Kalanchoe01


 名前の周りには秘密を抱える人間が複数いる。それも常識とはかけ離れた馬鹿げた秘密をだ。ある男は自身の死を偽装して別人になりすまし潜伏し、またある男は三つの全く異なる立場の顔を器用に使い分け周囲に溶け込み、とある高校生探偵は体が小学生男児にまで縮んでしまっている。例として挙げただけでもおよそ平凡な日々を送るだけではまず出会うことのない人物たちだ。遠ざけていた他人との、それも厄介な人との縁がこうも結びついてしまった原因は小さな探偵と関わり合いになったからだろう。
 けれど発端は別にあった。ある少女との出会いは名前自らが歩み寄ったものだ。そこから全てが始まった。いや踏み入れてしまった、が正しいだろうか。そう、彼女もまた大きな秘密を抱える一人だった。
 あれは数ヶ月前の雨の降る夜のこと。


 バイトを終えてアパートまでバイクを走らせていると、濡れたヘルメットのシールド越しに小さな人影を捉えた。住宅地に子供がいるのは何も不思議なことではない。そのまま通り過ぎたのだが無意識のうちにアクセルスロットルを少し戻してスピードを緩め始めていた。外で遊ぶには夜遅く、天気は最悪だ。ならば迷子だろうか。これが中学生くらいの子供だったならそういう日もあるだろうと無視をしたに違いない。だが今しがたすれ違った人影は明らかに小学生、それも低学年くらいの子供だった。いくら世間から不良だと煙たがられていても、名前はそこまで落ちぶれてはいない。つまりは放っておけなかったというわけだ。
 来た道を戻ってみれば一人の少女が地面に伏せっていた。急いでバイクから降りて駆け寄り抱き起してみるも目を開ける気配はなくぐったりしている。身に着けているのが子供にしては大きすぎる服装で疑問に思ったが今はそれを気にしている余裕はなかった。

「おい、大丈夫か」
「ッ……」
「まだ生きてるな」

 声をかけながら頬を軽く叩いみると僅かながら反応があり小さく安堵の息を吐く。しかし触れた手や頬は冷え切っており、長い時間この雨の中を歩いていたのだと察する。救急車を呼ぶべきか。それよりも早いところ雨風のしのげる場所へ行く方が賢明だろうか。少女の様子を伺いながらそう考えていると雨音に混ざって背後から足音が近づいてくる。

「どうかしたかの」

 振り返れば傘を差した年配の男性がこちらを心配そうに覗き込んできた。そして名前の腕の中にいる子供に気付くと驚きに目を見張る。

「あんたこの近くの人?」
「すぐそこじゃよ。急いでその子を連れてきなさい」
「助かる」

 少女を抱えて男の後を追えば言葉通り目と鼻の先にある家に入っていった。阿笠と書かれた表札にちらりと目を向けてから遠慮なく玄関を通る。けれど濡れたままでは上がれないためひとまずその場で水分を多く吸って重くなっていた白衣を脱がせてしまう。その下に着ている服もやはりサイズが合っていない。まともに子供用の服も買ってもらえない家庭事情なのかと疑ってみたものの、わざわざ動きににくくなる白衣まで羽織るのもおかしいだろう。思わず眉を寄せて少女を見下ろしているとこの家の主である阿笠がタオルを抱えて戻って来た。有難く受け取ったタオルで小さな体を包み水気を取っていく。

「着替えさせたほうがいいかと思ったんじゃが生憎子供用の服がなくてのぉ」
「外に連れ出すわけでもないし大人のでも構わねぇだろ。俺も結構濡れてるし、悪いけどあんた頼めるか」
「わかった。君もそのままでは風邪を引いてしまう。わしので構わなければ使いなさい」
「体だけは丈夫なんでね。でも、ありがたく借りるわ」

