子供っぽいと思うけど、俺は松田さんに頭を撫でられるのが好きだ。
乱暴だけど、どこか愛情の感じられる暖かく大きな手が好きだ。
時には兄のように優しく、時には父のように厳しく、俺を大事に想ってくれる、憧れの人。
萩原さんが亡くなった日から今日でちょうど4年。
毎年この日になると松田さんは落ち着かない様子で家を出る。
今日もそうだ。
朝はいつも声をかけないと起きないのに、俺より先に目を覚ましてベランダで静かに煙草を吸っていた。
こういう時、どう声をかければいいのか分からない。
「じゃ、いってくる」
あまり会話のない朝食を終えて、早々と玄関へと向かう松田さんを追いかける。
なんとなくその背中を捕まえなければいけないような気がして手を伸ばすが、触れる直前でハッとなり重力に逆らうことなく手を下ろした。
考えすぎだろうか。
自分よりも大きな背中を見つめる名前に気づいた松田は振り返り、曇る表情を浮かべるその頭を撫でた。
途端に不安な顔して見上げてくる様子に内心舌打ちをする。
「松田さんっ」
縋るように名前を呼ばれ、やはりやるべきじゃなかったと後悔した。
名前を撫でることなんて今まで何度もしてきた。ただ、こうして見送りの時には普段やらない。
いつもと雰囲気の違う松田の様子と相俟って、名前の心に不安が押し寄せる。
「ん?なんだ?」
そんな名前に気づいていながらも、いつも通りの態度で振る舞う松田にこれ以上は何も言えず口を噤んだ。
「……いってらっしゃい」
「おう」
少しばかり沈んだ声を出す名前に眉を寄せて、撫でていた手を後頭部に回し引き寄せた。
驚きに上がった声を無視して強くその体を抱きしめれば、躊躇いがちに背中に回された腕に小さく笑う。
「いい子にして待ってるんだぞ」
「俺もうすぐ高校生だよ?」
「はっ、俺から見りゃ中学生も高校生も変わらねぇよ」
体を離して見下ろした先にある表情は未だに不安が残るぎこちない笑みを浮かべていて、惜しむように家を出た。
──全て片付けてくる。お前のためにも。萩原のためにも。
警視庁に届いた爆破予告に、爆弾がショッピングモールの観覧車に仕掛けられていると気づいた松田はすぐに行動に移る。
その後を追ってきた佐藤と共に車に乗り込み現場へと急いだ。
緊迫感のある車内で松田は懐からライターを取り出して握りしめる。
この日をずっと待っていた。あの日からずっと、待っていた。
萩原を吹っ飛ばした奴の首根っこ掴んで一発殴ってやらねぇと気が済まない。
犯人を捕まえるためなら、俺は−−。
「あんた、一つ頼まれごとされちゃくれねぇか?」
「こんな時に一体なによ」
松田は持っていたジッポライターを車のダッシュボードの上に置いた。
太陽の光を反射してキラリと煌めくそれは、松田が肌身離さず持っている大事なものだというのは佐藤も知っている。
彼が大切にしている子から貰ったものだ。
「俺になにかあったら、こいつを名前に渡してくれ」
初めて、彼の口からその名を聞いた。
「ふざけたこと言わないでちょうだい」
「別にふざけてねぇさ」
ハンドルを握る手が力む。助手席に座る男の声がふざけているものじゃないことは分かっている。
だからこそ、腹が立つ。
「そんな約束できないわ」
「いいや、あんたならちゃんとやってくれるさ」
「っ……その子、身寄りがないんでしょう?あなたがいなくなったら一人になるのよっ」
サングラスの奥の瞳が細められる。
そんなことは分かりきっていることだ。あいつには俺しかいない。縋れる相手は、俺しかいない。
けど、親友の仇が目の前にいたら俺は冷静じゃいられないんだ。
「俺があいつに遺してやれるもんなんて、これくらいしかねぇんだよ」
銀色に光るライターに刻まれた自分の名前を見つめていると、視界の端にハンドルを力強く握りしめる手が見えた。
ちらりと隣に目を向けて、眉を寄せ納得のいっていない顔をする佐藤に笑う。
「んな顔すんなよ。”なにかあったら"って言ったろ? 俺はそう簡単に死なねぇよ」
佐藤には、それが現実になるような気がしてならなかった。
現場に着いて爆弾の仕掛けられたゴンドラに臆することもなく乗り込む彼を止めることができなかったのは、彼の覚悟を聞いてしまったからなのだろうか。
爆弾の液晶パネルに表示された文字と、もう一つの爆弾の在り処が病院であると伝え懐に手を差し込む。
煙草の箱から1本取り出し口に咥え使い捨てライターで火をつけた。
──最期の煙草がこれじゃあ味気ないな。やっぱ遺さず持って逝ってやればよかった。
『松田くん。残された人の気持ち、あなたは充分知ってるでしょう? あの子に、同じ思いをさせるつもり?』
電話越しに焦りを含んだ佐藤の声が聞こえる。
名前は知ってる。あいつも残された側だ。俺と同じ。だから放っておけなかった。
「もう電池が切れそうだ……じゃあな……あいつのこと頼んだぜ」
通話を切って煙草の煙を吐き出す。
慣れた手つきでメールを打ち、迷うことなく送信する。
「偉そうに傍にいろって言ったのは俺のくせに……」
死ぬ気はなかった。だが、死ぬ覚悟はしていた。
今朝方の名前の様子を思い出して乾いた笑いが漏れる。
──もっかい、キスしちまえばよかったな。
ダメか。そんなことしたら、余計悲しませるだけだ。変に期待させて俺がいなくなるなんて酷すぎだろ。
「ずるい大人で悪ぃな、名前」
いつか、俺じゃない誰かがお前の傍に居てくれることを願ってる。
爆弾のタイマーが残り1分を切って、今度は佐藤宛にメールを打ち込んでいく。
改行を多く入れた先に打ち込んだ文章に違和感を覚えハッとした。
思わず漏れた笑いに追加で文字を打ち込み、液晶パネルに視線を移す。
「じゃあな、名前。俺は──」
パネルに表示された文字を打ち込み送信を押したと同時に視界が光に包まれた。
悲しむ暇もなく事態の収拾に追われていた佐藤は改めて松田から送られてきた最期のメールを確認する。
現場では悠長に見ている暇がなかったため気付かなかったが、文面は爆弾の在り処を知らせるものだけじゃなかった。
下へ下へとスクロールすると現れた『追伸』の文字。
その続きの文章を読んで目を見開き、そしてゆっくりと悲し気に細められた。
「バカな人。やっと気付いたのね」
松田とはたったの7日間しか共に行動はしていなかったが、惹かれていたのは確かだ。
だから彼が名前という少年をとても大事にしていることに気付いたし、それが友愛や家族愛では収まっていないことにも気付いた。
本人がそれを自覚していないことも知っていた。
『あんたの事 わりと好きだったぜ』
さらに改行すると取ってつけたように文字が打ち込まれている。
『同僚としてな』
もっと早く気付いていれば、あなたは死ぬ覚悟なんて持たなかった?
