黒鉄の魚影02


 透き通るような青い海がオレンジ色に変わった夕暮れ時。名前は八丈島を一周できる八丈循環線を自前のバイクで走っていた。貨物船を利用して阿笠のビートルと共に運んだのはオフロードモデルのトリッカーだ。速さやエンジン音を楽しむならもう一台所持している大型自動二輪車のほうが勝るのだが、輸送する料金を少しでも抑えるためこちらを選択した。
 もちろんそれだけが理由ではない。できるだけ小回りの利く車体のほうが有事の際に身軽に動けるだろうと考えてのことだ。本島からは船や飛行機でしか行き来できない離島である八丈島は車であれば約一時間半で一周できてしまう。長距離を走るわけではなく、万が一舗装されていない細い道を通ることも視野に入れるのであればオフロードのほうが都合いい。どちらかと言えばこちらの理由のほうが割合は大きいだろうか。
 広く綺麗に舗装された道路を走っていると前方にあるダイビングショップの看板に目が留まりスピードを減速させる。ホエールウォッチングを終えてから夕食までの空き時間でツーリングをしているため寄り道はせず景色だけを楽しむ予定だったが少し覗くだけなら大丈夫だろうと駐車場にバイクを停めた。ダイビングは趣味ではないが阿笠が子供たちのために水中スクーターを用意しているのを知って、さすがに子供だけでは危ないと一式レンタルできるか確認をしようと思ったのだ。
 バイクを降りてフルフェイスのヘルメットを外すと、まるでタイミングを見計らったかのようにスマホが着信を知らせた。ポケットから取り出したスマホの画面を見れば人の名前でも数字の羅列でもなく非通知と表示されている。だというのに、なぜか相手が誰なのかが解ってしまった。

「……自分の勘が嫌になるな」

 自嘲するように思わず漏れた苦言。いつもなら無視をする怪しい電話だが名前は迷わず応答のボタンをタップしてスマホを耳にあてた。

『ハァイ。この前はどうも』
「チッ」

 緊張感のない調子の軽い女性の声に大きな舌打ちが漏れる。まるで友人のような挨拶をされるが当然そんな仲ではない。変声もしていない素の声の主は予感していた相手、ベルモットだった。一体どこで番号を入手したのかという疑問は浮かぶが聞いても碌な返事はされないだろう。違法だなんだと訴えても意味のない相手なのだから。

「気軽にかけてくるんじぇねーよ」
『躾のなってない子ね。そうすぐに噛みつかないの』
「誰かさんたちのおかげで防犯意識が高いもんでね」
『なら、見知らぬ番号からの電話には出るべきではないんじゃない?』

 その揶揄うような物言いに名前が眉を寄せると、こちらの反応を見通しているのかフッと軽く笑う声が聞こえた。

『それとも貴方の鼻は電話の相手をも嗅ぎ分けられるのかしら』

 冗談じゃない。咄嗟に出かかった言葉は静かに飲み込んだ。このまま相手のペースに流されるほどの冷静さは失っていない。名前は気持ちを落ち着かせるように小さく息を吐いた。

「お喋りはここまでだ。さっさと用件を言え」
『せっかちね。まぁいいわ。時間がないのは貴方のほうだもの』
「なんだって?」

 しかし含みを持たせたベルモットの言葉にじわりと焦りが生まれる。いや、これまで予想の範疇にしかなかったものが現実味を帯びてきたような感覚と言った方が正しいだろうか。どちらにしてもいい知らせではないのは確実だった。

『優しいお姉さんから一つだけアドバイスをあげる。大切なお姫様から目を離さないことね』
「ッ、どういう意味だ」
『あら。何も難しいことを言ったつもりはないわ』
「なら質問を変える。どういうつもりだ」
『そうね。お礼、とでも思ってちょうだい』

 両者の間にある取引には余計な貸し借りはつかない。できることならばお互いに関わり合いたくないというのが本音だからだ。つまりベルモットの言う礼とは名前に対してではなく別の誰かに向けられたもの。それが誰なのか。何に対しての礼なのか。何故邪魔な存在であるはずの相手に手を貸すような真似をするのか。その答えは数日前の米花百貨店での出来事にあるとすぐに理解できた。わざわざ変装してあの場に現れたのが組織とはなんら関係のない個人的な理由であったことも。

