Kalanchoe02


 亡き両親から引き継いだ毒薬APTX4869の研究。自分の手で開発したその薬を飲んだのは紛れもなく死ぬためだった。慕っていた唯一の肉親である姉を組織に抹殺されたことで彼らに対する信用も信頼も消え失せたのだ。元より、そんなものは最初からなかったけれど。APTX4869の研究を中断する姿勢を見せれば問答無用に監禁され殺されるのを待つだけとなり、それならば殺されるくらいならばと自ら死を選び姉や両親の元へ行こうと薬を服用した。
 日本の学校に通うのは初めてになる。幼少期は組織の命令でアメリカで暮らしていたからか、ランドセルを背負い歩いて登下校をするのは少し新鮮な気分でもあった。だがそれも数日立てば当たり前のことのように感じ始める。

「どうしたの、灰原さん」
「……え?」
「ぼうっとしてたから、もしかして具合悪い?」
「平気よ。考え事をしていただけだから、気にしないで」

 心配そうにこちらを覗き込んでくるのは同じクラスの吉田歩美だ。こんな状況でもなければ自分と知り合うことは決してなかったごく普通の優しい女の子。もし両親が生きていて、姉が生きていて、組織と関係を持っていなければ彼女のように平和な毎日を笑って過ごせていたのかもしれない。好きな音楽を聴きオシャレをして友達と他愛ない会話をする普通の女の子に。
 あの日、宮野志保は死ねなかった。あるいは死ぬことを許されなかったのか。一匹の被検体マウスと同じように、一人の高校生と同じように、肉体が幼児にまで退行する変化が起きこうして生きている。見た目が子供に戻ったからと言って組織に追われている身であることには変わらず、本名を名乗るわけにはいかなかった。灰原哀。それが今の自分を示す名前である。
 下校を共にしていた歩美たちとは岐路で別れ、歩幅の狭い子供の足音は二人分だけとなった。ちらりと視線を向け、隣を歩く自身と境遇を同じくする男の子を見る。本来ならば高校生である彼は不運なことにジンによって薬を飲まされ幼児化してしまった。死なずに生きていることを知っていたからこそあの日組織から抜け出して彼の──工藤新一の家へと迷わず向かったのだ。全てを無くしてしまった自分にはあの時頼れる存在が彼しか思い当たらなかったから。

「んだよ、さっきから人のことジロジロ見て」
「別に」

 不満気な顔を向けられ素知らぬフリをしながら視線を前に戻す。小さくなってしまった探偵さんを頼りにここまで来たが、その卓越した頭脳と推理力を以ってしても救えない命があることは嫌と言うほどによく解っている。いくつもの難解な事件を解決してきた彼でさえ姉の命は救えなかった。それでも工藤新一の元へやってきたのは罵声を浴びせるためか、それとも助けてほしかったのか。
 そこまで考えて軽く頭を振るった。体を縮める原因となった薬を作ったのが誰なのか忘れたわけじゃない。恨み言を向けられるのはむしろ自分ではないのか。救われたいだなんて傲慢にもほどがある。と、そう自分に言い聞かせていると路肩に停まる一台のバイクとその傍らに立っている人物に歩みを止めた。

「ん? どうした灰原」

 少し怪訝そうなコナンの声に反応したのは哀ではなくバイクの所有者だった。学生服を着ているにも関わらず煙草を吸っている姿はどこか堂々としていて誰も注意をする人はいない。咥えていた煙草を口元から離すと青年は二人へと歩み寄ってきた。

「よぉ。今帰りか」
「えぇ」

 哀はその青年と顔見知りであった。というよりも恩人と言った方が正しいだろうか。苗字名前。彼には組織から抜け出して工藤邸を目指し雨の中倒れていたところを助けてもらったのだ。そんな出会いだったからか、それとも心配性なのか、阿笠の元に保護という形で居候を始めてから時折彼は様子を見に来るようになってしまった。
 指の間に挟まっていた煙草を携帯灰皿に押し込みながら名前の視線が横にずれていく。

「友達か?」
「どうかしら」
「おいおい」

 あら、だってそうでしょうと薄く笑みを浮かべる哀に対しコナンは呆れた表情を返した。しかし実際に二人の関係は友達と呼べるほど優しいものではない。無関係の人間には説明すらできない複雑な仲というわけだ。だから彼は何も知らないし、知るべきではない。
 もちろんコナンもそれを理解している。なのでいつも通り子供らしい無邪気な笑顔を作って青年を見上げた。

「ボク、江戸川コナンっていうんだ」

 その名を聞いた名前の眉が器用にも片方上がった。それから顔を少しだけ斜め下に向けて記憶を探るような仕草を見せた後、あぁ、と声を漏らす。

「お前があの……」
「お兄さんボクのこと知ってるの?」

 間違いなく青年とは初対面のはずだと驚いたコナンはちらりと横へ視線を寄越したが哀は肩を竦めて何も話していないという旨を返すだけだった。当然、嘘はついていない。いつどこで組織の連中に繋がるのか分からない状況で、まだ信用しきれていない相手に対し些細な情報も話すわけにはいかないのだ。それがなくともわざわざ今更通うことになった学校でこういう子と知り合った、などと喋る性格でもなかった。
 したがって哀にとってもただの学生である名前が見ず知らずのコナンの存在を知っているのは意外な展開であった。

