cravate02


 珍しく朝から学校へと来ていたが俺の通う鈴蘭高校は相変わらずの無法地帯っぷりだ。授業なんてものは名ばかりで教員は職員室から極力出てくることはない。だから教室では暇つぶしにバイク雑誌を読むだけ。それを邪魔しに来る奴がいないのはD組はすでに伊崎という男を頭として統制が取れているからだ。俺はどこの派閥にも勢力にも属していない。入学後に起こったクラス統一の抗争以降、伊崎たちとはお互いに干渉しあわないという暗黙のルールができていた。
 そうであるからと言ってなにも教室で喧嘩が起こらないわけでもない。D組の連中が他の勢力の連中に喧嘩を売ることがあればその逆もある。落書きのされた机の上に広げたバイク雑誌を頬杖しながら眺めていると突然教室のドアが蹴破られた。また始まったか。俺は呆れて早々に教室を去った。どこもかしこも殺伐としていてゆっくりできそうなところはなさそうだ。
 ポアロのバイトまでどう時間を潰そうか。怪我でもして行ったらまたお節介の梓がうるさいし、面倒なことに今ではそれが一人増えた。あの男にはあまり関わりたくない。なのでなるべく喧嘩をしない方向で過ごしたいが、鈴蘭にいてはそれも難しい。学校に来たのは出席日数を確保するためだ。一応教員とは顔を合わせたし今日はもういいだろうか。ならばどこかへ走りに行ってしまおう。
 バイクの停めてある駐輪所まで足を進めながらポケットに入っている煙草の箱を取り出した。あの人が吸っていたのと同じ銘柄の煙草を一本取り出し、あの人が遺していったジッポライターで火をつける。肺に煙を送り、ゆっくりと吐き出す。暫く煙草を吸いながらバイクに寄りかかり手の中でライターを遊ばせているともう片方のポケットから振動を感じ取った。指で挟んでいた煙草を咥え直しバイオレットカラーのスマホを取り出すと、ディスプレイには最近になって登録された番号が表示されている。

「ん」
『風見だ。今、大丈夫か?』
「普通に考えて学生は授業の時間帯だけど」

 通話ボタンをタップして耳元へスマホを近づけると聞こえてきたのは最近知り合った公安刑事の声。煙草を咥えたままだったので俺の揶揄い混じりの言葉が相手にちゃんと伝わったかは怪しい。

『高校生が煙草を吸うんじゃないと言っているだろう。あと、授業はちゃんと出なさい』

 どうやら咥え煙草のことまでちゃんと伝わったらしく声が少し厳しいものになる。おいおいあんたは俺の母親か。軽く舌打ちをして口元から放すが、まだ途中までしか吸っていないので消すなんてもったいないことはしない。どうせ電話だからバレやしないだろう。

「鈴蘭がまともに授業やってるなんて思ってるんだ。リサーチが足りてねぇな、お巡りさん」

 あぁ、でもこの人は公安だから管轄外か。俺たち不良高校生を相手にするのは主に生活安全課の人たちだ。今は落ち着いたけど去年までは結構お世話になったな、なんてことを思い出す。

『君は────』
「それで、なんの用?」

 これ以上余計なお説教をされる前に本題へと移るが、この人が俺に電話をしてくる理由なんてものは一つしかない。それは不定期に行なっている例の報告会についての日程確認だ。と言ってもいつも突然連絡が来て予定が合えば会っているだけに過ぎないし、報告会というよりはほぼ相手の愚痴を聞いているだけなのだが。
 提案された時間と今日のスケジュールを照らし合わせ問題ないと返事をする。用は済んだとばかりに再度煙草を口に近づければ、それからと風見は言葉を続けた。

『煙草はやめるんだ』

 最後にそれだけ言い残して通話が切れた。耳元からスマホを離して周りを見渡すが、見慣れた景色が広がるばかりでとくに人の姿はない。

「……まさかな」

 おそらく会話を終わらせるついでに注意をしただけなのだろうが、まるで見ていたかのようなタイミングに一瞬だけドキッとした。スマホの画面をタップしポケットに仕舞ってから煙草を口に咥えるがどうも吸う気が失せてしまったのか気分が乗らない。眉間にしわを寄せて吸いかけのそれを携帯灰皿に放り込み、気を取り直してバイクに跨る。フルフェイスのヘルメットを被りエンジン音を響かせ、学校を背に走り出した。


