黒鉄の魚影04


 暗く深い海の中を航行する潜水艦の艦内で目覚めた哀は手足を縛られた状態で狭い部屋に隔離されていた。そこにはニュース番組で顔認証システムの開発者として紹介されたエンジニアの女性も同様に捕まっており、なぜ自分の存在が組織に露呈してしまったのかは彼女の口から語られることとなる。
 インターポールにエンジニアとして所属している彼女──直美・アルジェントは子供の頃の宮野志保を知っていた。彼女にとって志保は自分を救ってくれた恩人であり、ずっと謝らなければならないと胸にしこりを残したままの相手だった。東洋系が珍しいというそれだけの理由でいじめの標的だった子供時代。毎日が憂鬱だった。けれどある日、スクールバスで嫌がらせを受けて泣きそうになったところを同じく東洋系の、日本人の志保が助けてくれたのだ。座っていた席を譲り、何事もなかったかのように立ったまま持っていた本を広げて読むその姿は周囲と比べても大人びていた。しかし善意の行動に対しての周囲の反応は子供ゆえのあまりにも純粋で残酷なもの。その日を境にいじめのターゲットは移ってしまったのだ。

「私、助けられなかった。またいじめられるのが怖くて。だから人種によって憎しみ合わない世の中にしたいって……あ、わからないよね?」
「だから老若認証を作ったの?」
「えぇ……」

 老若認証が過去の辛い経験があったからこそ生まれたシステムであると理解した哀の問いかけに少し驚きながらも直美は頷いた。そして大学で人類学とAIを学んでいくうちに人種や年齢を問わずに認証できるプログラムを思いついたのだと話を続ける。日本の防犯カメラを使い老若認証をテストする許可を得てから最初に思いついたのが志保だったという。好奇心からではなく純粋に過去のことを謝りたかったから、と。
 しかし老若認証が一致を示した画像は大人になった志保の姿と、幼い頃の志保にそっくりな子供だった。
 そう話しながら今でも困惑している様子の直美からそっと目を逸らす。哀にとっては彼女の存在はとくに思い入れのある対象ではなかった。なまじ記憶力がいいおかげでその面影だけは薄っすらと覚えていたがそれだけだ。友達と呼べる仲ではなかったしアメリカのスクールに通っていた頃の人間関係はお世辞にも良いものではない。その理由も先ほど彼女から語られたが、おそらくあの時自分が助けなくても東洋系というだけでゆくゆくは同じような状況にはなっていたことだろう。
 だから直美は自分を責める必要も、罪の意識を持つ必要もないのだ。彼女の行いが哀の正体を組織に気付かせるきっかけになってしまったとしても、決して彼女を責めることなどできはしない。

「私のせいで巻き込まれたんだと思う」

 眉尻を下げて申し訳なさそうにする直美に対して目を伏せながらすぐに否定の言葉を胸の内で返した。
 ──いいえ、巻き込んだのは私の方。
 無意識に後ろで縛られた両腕を動かしながら自分を責め続ける。そう、彼を巻き込んだのも私のせい、と。手首に伝わるのは縄の質感のみで、それ以外の繊細な感触はそこにはなかった。どこかで落としてしまったのだろうか。ウォッカたちに攫われた時に失くしてしまったのだろうか。着飾ることに対して興味もないくせに「これなんかどうだ」とショーケースの中に並ぶアクセサリーの中でもセンスのいいものを選ぶ名前がくれた贈り物。組織に正体がバレてしまった以上このまま無事に帰ることも、これから先一緒にいることも難しい。その現実に肩の力を抜くようにして曲げていた肘をだらりと伸ばした。思い出は手元にないほうがいいのかもしれない。全てを捨ててしまったほうが彼を、阿笠を、皆を危険な目に遭わせなくて済む。なのに、解っているのにそれでも帰りたいと願ってしまうのは心地好さを知ってしまったからだろう。