「佐藤さんから何度か聞いた。日本人にしちゃ珍しい名前だったからな、嫌でも記憶に残ってる」
「それって警視庁の佐藤刑事のこと? お兄さんは警察の人と知り合いなんだね」
「お前ほど知り合いは多くないけどな。随分いろんな事件に首突っ込んでるみてぇだけど、どっかの探偵事務所で世話になってるガキなんだって?」
「うん、毛利探偵事務所ってところだよ。ボクも時々依頼のお手伝いをしてるんだ」
「毛利か……確かポアロの上がそんな名前だったな」

 どうやら探偵事務所のある場所も知っている様子の名前に対してコナンが相手を探るため質問を続けようと一歩踏み出す。けれど面倒事を察したのか顔を顰めて手で軽く払うような仕草をするとバイクの方へと踵を返してしまった。そしてハンドル部分に下げられていたフルフェイスのヘルメットを持つと、顔だけを哀の方へと向ける。

「今日は博士が遅くまで帰ってこられねぇんだろ。後でそっちに顔出しに行く」
「どうせ断っても来るんでしょ」

 別に来てくれなくても平気だと遠回しに伝えても名前は慣れたもんだと惚けたように肩を竦めてヘルメットを被った。路肩に停めていたバイクに跨りエンジンが掛けられると、隣にいたコナンが更に前へと踏み出したのを視界の端で捉える。

「あ! ねぇ、お兄さんの名前聞いてもいい?」

 その声はしっかりと拾われたようで片手でバイザーが上げられた。

「次会う時までにその気持ち悪い喋り方と被ってる猫をどうにかしたらな」
「なっ……!?」

 名前はそれだけ言うとすぐにバイザーを戻して走り去ってしまった。バイクの排気音が遠ざかっていき哀は改めて好奇心旺盛な小さな探偵を見る。驚いた、というよりも虚を突かれたかのように目を瞬かせるコナンに思わず小さく笑みが零れた。普段は他人の秘密を暴いている側の人間が逆の立場になっているのだから面白くないわけがない。

「あの人、勘がいいの」

 止めていた歩みを再開させれば一拍遅れてコナンが隣に並んだ。

「勘って……そういや灰原を助けてくれた人だったよな」
「そうよ」
「バレてねーんだろうな」
「あなたほど間抜けじゃないわ。でも、私がただの子供じゃないってことは察しているかもしれないわね」

 聞き捨てならないその言葉にコナンは目の前で交わされた二人の会話もとい哀の態度を振り返る。子供は子供らしく、それが周囲に疑われないための最善の策だ。いくら無愛想でもやろうと思えば彼女が上手く子供のフリをできてしまうことは既に把握している。なのに青年に対しては完全に素の状態だったように見えた。

「人にはバレないよう気をつけろって口煩く言うくせに自分はいいのかよ」
「あら、心配してくれてるのね」
「バーロー。そんなんじゃねーよ」

 照れ隠しのように呆れた態度をとってみせるコナンから視線を外した哀は先ほど別れた青年を思い浮かべた。確かに何かを感じ取っているけれど無理に知ろうとはしない姿勢は好感が持てる。安易に人に話せるような事情でもないので今の距離感を保ってくれるのなら深入りされるよりは幾分マシだろう。変に拒みすぎても余計な憶測を生むだけなのだから、無理に自分を偽る必要もない。仮にもこんな姿になってしまった自分を善意で助けてくれた人だ。その優しさを無下にできる程の冷たい人間にはなりたくなかったのかもしれない。
 それに、と心の内で言葉を続けながら哀の目元がほんの僅かに柔らかくなった。

「あの人の料理、美味しいのよね」
「……はぁ?」

 何の脈絡もない情報に困惑し立ち止まってしまったコナンを気に掛けることなく放置した哀は自身の足取りがいつもより少しだけ軽いことには気付かないフリをした。


 ただ、工藤新一の懸念も充分に理解しているしそれについては否定しようもなく同意見だ。本来ならば関わり合いになるべきではない他人。あの雨の日に起きた事はあの日の内に全てを終わらせるべきだった。"次"を期待させるべきではなかった。きっと、それが正しい対処法だったのだ。哀はカウンターの椅子に座り温かなコーヒーの入ったマグカップを両手で持ちながらキッチンに立つ青年を静かに見つめる。手慣れた動作で包丁を握り、鍋を振るい、気付けば食欲を誘う香りが漂い始めた。
 名前について知っていることはまだ少ない。通っている高校の名はネットで検索すればすぐにヒットするほど評判が悪く、本人も喧嘩を厭わず煙草を嗜む所謂不良高校生。料理ができるのはそうしなければならなかった環境だったかららしく、現在も木馬荘というアパートで一人暮らしをしている。世間一般からすれば普通とは多少ズレているかもしれないが哀にとっては充分に一般人の部類だ。