 それから数時間後、少々ツーリングを楽しんでからバイト先のポアロへと向かえばお昼時の忙しさは去った後のようで客はいなかった。テーブルを拭いている安室がこちらに気付き爽やかな笑顔で挨拶をしてくるがそれには適当に返事をする。困ったように眉を下げながら笑う安室の横を素通りして洗い物をしている梓に声をかけた。

「それやっとくから」
「ありがとう名前くん」

 申し訳なさそうな表情でそう言った梓がエプロンを外しバックヤードへ入っていくのを見届け、持っていた紙袋をカウンターに置く。午後から急な用事が入ってしまったという彼女からの連絡を受けたのは昨日だ。その時間のシフトには安室も入っているのは知っていたから最初は断ろうと思っていた。だが、どうしてもお願いと頼み込んでくる彼女に渋々引き受けるしかなかった。
 俺は初めて会った時から安室の笑顔が苦手だ。それだけじゃないが、とくに笑顔が苦手なのだ。なんだか胡散臭い。理由はそれに尽きる。

「名前くんが来てくれて助かったわ。学校があったのにごめんね」
「午前中に行ったから平気。あと、これあげる」
「なーに、これ?」
「ピーナッツ最中。千葉まで走ってきたからついでに買った」
「……本当に学校行ったの?」
「朝にはちゃんと」

 バックヤードから出てきた梓にカウンターに置いておいた紙袋を渡しながらそう言うと、少し怒った表情をされた。でもそれはいつものことなので気にしない。それは彼女も同じなのか、それとも呆れているのか、カウンターの奥に入り途中で放置されていた洗い物に手をつけた俺にしょうがないなぁと息を吐くだけだった。こうして学校をサボりどこかへとバイクを走らせてはお土産を買ってくるのは一度や二度ではない。だから彼女もきっと諭すのを諦めたのだろう。
 そして梓はお土産ありがとうと言い残し、急な用事とやらに出かけて行った。

「学校はちゃんと行ったほうがいいですよ。まぁ、苗字くんが通っている高校は県内随一の不良校ですから学ぶことはあまりないと思いますがね」

 うっかり存在を忘れていたがこの時間のシフトにはこの男がいたのだった。

「苗字くん、頭は悪くないですよね。なぜあの高校に通っているんですか?」
「……さぁね。あんたに関係ないってことは確かだよ」
「相変わらず、僕には冷たいなぁ。そういえば僕にはお土産ないんですか?」
「ない」

 苦笑いをする安室にちらりと視線を向け、すぐに手元へ戻す。貼り付けたような表情があまり好きじゃない。馴れ馴れしいのも好きじゃない。俺はこの人がいくつもの顔を持っていることを知っている。そのどれもが嘘のように見えて気を許すことができなかった。
 今から少し前、ベルツリー急行で起こった出来事を俺は忘れない。たとえ公安であったとしても、哀を危険な目に遭わせようとしていた事実は変わらないのだ。あの時は運良く変装の名人である怪盗がいたから身代わりとなってくれたが、もしもの場合を考えると生きた心地がしない。なのにこの安室という男は、安室透である時はまるでそんなことなんてなかったかのように振る舞う。危険なんかないんだとでも言うかのように笑顔を浮かべる。
 ────それが、とても気持ち悪い。
 そう心の中で吐き捨てて、泡を洗い流した皿を水切りのラックに置き水道の蛇口をキュッと閉める。店のドアが開く音がして、いらっしゃいませという爽やかな声が耳に届いた。



 閉店時間を過ぎたポアロで後片付けをしていた安室は鼻をかすめた芳ばしい香りにテーブルを拭いていた手を止めた。目に見えない香りを辿るように視線を動かせば名前がコーヒーを淹れていた。ポアロでバイトを始めた時、マスターや梓から彼の淹れるコーヒーは格別だと聞かされていた。その証拠に客の中には彼が淹れるものをお願いと名指しで注文が入るほどだ。運良く一度だけ飲んでみたことがあり、確かにそれは自分が淹れるよりも美味しかったのを覚えている。だが嗅覚に届いた香りはこの店では嗅いだことのないものだった。

