memories04


 萩原さんが亡くなってから2年。

 俺は中学へ進学した。
 初めて会った人が、初めて会った日に、もう二度と会えない存在になった。
 亡くなったと聞かされた時はショックだったけど、それ以上にこの人は大丈夫なんだろうかと心配した。
 大切な親友が、隣にいるのが当たり前だった親友が、突然いなくなる。
 気丈に振る舞う姿が逆に不安を仰いだ。

「髪、 切らないのか?」

 松田さんとは変わらぬ関係が続いている。
 あの頃から一緒にいる時間は増えて、母と過ごしていたアパートに帰る時間のほうが少ないくらいだ。

「ちょっと伸ばそうかと思って」

 伸びた髪を指先で弄る。
 ちょうど、萩原さんと同じくらいの長さになった。
 別に意識したわけじゃない。本当に、ただ、伸ばそうと思っただけだ。

「……似合わない、かな?」
「んー……」

 だから、別に、そんな意識はなかったよ。
 いつもより優しい手つきで髪を撫でられた。
 目を細めて、眉を寄せて、口元がぎこちなく釣り上がって、いろんな感情が一度に顔に表れてる。

「いいんじゃねーの? 似合ってんじゃん」

 そんな表情をさせたいわけじゃなかった。
 松田さん、俺知ってるんだよ。
 時々、俺が息をしているか、脈はあるのか、心臓は動いているのか、確認して安堵していることを。
 寝る時に、俺を抱きしめて静かに泣いてることを。

「うん……ありがとう」

 俺は、知ってるんだよ。


 中学生になっても1日の行動はあまり変わらない。
 朝起きて、ご飯を作って、松田さんと一緒に食べて、学校に行く。
 授業が終わり病院に行く前に妹がいる児童養護施設を覗いていくのが日課だ。
 接触しないように少し離れたところから様子だけを見ることしかできないけど、それでいい。

「本当にそれでいいのか?」

 用意した夕飯に箸を進めながら松田さんが器用にも片眉だけを上げた。

「……いいんだよ」

 妹と一緒にいることよりも、母と一緒にいることを選んだのだ。
 俺にはもう、兄と名乗る資格すらない。

「黙って見守ることしか、俺には許されないから」

 できるだけ笑顔を見せようと自分でも不格好になってしまったと分かるくらい中途半端に口元を歪めて、止めていた箸を進める。
 視線を少し俯けながら食事を進めていると、対面に座る松田さんが静かに茶碗を置いた。

「お前……無理して大人になろうとしてんだろ」
「え……」

 顔を上げれば眉を寄せて不機嫌そうな顔が目の前にあった。
 伸ばされた手をじっと見ていればバチンといい音を立てて額を指で弾かれる。

「いっったぁ!」
「もっと子供らしくしろよ、可愛げねーなぁ」

 赤くなっているだろう額を押さえれば、乱暴に頭を撫でられた。

「嫌なことは嫌って言え。泣きたい時は泣け。感情を吐き出すことは、別に我が儘なことじゃねーんだからよ」

 ボサボサになった髪の毛を整えるように雑に梳かれてから、顎を指で掬われて目が合う。
 優しげな眼差しに目元が熱くなる。

「俺にくらい、甘えたっていいんだぜ?」

 なんてかっこいいんだろう、この人は。
 本当は、自分だって余裕がないくせに、血の繋がりもない他人の子供にこんなこと言えるなんて。
 すごいなぁ松田さんは。

「俺……松田さんには、充分甘えてるつもりだけど…」
「足りねーよ。全然足りねー。もっとガンガンこいよ」

 俺も松田さんみたいな大人になれるかな。

「じゃあこれあげるね」
「おい好き嫌いしてんじゃねーぞ。ちゃんと食え」
「こういうところは甘やかさないんだ」
「当たり前だ」

 なれるといいな。
 早く、松田さんを支えることができるような大人になりたい。


 松田さん宛にメールを送ってからいつものように学校帰りに施設を覗けば、一台の車が止まっていた。
 時々、里親になるために訪ねてくる人がいるからそれだろう。
 ちょうど施設の玄関から老夫婦が出てきて、その隣には小さな女の子がいる。
 優しそうな女性に連れられ車に乗り込む女の子が自分の妹だと分かり、無意識に足が動いていた。