「ねぇ、私ならもう大丈夫よ」

 直接的ではない言い方だがこれで伝わるはずだという確信があった。まだ顔見知りと知り合いの中間くらいの間柄だが、出会ってからこれまでの短い期間の中で理解したこともある。これはその一つだ。
 答えはすぐには返ってこなかった。フライパンで焼かれた白身魚が皿の上に乗せられ、バターの溶けた残り汁にレモンを絞り軽く混ぜてから魚にかけられていく。みじん切りにされたパセリを散らし、添え物に野菜を盛り付ければ哀がリクエストしたムニエルの完成だ。お店に出ていてもおかしくない見栄えの技量はバイトで培われたものらしい。
 三人分作られたムニエルの一つにはラップが被せられ、残った二つの皿を両手に持った名前はその片方を哀のいるテーブルへと差し出した。

「俺が勝手にしたいだけだ」

 ぶっきらぼうなようでいて、どこか信念の混ざった返事を添えられて。その答えに驚かなかったのは彼ならばそう言うだろうという予想が出来ていたからかもしれない。だからこそ困るのだ。

「解らないわ……貴方にとって私は無関係な見ず知らずの子供なのよ?」
「同じ後悔をしたくねぇから、だろうな」

 カウンター越しにキッチンに立ったまま名前は出来上がったばかりのムニエルを口へ運ぶ。ナイフは使わずフォークだけで一口サイズに切り分けて食べ進めていく姿に行儀が悪いと指摘するほどまだ親しくはないし、哀は彼の発した「同じ後悔」という言葉に引っかかりを覚えた。過去にも今の自分と同じような子供を保護したことがあるとでも言うのだろうか。とはいえ普通ならば迷子を見つけたくらいのものだろう。そして悔いる程の何かがあった。あまり考えたくはないが命に係わることかもしれない。
 そうしていくつもの憶測が脳裏に浮かんだがその答えは意外にも早く明かされた。意外と言えばその立ち居振る舞いとは裏腹に食器をカチャカチャと鳴らすことなく名前が食事を続けているのにも気付く。

「俺には妹がいるんだ。あの頃は俺もまだガキであの子を守れるだけの金も力もなかった。だから手放すことを選んだけど、結局あれはただ見捨てただけ。仕方ねぇことだって思うよな。子供にできることなんて限られてるって。でも俺はずっとガキの頃の俺を許せてねぇ。だから繰り返したくないんだよ」

 静かで落ち着いた口調で語られる話に同情しなかったといえば嘘になる。自身の両親や姉もおそらく彼のように後悔の念を抱いていたのかもしれないと想像できたからだ。また一つ名前のことを知ることができた。理解できることが増えてしまった。きっと彼は誰にでも優しくするわけではない。哀が子供で、妹の存在を思い出させたから繋ぎとめてしまったんだ。
 両手で持っていたマグカップをカウンターにコトリと小さな音立てて置き、名前を見上げると自然と視線が絡み合う。

「私じゃ妹の代わりにはなれないわよ」

 慕っていた姉を亡くした今だからこそ、大事なものを失った人の気持ちが、縋りたい想いが身に染みて解る。
 本当ならばいつものように愛想のない表情で伝えたかったが相手の反応を見るに情を出しすぎてしまったようだ。名前は持っていたフォークを皿の上に置いて申し訳なさそうに苦笑した。

「そこまで求めちゃいねーよ」
「……守られたいとも思ってないわ」
「解ってる。俺もそういう人間だからな。でも、誰かに助けられなきゃ生きていけないことも残念ながら知ってるんだよ」

 それは、その通りだと自覚している。現に哀は阿笠の家に匿われていなければ他に行く当てなどないし頼れる人もいない。それ以前に名前があの雨の夜に通りかからず他の誰かに発見されていたら、もっと事態は大げさになっていたかもしれなかった。警察が関われば身元を調べられ、不審を抱かせ、組織の存在を公にされてしまう可能性だってあったのだ。最悪の道筋を辿っていてもおかしくはなかった。
 だからといって甘んじて彼の厚意を受け取ってしまっていいのだろうかと悩む一方で、少しだけでいいから許されるのなら縋ってしまいたいと願う心の悲鳴もある。組織が自分を追ってくるという恐怖をほんの少しでもいいから拭いたかった。

「ねぇ……妹さん、生きてるの?」
「生きててくれなきゃ困る。あの子にはいくら謝ったって足りないくらいだ。どこかで幸せに暮らしてるだろ」
「……そう」

 誰かの代わりになんてなれないし、なりたくもない。それでも自分を救ってくれた人へのお礼だと思えば気持ちも楽になれる気がした。ナイフとフォークを手に取り、まだ温かさの残るムニエルを一口サイズに切って口へ運ぶ。家庭の味については育った環境のせいでよく解らない。でも、とまた一口。名前の作る料理の味はどこか安心すると哀は密かに思い始めていた。