『精々頑張りなさい、ウォッチドック』

 期待はしていないけれど。そう続きそうな声音を最後に一方的に通話が切られた。耳元から離したスマホを見下ろせばもうホーム画面に戻っていて数秒すると画面が消灯する。暗くなった液晶に映っていたのは自身の険しい表情。信じるべきではない、疑ってかかるべき相手からの忠告に戸惑いはなかった。それを素直に受け入れるべきなのか悩むこともだ。哀が危ない。例え嘘であったとしても、ただそれだけが解ればいい。
 名前は舌打ちをするとスマホをポケットに仕舞いフルフェイスのヘルメットを被った。そしてバイクに跨るとダイビングショップに背を向けて迷うことなくホテルへの帰路を急いだ。


 ホテルへと戻った名前は自身が宿泊する部屋へ行く前に少年探偵団の子供たちに割り当てられた部屋の一つに向かった。ノックをして声をかければ少しの間を置いてドアが開かれる。視線を下に向ければこちらを見上げてくる少女と目が合った。

「随分早かったわね。貴方のことだからギリギリまで走ってくると思ってたわ」
「あーちょっと、な。野暮用思い出して」
「そう」

 出てきたのは哀のみで部屋の奥からは誰かと会話をしている歩美の声だけが聞こえた。もしかしたら両親に電話でもしているのだろう。殺伐とした雰囲気も感じられず今のところはまだ何も起こっていないようであった。無意識に張っていた肩の力を抜いて安堵の息を吐く。
 その様子を洞察力の鋭い少女の姿をした科学者は見逃さなかった。

「それで?」

 そう声を掛けた哀はまるで要領を得ないと言った表情を浮かべる名前に少し呆れを含んだ態度で腕を組んだ。

「何か用があって私のところに来たんでしょ」
「用ってほどの事じゃねーんだけど……あの後変わった事とかあったか?」

 ほんの僅かに目を見張ったのは一瞬のこと。本人は上手く誤魔化しているようだったが明らかに何かを隠しているのが見て分かった。それは哀だから気付けたのかもしれない。八丈島に来てから、いやその数日前からずっと名前はどこか変だった。しかしどうやら抱えている何かを自分に話すつもりはないらしい。どうせ隠すのならばいつものように誰にも悟られないくらい上手く隠してほしい、と不安を隠すように瞼を閉じる。

「とくにないわ。貴方が出掛けてから暫くして工藤くんが白鳥警部に連れられて戻って来たことくらいね」
「そうか。あいつ帰ってきてんのか」

 返事をした後、視線を逸らし独り言のように呟いては考え込み始めた名前に眉を顰める。普段ならば面倒だからと決して自ら事件に関わろうとはしない青年だ。そんな男を突き動かすことができるとしたらすでに亡くなってしまった大切な人のためか、子供たちに危険が迫っている時か、或いは────。

「ねぇ」

 最悪のシナリオが頭を過り哀は思わず目の前の青年の服を掴んだ。しかしその先の言葉は続けられなかった。踏み込むべきではないんじゃないかと迷ってしまったからだ。不思議そうにこちらを見下ろしてくる名前は何も話そうとはしない。解らなかった。事情があって言えないのか、誰かに伝える程のことでもないのか、それとも黒い影から隠れる少女を怯えさせないための不器用な優しさなのか。
 哀は考えすぎね、と心の中で苦笑しながら首を軽く横に振った。

「なんだ?」
「……なんでもないわ。また夕飯の時に会いましょ」
「お、おう」

 掴んだ服から手を離し早々とそう切り上げる哀に困惑しているうちにドアは静かに閉じられる。回廊に残された名前はもしかしたら勘付かれたかもしれないと悟り後ろ髪を乱暴にかいてから自分の部屋に戻るため歩き出した。
 一方で閉めたドアに背を預けていた哀は一枚の板を隔てた向こう側にいる青年の気配が遠のくのを感じてから、そっとドアから背を離した。