「あのっ」

 女性と妹が乗り込んだ後部座席のドアを閉めた男性がこちらに気付く。
 聡明そうな、身なりの整った老紳士だ。

「なにか用かな?」
「……その子、俺の……俺の、妹、なんです」

 男性は驚いたように目を瞬かせた。当たり前だ。突然こんなことを言われれば誰だって驚く。
 俺は震える唇を一度固く閉じて、ゆっくりと開いた。

「お願いします……幸せに、してあげてください」

 俺には、できないから。
 俺がもっと大人だったら、手を差し伸べて、一緒にいてやることができるのに。
 松田さんが俺にしてくれたみたいに。

「っお願い、します」

 じわりと滲んだ視界に目を閉じて頭を下げる。
 どうか俺の代わりに、お願いします。
 静かに足音がして止まる。

「もちろんだ。約束しよう」

 肩に優しく手を置かれ勢いよく顔をあげると、男性は優しい表情でこちらを見ていた。
 溢れそうになる涙を我慢し、もう一度頭を下げて踵を返す。
 振り返らずにその場を走り去った。
 早く。早く教えてあげないと。
 もう大丈夫だよ。あの子はもう、大丈夫だよって。
 もう心配しなくても平気だよって。
 早く教えてあげないと。
 病院に着いて乱れた息を整える。
 走らないようにしながらも足早に母さんの病室を目指す。
 いつもは閉まっている病室のドアが開いていることに疑問を持ちながらも勢いよく病室に入る。

「母さ──」
「脈、戻りません!」
「もう一度!」
「はい!」
「苗字さん、聞こえますか!?」

 決して広くはない病室の中を慌ただしく動く人々に、理解が追いつかなくて動けなくなる。
 心臓を何度も圧迫されている母さんの姿に、頭が真っ白になっていく。
 なんだ、これ。

「名前くんちょっとごめんね」

 見知った看護婦さんに優しく肩を抱かれ、病室から出される。
 病室から聞こえる声がだんだん遠くなっていく。
 おかしいな。
 あれだけ騒がしいならもっと聞こえるはずなのに。
 何度も病室を行ったり来たりする看護婦をただただ眺めることしかできない。

「母さん……もう、大丈夫だよ」

 眠りについたことを知らせる無機質な電子音だけが嫌に耳に響いた。


 松田は誰もいない家に鍵をかけて歩き出す。
 携帯を確認すれば間違いなく名前からメールが入っており、内容は家で待ってる旨と夕飯のメニューが書かれている。
 なのに、いざ家に帰って来れば部屋は真っ暗で誰もいない。
 テーブルに置かれたものや放置された寝巻きが朝と同じ状態なのを見て、帰ってきていないことが分かる。
 仕方なく名前がいるであろういつもの場所へと向かう。
 だがそこにもいなかった。
 チラリと病室のほうへ目を向ければまだ電気は点いており、無意識に眉を顰める。

「どこ行ったんだ、あいつ」

 今まで一度も、名前の母親には会ったことがない。
 ”会えなかった”と言ったほうが正しいだろうか。
 どういう事情かは分からないが、面会できる人間が限られていたからだ。
 その病室に足を進める。
 なにかあれば警察だと伝えれば問題ないだろう。
 しかし、初めて訪れた病室のベッドは綺麗に整えられ、まるで人なんかいなかったかのようだった。

「なぁここに入院してた苗字って女の人、退院したのか?」

 病室から出てきた看護婦に尋ねれば怪訝そうな顔を向けられる。

「お知り合いの方ですか?」
「あー……息子の方と知り合いなんだ」
「あぁ名前くんの。実は──」

 看護婦から告げられた言葉に、サングラスの奥の目が見開かれた。

 薄暗い部屋で白い布を顔に被せられ静かな眠りについている母親のベッドの前で椅子に座っている名前。
 その後ろ姿に、あの日の自分を重ねる。

「俺……本当にひとりぼっちになっちゃった」

 それが誰に向けられた言葉なのか、松田には分からなかった。

「名前」

 聞こえているのかどうかも分からない。
 なんの反応も示さない名前の前に膝をつく。

「名前」

 冷え切った頬を包み込むように手を滑らせる。

「松田さん、あのね」

 ぼうっと宙を見ていた目が松田を捉えた。
 嬉しそうに目を細められる。

「妹がね……今日、良い人に引き取られたんだ」
「……そうか」
「幸せにしてくれるって約束してくれたんだよ」
「よかったな」
「うん」

 じわじわと瞳に涙の膜ができる。

「母さんも、それが分かったから……だから安心できたんだ……」

 溢れた涙が頬を伝い、親指で優しく拭う。

「松田さん」
「ん?」
「ひとりぼっちは、いやだよ……」
「……そうだな」
「さびしいよ……いやだよ……」

 ボロボロと流れる涙を拭うには手では追いつかなく、そっと頭を引き寄せて肩に押し付けるように抱きしめた。
 震える肩を強く抱いて、いつもは乱暴に撫でる髪をゆっくりと梳くように撫でる。

「お前はひとりぼっちになんかならねーよ」

 じんわりと温かく湿る肩に目を細める。

「俺が、傍にいてやる」
「……うん」
「一緒に帰るぞ」
「っ、うん」

 必死にしがみ付いて来る名前に、やっと甘えてくれたなと心の中で呟いた。