「新しい豆ですか?」
「店の余りものをブレンドしただけ」
「美味しそうな香りですね」
「一杯分しか作ってない」
「……それは残念です」

 名前の自分への冷たい対応の徹底ぶりに感心してしまう。無視されないだけまだマシではあるが、安室としてはできればもう少し友好的な付き合いをしたいところだ。
 一杯分しか作られなかったコーヒーは有名なチェーン店で売られているタンブラーに注がれていった。その様子を見つめる安室に気付いている名前は、向けられた視線だけで感じた不快を隠しもせず表情に浮かべる。まるでこちらを観察するような瞳、視線。それが苦手なのだ。本来なら仕事終わりにこのコーヒーを飲んでから帰ろうとしていたのだが、なんだか飲む気が失せてしまっていた。捨ててしまうには勿体ない。せっかくの香りのいいコーヒーだ。と、そこで一人の人物を思い出した。そうだ、あの人にあげてしまおう。
 名前はタンブラーの蓋をしっかりと絞めてから閉店作業へと戻った。



 約束の時間より少しだけ早く待ち合わせの場所に着いていた風見の耳にすでに慣れ親しんでしまったエンジン音が届いた。名前の乗るバイクの音だ。単車についてそこまで詳しいわけではないが彼の乗っている車体がトリッカーと呼ばれる車種であることは直接本人から聞いていた。いろいろとカスタマイズしてあるのだそうだ。
 停車してある風見の車の横にバイクが停止する。エンジン音が止まりフルフェイスのヘルメットを脱いだ後、名前が何かをもって近寄ってきた。

「これやるよ」

 そう言ってぶっきらぼうに差し出されたのはステンレスのタンブラーだ。側面には見覚えのあるロゴマークが印刷されている。それは風見がよく利用するコーヒーチェーン店のものだ。そのことを彼は知っていたのだろうかと疑問が過る。まさか上司である降谷がわざわざ言うはずもないだろう。そもそも彼と会っていることは報告すらしていないのだからあるはずがない。単純に考えてみれば有名店なのだから知らずに買ってくることだってある。ではなぜ彼は自分にコーヒーを買ってきたのか、という別の疑問が浮かび上がった。
 差し出されたタンブラーを前に一人百面相をしていると次第に名前が苛立ったように眉を寄せる。

「いらねぇの?」
「っあぁ、すまない。頂くよ」

 尖った声音に風見は慌ててタンブラーを受けとった。仕事の合間にここへ来ているため休憩も兼ねている。外での行動が多いとどうも水分補給は忘れがちだ。ありがたく頂こうとさっそく飲み口を開ける。するとふわりとコーヒーの香りが鼻に届いた。その香りに誘われて思わず顔を近づけるとより深く息を吸う。そして久々にコーヒーの香りを味わうな、とホッと息を吐いた。

「毒なんて入ってねぇけど」

 だが、どうやら名前には異物が入っているのではないかと確認しているように見えたらしく慌てて首を振って否定する。ふーん、と未だ疑いの目を向けてくるので風見は困った。本当に、ただ本当にいい香りに誘われただけなのだ。しかしあまり弁解すると余計に疑われてしまう。せっかく買ってきてくれたのだから機嫌を損ねさせるのはよろしくない。
 飲み口に唇を寄せてタンブラーを傾ける。すっきりとした酸味と仄かな甘味が口いっぱいに広がり、鼻から抜ける香りがなんとも言えない。無意識にタンブラーの印刷されてるロゴを見て、もう一度口をつけた。

「……美味い」

 風見は内心驚いていた。いつも飲んでいるコーヒーとは違っていたからだ。こんなにも美味しかっただろうか。それとも忙殺される仕事の最中に飲んでいたから味わっていなかっただけなのか。それを確認するかのように再度タンブラーを傾けてコーヒーを口に含んだ。舌の上にさらりと広がるコーヒー特有の苦味。だけど、やはり初めて知る味だった。
 夢中でコーヒーを飲む風見の姿に先ほどまでの不機嫌そうな雰囲気はどこかへとやってしまった名前の表情は少し得意げなものになっていた。