 雨の中をバイクで走っていた名前も子供同様にずぶ濡れだった。乾いている服まで濡らしてしまっては意味がないだろうと少女を阿笠に預けてもう一枚用意されていたタオルと着替えを受け取る。こういう時のために防水加工のされているジャケットを買っておくべきか、などと考えながらライダースジャケットを脱いで広げたタオルを頭に被せ濡れた髪を乱雑に拭いた。
 念のためにと外に放置していたバイクを敷地内に置かせてもらってから部屋の中へ入ると、なんとも独特な間取りの家だということが解る。聞けば阿笠は発明家だそうで、なるほどそう言われるとどこか研究所のような雰囲気すら感じた。物珍し気に家の中を見渡しているとリビングから続く場所にベッドが並んでいる。その片方には先ほどの少女が寝かされていた。まだ湿っている髪をタオルで撫でながら歩み寄りベッドの縁に座るが起きる気配はない。余程疲労しているのだろう。

「あー……阿笠、さん。悪いんだけど、この子が目覚ますまで俺もここにいていいか?」
「あぁ、構わんよ」

 心配だからとそう打診すれば阿笠は快く承諾してくれた。本当ならば見ず知らずの他人を頼らずに責任を持って己の暮らすアパートで保護するべきではあったが、この雨の中を意識のない子供を乗せてバイクで移動するのは危険すぎる。運が良いというべきか、疑問を抱かずに受け入れてくれた阿笠を怪しむべきか。名前は何も知らずに眠っている少女に手を伸ばし指の背でそっとその頬に触れた。徐々に戻りつつある体温に安心し、今はまだお人好しがすぎるだけだと思うことにした。

「ところで君はその子と知り合いなのかね?」
「いや。たまたま通りかかって倒れてるのを見つけただけだ。あんたこそ見覚えはないのか? 近所にこういう子がいたとか」
「うーむ、残念じゃが記憶にないのぉ。どこか遠くから来たのかもしれん」
「……そうだな」

 もしこの近辺に住んでいるのだとしたら今頃外はもう少し騒がしくなっているのかもしれない。親は探し回るだろうし近隣に声もかけるだろう。警察にだって連絡する。そうなればパトカーの一台は走っているはずだ。しかし外は静かな雨音だけ。であれば阿笠の言う通り想像しているよりも遠くから来たのかもしれない。案外子供は結構な距離を歩けるものだ。
 そう考えながら名前が思い出すのは小学生時代の自分自身。あの頃住んでいたアパートから母が入院していた病院まで歩くにはかなりの距離があった。けれどもそれを苦労とも思わず毎日足蹴なく通って、待ち続けて、また一人でアパートへ帰っていく。そんな日々を繰り返していると、ある日、無条件で手を差し伸べて救い出してくれる人と出会った。その出会いが今の自分を形作っている。
 雨の中をたった一人で歩く子供を放っておけなかったのは、きっと心に刻まれた過去の記憶があるからだろう。

「ぅ……、……」

 頭にタオルを被せ太ももの上に両肘を置いてぼんやりとしていると小さな呻き声を拾った。視線を向ければ寝ている少女の表情は険しく僅かに頬も紅潮している。額に触れて感じるのは微熱と言ったところだが、先ほどまでの状況を考えればこれからもっと熱は上がっていくに違いない。阿笠に冷却シートはあるのか尋ねてみたがどうやら切らしているらしく、子供用の風邪薬を買いに行くにしても薬局はすでに閉まっている時間帯だ。仕方ない、とベッドから立ち上がりハンドタオルを一枚拝借することにした。
 日本人にしては赤みがかった茶髪は柔らかく緩くウェーブがついている。その前髪をそっと避けて冷水で濡らしたタオルを少女の額に乗せると薄っすら瞼が持ち上がった。焦点の合っていない瞳が顔に影を作る腕を辿り、名前の顔へと向けられ、目が合った途端にカッと見開かれる。そして勢いよく起き上がった。

