memories08


 進学した高校は秩序もなくただ欲望だけが渦巻いていて、多くの生徒が鈴蘭のトップを目指すべく日々喧嘩に明け暮れている。
 正直、どうでもよかった。
 松田さんが高校には行っておけと言ったから、願書の受付がまだ残されていたここを選んだにすぎない。
 殴り合いの喧嘩なんて今までしたこともなかったけど、あの人が「もしもの時のために」と教えてくれた護身術はかなり役に立っている。
 それでも”鈴蘭の生徒”というのは絡まれるには十分な素材だ。
 ちょうどいい。考える暇を与えてくれないほどの抗争は、今の俺にとっては特効薬だった。


 事件の報告書を提出した佐藤は体を解すように伸ばしてから荷物を持ち部署を後にする。
 腕時計を確認しながら食べ損ねた夕飯はどうしようか考えていると、ロビーのベンチに見知った少年が座っているのに気付いた。
 あの時とは違う学生服を身につけていて、その所々が汚れたり破れたりしているだけでなく顔にも傷を負っている。

「いい加減に保護者の連絡先を教えてくれないか。おまえも帰りたいだろ?」
「だからいないって」

 他の課の刑事と何やら揉めているようで佐藤は足早く近づいた。

「嘘をつくんじゃない」
「その子が言ってることは本当よ」
「さ、佐藤刑事!」

 声をかけると刑事は慌てた様子で姿勢を正し「お知り合いですか?」と訪ねてくる。
 それに頷いてから名前と視線を合わせた。

「名前くん、よね?」
「……佐藤さん」

 佐藤が名前と最後に会ったのは松田が亡くなったあの日だ。
 それからずっと気にしてはいたものの名前の行動範囲を把握しているわけもなく、手助けすらできていなかった。
 刑事の話によれば街中で喧嘩しているところを補導したものの、この時間に未成年の名前を帰すわけにはいかず保護者に連絡しようにも誰もいないと言われ困っていたようだ。

「なら今日は私が彼を引き取るわ」

 そう言って傷だらけの名前の手を引けば、抵抗もなく佐藤の後をついて歩いた。
 駐車場に着いてから「一人で平気」と言う名前を愛車の助手席に半ば強引に乗せてから運転席へと乗り込む。

「送っていくから住所教えて」

 エンジンをかけながら返事を待っているがなかなか返ってこない。
 不思議に思い助手席に視線を向ければ、手の甲に滲んだ血を指で拭いながら何度も口を開閉させており佐藤は首をかしげた。

「どうしたの?」
「……ない」
「え?」
「……住む場所……ないんだ」

 驚きに目を見開いた佐藤にちらりと視線を向けてすぐに逸らす。
 松田と暮らしていた部屋は、あの人が先払いしていた家賃が尽きて高校入学の頃に追い出されるように出て行った。
 アパートを借りようにも保証人なしの未成年に貸してくれる物件なんてない。
 必要最低限の荷物は全部ロッカーに預けて、寝る場所は日によって違った。
 顔は母さんに似て整っているほうだから夜の街で女の人に声をかければ、結構な確率で部屋に泊めてくれる。
 中には見返りを求めてくる人がいたけど、別にどうでもよかった。
 静かにそう話す名前に込み上げてくる感情をなんとか抑えて、車を走り出しす。

「私が保証人になってあげるから、明日部屋を探しに行きましょう」
「なんでそこまでしてくれるの?」
「頼まれちゃったのよ……あなたを頼んだって」

 あの日電話越しに聞こえた真剣な声を、今でもはっきりと思い出す。
 ──私はあなたの代わりにはなれないのよ、松田くん。

「ねぇラーメン食べに行きましょうか」
「え……もう23時だけど」
「私夕飯食べれてないのよ。悪いけど、付き合ってもらうわよ」

 ハンドルを握りながら表情をコロコロと変える佐藤を見つめ、そっと視線を逸らした。
 ──なんとなく、分かってしまった。松田さんがこの人を好きになったワケが。
 自分の口元が少しだけ緩んだことに、名前は気づかなかった。


 無事に木馬荘というアパートの一室で暮らすことができるようになったが、それは孤独感を強めるだけだったと気付く。
 学校から帰ってきても出迎える人がいない。
 怪我をしてきても咎める人がいない。
 いくら待っていても、帰ってくる人がいない。
 そんな孤独に押し潰されそうで、その部屋で過ごす時間が少しずつ減っていった。
 生活費を稼ぐためのバイトも掛け持ちすることで一人の時間を無くしていくようにしていた。
 鈴蘭のいいところは喧嘩相手がすぐに見つかるところだ。
 あの人との思い出に辛くなったら、忘れるために売られた喧嘩はすぐに買った。
 でも消えない。

「松田さん……なんでいないの」

 ぽっかりと空いた穴は喧嘩をしても塞がらない。
 『思い出は辛いものばかりじゃない。楽しい時間だってあっただろ?』
 松田さんから言われた言葉をずっと繰り返し思い出しては唇を噛み締めた。
 あの時はその言葉に救われたけど、なぜだか今は全然楽にならないんだ。
 ──どうしてか分かる?松田さん。
 だってあの時はすぐ傍にあんたがいたんだよ。だから平気だったんだ。
 一人じゃないから、強くいられたんだよ。
 雨が降る夜の街をただ歩く。昔あの人と歩いた道を、ただ一人、傘も差さずに歩いていると腕を掴まれた。

「君、大丈夫かい?」

 でも、もう松田さんはいない。

「……平気」
「そんな顔で言われても信じられないな」

 一人に、なりたくなかった。
 これが女の人なら「泊めてくれない?」なんて言えるのに。
 一人でいるのは、辛い。
 次第に濡れていく男の人の手から視線を上げ、相手の顔を見て呼吸が止まったような感覚に陥る。
 一瞬だけ、あの人の面影が重なって、脳裏に思い出がフラッシュバックした。

