に、泣きそうになった。
名前に連れられるように帰ってきて、飯を食わされ風呂場に押し込められる。
シャワーを浴びながら、今日の最悪な出来事も一緒に洗い流せたらいいのにと無意味なことを思い自嘲するしかない。
風呂を出れば名前がベッドで横になっていて思わず息をしているか確認してしまった。
なにやってんだ、俺。
ベッドに横になり寝息を立てる名前を抱き寄せる。
「あったけぇな……」
目を閉じれば、じわりと瞳が濡れていった。