「私を追ってきたのね!? 無駄よ、組織に戻るつもりはないわ!」

 射抜かんばかりの鋭い視線。だがその表情は怯えた色を浮かべ、震える手でシーツを握りしめている。全身で拒絶を示していたがその勢いは長くは続かなかった。急に動いたせいか、疲労が溜まり体温の上がった体はふらりと揺れる。名前は咄嗟に倒れ込みそうになった小さな体を支えた。

「っ、離して!」
「落ち着け」
「戻らないわ……絶対にッ……」
「分かってる。大丈夫だ、お前はここにいる。だから今は大人しく寝てろ、な」

 強張る背中をゆっくり撫でると緊張に詰まらせていた呼吸が深く落ち着いたものに変わり、こちらに体を預けるようにして力が抜けられていく。熱も上がってきたのか触れた体温が高い。再びベッドに寝かせてやれば意地のように開けられていた瞼は下がりすぐに眠りへと落ちていった。放り出されてしまった濡れタオルを改めて額に乗せてやりベッドの縁に座り直す。
 明らかに尋常ではない怯え方だった。誰かに追われているということは、組織とやらから逃げてきたのだろうか。それにませていると言われたらそれまでだが言動にもどうも子供らしさがない。倒れていた時に着ていた服のことも相まって尚更疑問を抱いてしまう。普通の、ただの子供ではないのかもしれない。踏み込んではいけない、そんな何かを感じた。だが不思議と関わらなければよかったという後悔はなかった。

 それから暫くして、名前が目を覚ますと家の中はすでに暗くなっていた。座った体勢からそのまま横になっていつの間にか寝てしまっていたようだ。ベッドサイドに置かれたライトの淡い光だけが灯っており、そのおかげで自身にタオルケットが掛けられていることに気付く。もう一つある隣のベッドを見れば家主がぐっすりと眠っていた。
 どこまでもお人好しだな、と心の中で呟いてから少女の様子を見る。濡れタオルは熱を吸収していてもう冷たさはなく、掌で額に触れ体温を計ってみるがまだまだ熱が下がる気配はない。朝までこのままなら冷却シートを買いに行った方がよさそうだと考えながらキッチンへと向かう。水道水でタオルを冷やし、ぎゅっと絞る。静かな室内ではシンクに落ちる水音がやけに響いた気がした。
 ベッドに戻り少女の額にタオルを乗せると、くぐもった声を漏らしながら瞼が震えた。起こしてしまっただろうか。また怯えさせては体調を悪化させてしまうと身を引いて見守る。

「ん……おねえ、ちゃん……?」

 しかしこちらに目を向けた少女の発した声に拒絶の色はなかった。むしろ縋るように、彷徨うように、手を浮かせる。寝惚けているのか、高熱のせいで思考も意識も曖昧なのか。名前は無意識に笑みを零して、姉を呼ぶ声には返事をしないまま小さな手を握った。すると少女は安心したように表情を綻ばせた。
 その姿にふと脳裏に浮かんだのは小学生の時に生き別れてしまった妹のことだ。あの子も眠れぬ夜にこうして手を握ってやればホッとしたように微笑んでいた。最後に妹の姿を目にしたのは五年前、名前が中学一年生の時である。五つ年下の妹はその時小学二年生。今はもうあの頃の自分と同じく中学一年生になっているだろうが、残念ながら記憶に残るのは幼い姿のまま。そう、丁度この少女と同じくらいだろうか。
 弱々しい力で手を握り返されて考えに耽っていた意識が戻された。瞼を閉じて再び眠りについた少女から視線を外して手元へ向ける。小さな、温かい手だ。名前は解ってしまった。おそらくもう少女を放っておくことはできないのだと。守りたいと思ってしまったのは、それはただのエゴで自己満足でしかない理由なのだと。

 翌朝、最寄りの薬局までバイクを走らせ冷却シートと風邪薬、それからヨーグルトやゼリーと言った食欲がなくても食べられそうなものをいくつか買ってから阿笠邸へと戻れば、家を出る時にはまだ寝ていた少女が起き上がっていた。