 ホテルの庭にある大きな池がライトアップされた夜。テラスの先にあるその景色を眺められるレストランのテーブルで一行は食事をしていた。昼間にも寝落ちするほど飲んだというのに飽きもせず島酒に酔う小五郎の隣で名前は八丈島の郷土料理に箸を伸ばす。結局あの後、ベルモットの件をコナンに伝えにいくことはしなかった。自分だけで事が済めばそれに越したことはないからだ。それに、と心の中で言葉を続けると島野菜の天ぷらにサクリと軽い音を立てて行儀悪く箸が刺さる。
 ────工藤ならどうにかしてくれる。窮地に立たされても挽回できる力がある。けど今回はそれに甘えたくはない。
 天ぷらを一口サイズに割って口に運ぶ。余計な味付けが必要ないくらい島野菜にはしっかり味と甘味があった。しかし食を楽しむのも束の間、思考はすぐに一歩後ろへと戻っていく。
 名前は他人が思っているよりも大人になりきれていなかった。哀の安全を考えるならコナンや阿笠には情報を共有し対策を考えるのが最善であるのは誰に指摘されるまでもなく解っている。これはただのプライドだ。子供じみた譲れない意地だ。冷静になれと自分に言い聞かせるほど焦る気持ちに気付かないのはまだ未熟だからだろう。
 賑やかな席で一人険しい表情を浮かべるそんな名前に気付いた蘭はきょとんとした後ハッとする。

「あの、やっぱりツーリングゆっくり楽しめなかったですよね」
「ん? あー別に怒ってるわけじゃねーよ。充分走れたし毛利が気負うことねぇって」

 それを聞いてホッとした様子の蘭に苦笑してから隣に座る小五郎に呆れた視線を向けた。

「それに謝るべきはこのおっさんだからな」
「あ? なんだぁ、何か言ったか?」
「酒も程々にしとけっつったの」

 酔っ払いを適当にあしらいながら半分に割られた残りの天ぷらを口にする。そのまま刺身や寿司、海藻の煮ごこりなどの郷土料理を味わいながら今度は隣のテーブルへと目を向けた。阿笠と子供たちが座っているテーブルは恒例のクイズで盛り上がっている。その賑やかな中で積極的に混ざっているわけではないが柔らかな表情を友人たちへ向けている哀を見てそっと視線を外した。


 夕飯を終えた後、名前が周囲の警戒を兼ねて食後の運動がてらに外を歩いているとホテルを出ていくコナンと阿笠の姿を捉えた。おそらく昼間にどこで何をしていたのかを内密に話そうとしているのだろう。見なかったことにするのは簡単だ。だが状況がそれを許さない。面倒事に関わるのは御免であるがもしもの可能性を考えて後をつけることにした。
 距離を置きながらコナンたちの後を追おうとした時、もう一人ホテルから出てくる人影があった。それが誰であるか判ると同時に足早に近付いていくと相手もこちらに気付いて足を止める。そこにいたのは哀だった。

「どこ行くんだ」
「ちょっと散歩よ」
「どうせ工藤たちだろ? 俺も行く」

 知っているなら聞かないで、とでも言うようにジト目が向けられる。こっそりホテルを出ていくコナンたちの隠し事を探りたいと思っているのは名前だけではないようだ。本音を言えば関わらないままでいてほしかったが、ここで放っておけと提案しても逆に怪しまれてしまうだろう。だから止めることはせず歩き出した哀の横に並び海辺へと続く階段の方へと足を進めていく。
 見つからないよう会話もせず静かに階段を降りていくと徐々に下の方から声が聞こえてきた。二人は視線を合わせ、より鮮明に声が聞こえる距離まで下るとそこで足を止めてコナンの話に耳を傾けた。

「パシフィック・ブイ?」
「インターポールの施設よ。世界中の警察が持っている防犯カメラがその施設と繋がってるみたい」

 聞き慣れない単語を小声で呟くとすぐに補足がされる。
 ホエールウォッチングの時に警視庁の船に乗り込みコナンが向かった場所はインターポールが新しく作った施設、パシフィック・ブイ。事件の早期解決のために造られたであろう国際刑事組織が運営するその施設で今日、女性エンジニアが誘拐された。そしておそらく黒の組織による犯行なのだと語られる。
 組織という言葉に隣にいる哀の体がピクリと反応したのを横目で捉えた名前は眉を寄せながら目を伏せた。