「気に入った?」

 近くのベンチに腰を下ろしながらそう訊ねると大きな頷きが返された。その反応に名前は自分の口元が緩んでしまったことに気付く。

「そ。じゃあ気が向いたらまた淹れてやるよ」
「あぁ、頼む……待て、まさかこれ君が淹れたのか。買ってきたのではなく?」
「自分でやったほうが旨いやつが飲めるだろ」

 予想にもしていなかった種明かしに驚いて危うくタンブラーを落としそうになった風見は慌てて手に力を込める。不良高校と名高い学校に通っている学生の淹れるコーヒーがこんなにも美味しいものなのか。あまりにもギャップがありすぎる。どこでそんな知識を、いや、彼は今自分の上司と同じ喫茶店でバイトをしているのだからきっとそこでだろうか。でもだからと言ってバイトがこんな美味しいコーヒーを淹れられるものなのか。もしかしたら自分は疲れすぎていて味覚もおかしくなったのではないか。だがもう一度、いや何度でも飲みたくなるコーヒーなのは間違いない。
 などと少々失礼なことまで考え始めてしまった風見に気付いているのかいないのか、飲み終わったらそれ返せよなと言いながら名前は平然とタンブラーを指を差した。


 一方バイトが終わりポアロを後にした降谷は一度セーフハウスに戻り、スーツに着替えてから確認したい資料を見るため警視庁へと赴いていた。資料の束に目を通し慣れた手つきでスマホの画面をタップする。

「────風見か。今どこにいる?」

 ツーコールで繋がったのは部下の風見だ。相手が都内にいることを確認し、すぐに戻ってくるよう指示をして通話を切る。彼は私立探偵の安室透として動く降谷をサポートしている警視庁公安部の刑事で、組織以外の事件でも捜査を共にすることがある。だからこうして呼びつけてしまうのはよくあることなのだ。
 電話をしてから十分程して現れた風見は自分のデスクに持っていた荷物を置いて降谷の側へと寄る。すると記憶に新しい香りがしたような気がした。だが一瞬逸れた意識はすぐに戻す。確認した資料を渡しながら裏を取るよう伝えると、彼はすぐに他の部下を連れて出て行った。自分の前から去る時、踵を返す動きに合わせてまたその香りがした。
 一度気にしてしまったことは明らかにしないと落ち着かないのが降谷だ。それは警察しての癖なのか探偵としての性分なのか。香りの元を探るため風見のデスクに近づくと置かれていった荷物の中に今日目にしたばかりのものと同じタンブラーがあった。迷わず手に取ったタンブラーの蓋を外し顔を近づけてスンと香りを嗅ぐ。やはり同じだ。

「なぜ風見がこれを……?」

 それは今日ポアロで名前が入れていたコーヒーだった。降谷の記憶では二人が接触したのはあの東都水族館で組織の連中と一悶着あった時のみである。タンブラーを元の場所に戻し、腕を組んで改めて風見のデスクを見渡すとあるものに目が止まる。それは以前お土産だと言って彼が毛利蘭に渡していたものと同じ菓子折りの箱だった。
 とても偶然とは思えない。これだけでも二人があの事件後に何度も接触していることを匂わせている。理由はなんだろうか。あの二人が交流を持っている理由。風見が、たった一度の事件で顔を合わせただけの高校生と会う理由。組織の情報を得るため。FBIの情報を得るため。小さな探偵について探るため。もしや逆に利用されてこちらの握っている情報を引き出されているのか。いくつもの推測は挙げられるが、どれを取っても自分に報告がないというのはおかしい。部下はとても真面目なやつなのだ。公安刑事としての誇りも持っている。だからこそ訝しんでしまう。

 こうして降谷が疑問に思ってから行動に移すのは早かった。風見と名前のスケジュールを完璧に把握し、二人の空いた時間が重なる時を待った。そして遂にその日がやってきた。仕事としては用のない場所へと向かう部下の後を尾けると、やはり着いた先には彼がいた。時間は深夜に迫ろうとしている。おまけに人気の寄らない場所。これは十分に怪しすぎる。

「風見。これはどういうことだ」

 二人の前に姿を現せば風見は慌てたように弁解しようとした。その様子を呆れた表情で見ていた名前から発せられた言葉に降谷の思考が停止したのは致し方がないことだった。

「俺たち付き合ってんだよ」

 この答えは、降谷が望んでいたものでも推測していたものでもなかったのだ。予想外とはまさにこのことだろう。