「っ、ひとりは、いやだ……」

 気付けば高級そうなホテルの一室で、名も知らない男に抱かれていた。
 どうやってここまで来たのか記憶が曖昧だ。自分が誘ったのか、それとも誘われたのか、それすらも覚えてない。
 男に抱かれたのは初めてで、ただただ気持ち悪かった。
 乱暴にはされず優しく丁寧に扱ってくれる男にしては綺麗な手が印象的で、今でもその手だけは記憶に残っている。
 それでも、この手があの人だったら、この温もりがあの人のだったら、気持ち良くなれたのかな。
 松田さんなら、いいのに……。
 松田さんじゃなきゃ、いやだ。

 ──自覚するには遅すぎた。

 気怠い身体をベッドへ預けて、先ほどまで自分を抱いていた男の背中を見つめる。
 よく見ると全然似てない。言ってしまえば萩原さんに似てるような気がする。
 でも、纏う雰囲気はちょっとだけ松田さんを思い出す。
 そんな彼がカバンからペンと何かを取り出して書き込んだと思ったら、振り向いてそれを差し出してきた。
 受け取った物はCDだ。ジャケットには羽賀響輔という名前が作曲家として書かれており、今書き込んだであろう彼のサインが記されている。

「お金を渡すと援交になってしまうからね。なにか困ったらそれを売ればいい」
「あんた有名なんだ?」
「まぁね」

 俺はどこまでこの人に話したんだろうか。
 行為中のことはよく覚えてない。

「君の名前は聞かないでおくよ。今夜限りの関係だ。お互いのためにね」

 言葉通り、その人とはその夜限りで再び会うことはなかった。
 男に抱かれるのはあまり気分がいいものではない。
 それでも誰かの温もりを直に感じることで、その時だけは寂しさを忘れられたのだ。
 喧嘩とは違うそれはまるで薬のようでやめられるはずがなく、どうしても一人が嫌なときは男女構わず一度限りの関係を持った。
 こんなことは「いつでも私を頼りにしていい」と言ってくれた佐藤さんには言えないし、今後も吐露することはないだろう。


 松田さんが亡くなってから1年。
 線香の香りが嫌いで、代わりにあの人が吸っていた煙草に遺されたライターで火をつけた。
 いつの間にか吸うようになっていたこの煙草は、今でも美味しくないと思っている。

「こら。未成年が煙草なんて吸っちゃダメじゃない」

 誰もいない早朝を狙って来たのに、仏花を手にした佐藤さんが顔を顰めながら歩み寄ってくる。

「この匂い嗅いでると落ち着くんだ。松田さんが、傍にいるみたいで」

 手にしている煙草の銘柄があの人と同じだと気付いたのか、その表情は悲しみに染まった。
 好きな人にこんな顔させるなんて最低だよ、松田さん。

「見逃してくれない? 松田さんを忘れるまででいいんだ……」

 松田さんを忘れるために喧嘩をして、松田さんを忘れないために煙草を吸って、すごく矛盾してる。
 忘れたいのに忘れたくない。でも楽しい記憶も思い出すと辛い。だから忘れたい。

「以前、松田くんに言われたことがあるわ」

 仏花を新しいものに変えながら話しだした佐藤さんの背中を見つめる。

「亡くなった父のことを私が忘れたら、父は本当に死んでしまうって」
「……どういう意味?」
「あなたが松田くんを忘れない限り、松田くんは生き続けるのよ。あなたの中でね」

 優しい眼差しを向けられて、心臓が跳ねたように大きく鳴った。
 俺が忘れたら、松田さんは本当の意味で死んでしまう。
 俺は必死に、松田さんを殺そうとしていたの?
 大切な、大好きな、松田さんを?

「だから忘れちゃダメよ。松田くんのために……なによりあなたのためにも」

 煙草の香りに導かれて脳裏に浮かんだあの人の姿。
 あぁ、そっか……。

「松田さん、ずっと、ここにいたんだね」

 ぎゅっと胸元の服を握りしめる拳に、水滴が落ちる。
 あの人が亡くなってからずっと流れなかった涙が、ようやく溢れて頬を伝った。
 もう忘れようなんて思わない。
 ──俺は、これからずっと、松田さんとの思い出と一緒に生きていくよ。



 冷たい風が頬を撫でた。
 霊園は相変わらず静かで、人の気配はない。

「知ってる? 俺の初恋、松田さんなんだよ?」

 気付いた時にはあんたはもういなかったけど。
 もし生きていたら、もし初恋なんだって教えたら、きっと笑うんだろうな。
 きっと笑って、乱暴に頭を撫でてくれるんだろうな。

「松田さん、会いたい」

 ちゃんと忘れずに覚えているよ。
 記憶の中のあんたは、色褪せないままずっと俺の中にいる。
 だからかな、

「会いたいよ」

 すごく寂しい時がある。
 哀がいて、江戸川がいて、佐藤さんも俺を気にかけてくれて、一人じゃないけど俺はまだひとりぼっちだ。

「あんたがいないと、俺はダメなのかな」

 松田さんの代わりはどこにもいない。

「ごめん、弱気なこと言った」

 松田さんのように強い人になろうって決めたのに、俺はずっと弱いままだ。
 あんたは俺の初恋の人だけど、それ以前に憧れの人。

「また来年、会いに来るよ」

 次に会う時はもっと、松田さんみたいに強い人になれてるといいな。




 俺はまだ知らない。
 来年の今日、ここに来るのが一人じゃないことを。
 松田さんに紹介しなきゃいけない人ができることを。


 これから出会う公安警察に、本気で恋をするなんてこの時の俺は、まだ知らない。