「やっぱり貴方が隠していたのは彼らのことだったのね」
「確証がなかったから言わなかった。悪いとは、思ってる」
「別にいいわ。どうせ一人でどうにかしようって考えてたんでしょ。貴方は、優しいから」

 仕方ないと言ったニュアンスを含めた声音でそう言って階段を降りていく小さな背中を見つめながら強く拳を握る。違う、と今すぐに否定したかった。優しくなんかない、と。名前は岩壁に背中を預けて階段下の方へと顔を向けた。もう姿は見えないが声だけは聞こえる。怯える少女を大丈夫だと励ます少年の声が。それは独り善がりではなく、確かな自信があって、これまでの信頼もあって、だからこそ安心できる。自分では与えることのできないものだった。
 ならば一体何ができるというのか。薄っぺらい人生を送ってきた人間の言葉はどれだけ取り繕っても厚みは生まれない。どれだけ強い想いがあっても安寧を与えることはできない。何の取り柄も力も持たない自分はひたすらに、愚直に、安易な方法でしか哀を守ることはできないのだろう。例え相手がそれを望んでいなくとも名前には他に選べる選択肢が見つけられないでいた。
 暫くして階段を登ってくる足音が聞こえ、いつの間にか俯いていた顔を上げると驚いた表情を浮かべるコナンと阿笠の二人と目が合う。軽く手を上げれば今度は呆れた顔が返ってきた。

「名前さんも聞いてたのかよ」
「哀を一人で出歩かせるわけには行かねぇだろ。お前の推測が本当なら尚更だ」

 尤もな言い分であったがコナンはどこか引っかかりを覚える。けれど名前の纏う雰囲気が少し余所余所しいのを察してそれ以上追及することはせずそのままホテルへと戻っていった。
 そうして二人が去ってその姿が見えなくなった頃合いで哀が階段を登ってくる。普段はかけていない眼鏡をしているのは小さな探偵がお守りだと言って予備の眼鏡と交換したからだ。どこぞの怪盗並みに気障なことをするものだと笑ってやれたら緊張を解すこともできただろう。そう思いながら傍に来た少女を見下ろせば、あれほど不安や緊張感を抱いていた表情が和らいでいることに気付いた。紛れもなくそれは名前が与えたかったものだ。自分にはできないことを簡単にやってのけてしまう一つ下の高校生男子に嫉妬するよりも、己の情けなさに思わず笑いが込み上げてきそうだった。
 深い溜め息を吐きながら名前は階段に座り込んだ。その行動に哀は目を瞬かせてから怪訝そうな顔を向ける。

「ちょっと、どうしたの」

 心配の色を含んだ声に返事をしないまま顔を俯けて瞼を閉じて片手で前髪を軽く掴む。最初から持っているものが違う相手と比べても自分が惨めになるだけだと解っている。だからと言ってそれを理由に傍観者になるつもりもない。

「俺は工藤ほど頭も良くねぇし、物事の正しさをそれほど大事にしてるわけじゃない。それに皆の命を救うなんて器用な真似もできない」

 固く閉ざしそうになった口を無理矢理こじ開けるようにしてそう吐き出した名前は前髪を後ろに撫でつけながら顔を上げ、丁度目線の高さが同じになった哀に目を向けた。じっとこちらを見つめてくる少女のブレスレットが光る手をとって、冷えた指先を包み込むように握る。

「だから、俺は全部捨てて必ずお前を護る」

 悩んだ末に出した答えは結局変わらなかった。全部自分一人でどうにかしようという馬鹿げたプライドを折ることができなかった。交わした瞳が戸惑うように一瞬だけ揺れる。それでも決して逸らされることはなかった。

「重いか?」
「そうね」
「だよな。そろそろ戻るか」

 二人は顔を見合わせて困ったように笑い合い、それから来た道をゆっくりとした足取りで戻っていく。ホテルに着くまでの間、名前は何か言いたげな視線を背中に感じながらも振り返ることはしなかった。哀が何を想い、何を言いたいのか、聞かなくても知っている。知っていてそれに対する答えももう決まっている。そしてその答えを彼女もきっと知っているのだ。
 渦巻く胸中とは裏腹に静かな夜に奏でられる穏やかな波音だけが二人に寄り添っていた。