それに応えてくれる彼はもういない。
佐藤は事件の報告書をまとめるため警視庁へと戻った。
「松田陣平って人、今ここにいますか?」
騒然とした警視庁内でその声はとてもクリアに聞こえて、佐藤は足を止め周りを見渡す。
人が行き交う中見つけた学生服。受付のカウンターにその姿はあった。
「あなたが名前くんね」
振り向いた顔は青白く、その表情は不安に染まっていた。
授業中、あと少しで昼休みになるという時にポケットに入れていた携帯がバイブで震える。
運良く教師の声でかき消されたそれに安堵の息をついてこっそりとバレないように取り出す。
メール受信のアイコンを押して表示された内容に心臓が跳ね上がった。
『傍にいてやれなくて 悪かった』
松田から送られてきたそのメールの内容がなにを意味しているのか、すぐ理解することができず思考が止まる。
喉を抑えられたように息がし辛く、全身の脈が波を打っているかのように心臓の音がうるさい。
授業終了のチャイムが鳴ったことに我に帰り、すぐに教室を飛び出した。
廊下を走りながら通話を試みるが繋がらない。コール音さえ鳴らない。
そのまま学校を出て松田と一緒に住んでいるマンションへと帰るが、やはり誰もいない。
走ったせいで乱れた息も流れる汗も気にしないまま、テレビを点けると爆発事件という文字が視界に入り足元から力が抜ける。
「う、そだ……松田さん……」
もう一度、電話をかけてみるがすぐに無機質なアナウンスに切り替わった。
『この爆弾を解除するためにゴンドラに乗り込んだ警察官一名が亡くなりました』
嘘だ。
だって……ずっと傍にいてくれるって言ったじゃないか。
テレビのニュースでは警察官の名前は報道されず、名前は力の抜けた足でゆっくりと立ち上がり覚束ない足取りで家を出た。
最初に向かったのはショッピングモール。観覧車の周りは封鎖されていて近づくことができない。
粉々になったゴンドラと残った焦げ臭い匂い。
現実に起こったことなのだと実感する。
残っている警察官の中に松田の姿はなく、名前はすぐに踵を返した。
そして僅かな希望に賭けてやってきたのは警視庁。
行き交う人の間を抜けて受付で松田の所在を聞けば、思わるところから声をかけられた。
「松田くんのこと、あなたにはちゃんと話すわ」
その一言で、もう松田はいないのだと確信した。
顔を青褪める名前を椅子に座らせ、ゆっくりと話しだす。
声を上げることも泣くこともしない名前は、静かに受け止めていた。
「これ、松田くんの。あなたに渡してほしいって頼まれたの」
差し出された銀色のライターを暫く見つめてから受け取る。
「松田くんからあなたの話は聞いていたわ」
使い込まれたそのライターは掘られた名前が少しだけすり減っていた。
その存在を確かめるように指で撫でる。
「私で力になれるなら、いつでも頼っていいのよ」
安心させるように優しく肩を撫でられ、ようやくその人に視線を向けた。
気丈に振る舞っているが、どこか苦しそうな雰囲気が名前には伝わってきて、もしかしたらと思う。
「佐藤、さん?」
「私を知ってるの?」
「松田さんが、よく話してた」
「そう……」
この人が佐藤刑事。
松田さんが好きになった人。
「おい佐藤くん。そろそろ」
「はい。すぐ行きます」
椅子から立ち上がった佐藤に続いて名前も立ち上がり、申し訳なさそうに顔を向けてくる相手に小さく頭を下げた。
「それじゃあね」
去っていく佐藤の背中を見つめ、握りしめているライターに視線を落とす。
──もう、いないんだ。
家に帰っても誰もいない。
『ただいま』も『おかえり』も、もう返事をしてくれる人はいない。
なぜか涙は出なかった。
悲しいはずなのに。苦しいはずなのに。
「ひとりぼっちは、さびしいよ……松田さん」
俺は、松田さんがいないと泣くことすらできないのかな。
まだ『ありがとう』も『さよなら』も言ってないのに、勝手だよあんた。
俺を置いて逝っちゃうなんてズルい。
あんたの代わりは、どこにもいないんだよ。
傍にいろって言ったのは松田さんなのに、どうして俺の傍にいないの?
一人にしないって言ってくれたのは松田さんなのに、どうして俺は一人ぼっちなの?
あんたのいないこれからを、俺はどうやって生きていけばいいの?