memories05


 松田さんに付き添われて細やかに行った母の葬儀に、父の姿はなかった。
 もう父ではないけれど、ほんの少しでも情が残されていることを期待した自分が馬鹿らしくなる。

「花園の代理で来ました」

 その男は、まだ家族がバラバラになる前に何度か会ったことのある父の秘書だ。
 来たくないのなら来なくていい。
 来れないのなら来なくていい。
 一度は愛した人との別れの日に、自分の代わりに他人を送りつける男が自分の父であると、理解したくない。

 この日から、血の繋がった”父"とは思えなくなった。


 母と住んでいたアパートの一室は物がなくなり、なんだか前より広く感じる。

「荷物これだけか?」
「うん。ほとんど家にはいなかったから、あんまり物ないんだ」

 玄関から覗いてきた松田さんに振り返り、綺麗に掃除されたもう帰ることのない部屋を後にした。
 要らないものは処分して、必要なものだけを持って松田さんの車に乗り込む。

「んじゃ、帰るとしますか」

 ゆっくりと走り出した車が向かう先は、俺の新しい”帰る場所”。
 今まで半分同居していたようなものだったけど、正式に一緒に暮らすことになった。
 母の葬儀後、”父”から伝言があると言った秘書の男に聞かされた内容に、俺は怒りでその時のことをよく覚えていない。
 でもあの男からの言葉だけははっきりと覚えている。

『お前もまだ小学生なのだから、望むなら、戻ってきても構わない』

 両親が離婚してから4年弱、あの人は一度も母の見舞いには来なかったし、子供である自分や妹にすら顔を合わすことはなかった。
 記憶では、あの人は俺の親権を母から奪おうと躍起になっていたはずなのに、別れた途端に一切連絡は来なかった。
 もしかしたらと思っていて、それが真実でないことを願っていたのに呆気なく崩れた。
 あの男は自分の子供に関心がないんだ。最初から。

『息子の年齢も分からないやつが父親面なんて笑わせる。名前は俺が育てるからご心配なくって伝えとけ』

 そうだ、もう一つ覚えてることがある。松田さんが言ってくれた言葉だ。
 気づけば秘書の男はいなくなっており、珍しく申し訳なさそうな顔をしている松田さんから「勝手でわりぃけど一緒に暮らすことにしちまった」と言われ、俺はただただ嬉しくて煙草の匂いがする服を離さないように握りしめた。
 なんてことを思い出していると車が止まって松田さんの住むマンションに着いたことに気がつく。

「引っ越しっつーわりには荷物少なすぎだろ」
「ほとんど服しかないからね。歯ブラシもタオルも、必要なものはほとんどもう松田さんの家に置いてあるし」

 荷物は大きなカバンが二つだけ。
 先を歩く松田さんの後を追いながら、慣れた足取りで玄関に入る。

「おじゃましま──っぃた!」

 靴を脱いで一歩踏み出せば額に衝撃が襲い、驚いて顔を上げれば呆れた顔の松田さんが立っていて思わず首を傾げた。

「え、なに?」
「ばーか。間違えてるぞ」

 なんのことを言われているのか、一瞬の間をおいて理解した。
 その言葉を口にするのはいつ振りだろう。母が入院する前が最後だったろうか。

「ぁ……えっと……っ」

 あれ?
 たった一言がなかなか出てこない。
 簡単な言葉のはずなのに。

「ま、つだっ……さん……」

 目頭が熱くなって、どうしても抑えきれなくて、涙が溢れた。
 松田さんはからかいもせず、優しく指で拭いながら柔らかな表情で俺を見てくれる。

「っ、ただいま」

 馬鹿みたいだ。こんなことで泣くなんて。

「おかえり、名前」

 神様なんて信じてないけど、俺にとって松田さんとの出会いは奇跡であり、幸福なことなんだ。
 お願いです。
 この人と、ずっと、一緒にいさせてください。



 仕事に向かう松田さんを見送るために玄関まで着いていくと、愛用のサングラスをかけながら振り向かれた。

「学校、無理して行かなくてもいいからな」
「……うん。いってらっしゃい」

 静かに閉まった玄関に鍵を掛けてリビングに戻り、テーブルに乗っている食器を片付ける。
 俺の気持ちが落ち着くまでは学校に行かなくてもいいと言ってくれた松田さんの言葉に甘えて、ここ1週間は学校へは行っていない。
 学校の先生方も、俺の家庭事情はある程度知っているため咎める人はいなかった。
 ──、──、──────────
 時々耳鳴りのようなものがして、だけどよく聞くとそれは耳鳴りではなく、あの日聞いた電子音で、無意識に洗い物をしていた手が止まる。
 手から滑り落ちた皿がシンクにぶつかる音で我に返り、割れていないことを確認して息を吐く。
 あの日の光景は今でも鮮明に思い出せるし、あの日聞いた声や音はすぐ近くで聞こえてくる。まるで幻聴だ。