「大丈夫か」

 昨夜のこともあり出来る限り警戒させないよう声を掛けながらベッドの縁に座る。こちらを伺うような視線は感じるが怯えた気配はなく、すでに置かれている状況を理解しているのか随分と落ち着いた様子だ。少しでも戸惑っていれば子供らしいなと思ったところだが、大人しすぎるのも困りものである。持っていたビニール袋から冷却シートの入った箱を取り出しながら少女へと顔を向けた。

「気分はどうだ?」
「……悪くはないわ」
「そうか。食欲は? 薬飲むのに少しは何か食ったほうがいい」
「いえ……いらないわ」

 どこか他人を拒むように視線を逸らしながら答える少女に軽く肩を竦める。少々慣れ慣れ過ぎたかもしれない。ともあれ熱もあれば仕方のないことだができれば胃に何かを入れてから薬は飲んで欲しい。だが無理強いさせても体調が良くなるわけではないのは確かだ。箱から冷却シートを一枚引っ張り出して保護シートを剥がし少女へと差し出した。

「ならホットミルクでも作るか。それくらいなら飲めるだろ」

 すると少女は戸惑いの表情を浮かべて名前に顔を向けた。ようやく見せた子供らしい反応に思わず目元を細めれば、ハッとしたように視線を外される。けれど躊躇いながらも手元の冷却シートは確かに受け取られた。
 阿笠の許可を得て借りたキッチンでホットミルクを作りマグカップを片手に戻ってくると、少女の額にはしっかりと冷却シートが貼られていた。タオルよりは幾分楽になるだろう。熱いから気をつけろよと言いながらマグカップを渡すと小さな声でありがとうと返される。それから暫く沈黙が続き手持ち無沙汰になった名前は無人になった隣のベッドに腰を落ち着かせた。

「何も聞かないのね」

 そのタイミングを見計らってか、両手でマグカップを持って中に入っているホットミルクの揺れる表面を見下ろしながら少女が口を開く。

「喋る気があるのか?」

 問いに返されたのは無言だった。つまりは肯定だ。名前としては聞きたいことはいくつもあった。なぜ暗い夜の雨の中を一人で歩いていたのか。なぜサイズの合っていない服を着ていたのか。何に追われてる。組織とはなんだ。どうしてそんなに怯えている。きっと誰だって疑問に思うことばかりだ。それでも簡単に問い詰めていいものではない。こちらが想像する以上に、少女の抱えているものは重く大きいのだと何となく察してしまった。
 もとより名前にとっては何かを抱えてしまった子供心というのが自身の経験から理解できている。

「言いたくなければ言わなくていい。俺も聞かねぇから」

 誰しも他人には知られたくないことの一つや二つはある。それは子供だって同じこと。それに無理に聞いたところで真実を話してくれるとは限らない。ならばこちらのやるべきことは一つだけ。ただ待てばいい。
 俯いてしまった少女の表情が伺えず気持ちは読み取れなかったが、強張っていた肩の力が抜けたように見える。そしてそれまで持っているだけだったマグカップにゆっくりと口をつけたことに名前は口元を僅かに緩めた。少しは気を許してもらえたようだ。
 そのまま少女は阿笠の家で世話になることとなった。お人好しにも程があるだろうという懸念はあったが、自分と同じような謎を子供に対して抱いているに違いない阿笠がなぜか警察にも通報せず受け入れている姿にこちらは訳知りかと一人納得した。少女がこの家のすぐ近くで倒れていたのも偶然ではなかったのだろう。名前としてもまだ学生の身であり稼ぎも充分とは言えない。住んでいるのもアパートであり、とてもじゃないが安全に保護するのは難しい。
 結果、時折様子を見に来ると伝えて名前は少女の要望を飲み込んだ。

「灰原哀よ。お礼、遅くなってしまってごめんなさい。助けてくれて感謝するわ」

 こうして少女の名前を知ったのは出会った日から数日後のことだった。