「俺は……そんなに弱い奴じゃ、ないだろ……」

 自嘲気味に口元を歪めながら残りの洗い物を終わらせる。
 リビングに戻ってこの部屋で唯一の本棚へ近づく。本棚代わりにしているボックスと言ったほうが正しいだろうが、松田さんが「どう見ても本棚だろ」と言い張るのでこれは本棚なのだ。
 その中から一冊の本を抜き取り、ペラペラとめくっていく。
 ここにある本は松田さんが警察学校時代に教本として使ったものなんだそうだ。

『興味があるなら教えてやろうか?』

 俺は別に警察になりたいだとか思ってはいないけど、松田さんのようになりたいとは願っていた。
 爆発物に関する教本を見ながらあれこれと話す松田さんは生き生きとしていて、俺の伸びた髪を指で弄っては懐かしい目を向けてくる。
 松田さんと萩原さんは爆発物処理班というところに属していて、萩原さんの亡くなった理由が爆弾解体中だと初めて知った。
 本を見下ろした視界に自分の髪が入ってきて、指で摘んだ。
 俺は、母さんを思い出すと辛い。苦しい。
 松田さんもきっと、萩原さんを思い出して辛いだろうか。

「やっぱり……切ろう」

 本を閉じて立ち上がり、雑貨が置かれた棚からハサミを手にして洗面所へと向かった。
 単純な思考だと自覚してる。
 髪を切ったところで大して変わらないことは分かってる。
 けど、少しでもいいから、松田さんの不安や焦りをなくしてあげたい。
 ジャキン、と耳元で音が鳴り洗面台に傷みのない髪が散った。

 夕飯の支度をしているとドアの開く音が聞こえ、コンロの火を消してから玄関へ向かう。
 背を向けて靴を脱いでいるその背中に向かって声をかける。

「おかえりなさい」
「おーただいま」

 玄関から上がりながらかけていたサングラスを外した松田さんが驚いたように目を瞬かせた。

「あ? なんだ、切ったのか」
「うん……やっぱり、萩原さんのこと思い出しちゃうかなって……」

 なんだか気まずくて視線を逸らしながらそう言えば、大きな溜め息が聞こえて慌てて松田さんのほうを向く。
 呆れたような、だけど少し怒ったような、そんな表情を浮かべていた。
 ガシッと頭を掴まれ乱暴に両手で撫でられる。

「お前……はぁ……バカだなぁお前は。ガキが気ぃつかってんなっていつも言ってんだろ」

 ボサボサになった髪を適当に戻してからいろいろな角度から見られる。

「前は問題ねーな。後ろは……ひでーなこれ」

 腕を掴まれてリビングまで連れてこられた俺は、広げた新聞紙の上に座れと言われて思わず固まる。
 ハサミを手にした松田さんが視界に入り、慌てて後ずさった。

「えっと、夕飯は?」
「んなもんあとだ、あと」

 逃げないように腕を引かれ元の場所に戻される。

「ほらさっさと服脱いで座れ」

 これはもう逃げられないと腹を括り、シャツを脱いで腰を下ろす。
 後ろにいる松田さんに、やっぱり怒らせただろうかと内心焦る。

「そりゃ辛いことも思い出すけどよ」

 金属の刃が重なる音がリズムよく聞こえる。
 背中に落ちる自分の髪がくすぐったくて、少しだけ身をよじった。

「あいつとはアホなこと言ったり、バカやった思い出のほうが多いくらいだ」

 後頭部を優しく何度も撫でられる。

「いいか? 思い出ってのはな、なにも辛いものばかりじゃねーんだよ」

 ハサミを置いて正面に来た松田さんの顔からは呆れた表情はなくなっていた。
 頬を包み込むように手で挟まれ、親指がゆっくり撫で付ける。

「お前も、母親と過ごした楽しい時間があっただろ?」

 その言葉がやけにストンと胸に落ちた。
 そして思い出すのは狭いアパートで母と妹と過ごした穏やかな日々と、入院した母の病室でその日あったことを話す俺に笑顔を向けてくる母の顔。
 なんで今まで思い出さなかったのかと疑問に思うほど、温かい記憶が蘇る。

「松田さん」
「ん?」
「俺……来週から学校行くよ」
「……そうか」

 目を細めて優しく笑う松田さんに、胸のあたりが苦しくなって、熱くなった目頭を隠すように視線を伏せた。
 そんな俺に声を上げて笑い、また頬を撫でられる。

「お前はほんと、可愛い奴だな」

 ──子供扱いしないで。
 なんて言えない。言っちゃいけない。
 困らせたら、ダメだ。

「さて、片付けて飯食おうぜ」

 離れた手の温もりを追いかけることは、できなかった。