 今が朝なのか、夜なのか。攫われてからどれほどの時間が経ったのか。時計もない部屋ではそれすら確認する術はない。外の世界から遮断された潜水艦の一室に両手両足を縛られた状態で一人取り残された哀はキールのパーカーのフードに仕掛けた盗聴器から聞こえるウォッカたちの会話に耳を澄ませていた。組織のやり方は嫌というほど知っている。老若認証を自分たちに都合のいいシステムに改良をさせるため直美を攫った組織の連中が、断固として拒否をし続ける彼女の心を折る手段をいとも容易く行ってしまえると簡単に想像することができた。

『これを見ろ』
『父さん……! 父をどうする気!?』
『頭のいいお前なら想像できるだろ?』

 今まさに非道な手段を使って直美の決意や想いを揺さぶり壊そうとしていた。彼らにとって人の命は空気よりも軽く、奪うことになんの躊躇いもない。脳裏に浮かぶ優しい姉の人生も組織の手によって奪われた。

『貴方たちには絶対に渡さない!』
『ほぉ。それじゃあお楽しみタイムと行くか』

 脅しをかけられてもまだ反抗を見せる直美に対してウォッカの声は楽し気で、きっと力強く睨みつけているであろう彼女の姿を見て笑っているのだろう。それを想像するだけで、弄んで楽しんでいる声を聞くだけで、表情が歪んでしまう。怒りと悲しみと憎しみが胸に湧き上がり、混ざり合って、息が詰まりそうなほど苦しくなる。巻き込みたくないと思っているのに心は悲鳴を上げて強く願ってしまった。助けて、工藤くん──と。
 無意識に呼んだのは工藤の名前だった。自分と同じく薬で小さくなってしまった哀れな高校生。これまで幾度も窮地を乗り越え、組織を欺き、運命から逃げるなと言った誰よりもお節介で頼れる探偵さん。彼ならばこの状況さえも打破してくれると信じている。けれど記憶の中で返事をしてくれたのは工藤のものでもコナンのものでもない声だった。

 ────俺は全部捨てて必ずお前を護る。

 それは波の音が穏やかに奏でられていたあの夜に告げられた宣誓のような一言。"まもる"という言葉にいつもとは違う意味が込められているのだと解ったのは、自分の命でさえも捧げる覚悟の瞳を見たから。組織からの危険が迫った状況でそれを受け入れるのは本当ならばあってはいけないことだと気付いていた。遠ざけるべきだと。けれども哀が人知れずにそれを受け入れて心の奥に閉じ込めたのは、名前が示す想いの重みがなぜかとても心地よく安心を覚えてしまったからに他ならない。
 だからこそ考えてしまう。

「私が……私が父を殺した!」

 部屋に戻された直美がベッドに突っ伏し己を責めながら泣き続けているのを見守ることしか哀にはできなかった。大切な人を亡くす悲しみがどれほどの痛みか知っている。どんな言葉も慰めにはならないことも。

「あの時と同じように、今度は父さんを見捨てた!」
「違う、貴方は──」
「このままじゃ貴方も殺されちゃう! 私のせいで皆……!」

 容赦のない組織のやり方に、直美の涙に、つられるように組織に殺された唯一の肉親だった亡き姉を思い出して涙が零れた。苦しさも哀しみも押し込めていた全てが溢れ出して止まらない。そうして声を押し殺して泣きながら頭に浮かぶ最悪のシナリオを振り払うこともできずに何度も考えてしまう。組織に捉えられてしまった哀を名前は必ず救い出そうとして、躊躇いもなく立ち向かって、自分の命を顧みずに護るだろう。彼の気持ちを受け入れたから理解してしまえる。あぁ、ダメ。無理だ。彼まで失ってしまったら自分で自分の心を支えることができなくなってしまう。彼だけじゃない。阿笠や工藤や少年探偵団の皆が、誰か一人でも組織によって奪われてしまったらもう、壊れてしまう。


 パシフィック・ブイの船着き場からホエールウォッチングの際にお世話になった丑尾の操縦するクルーザーに乗り込んだコナンはすぐに潜水艦のいるであろう場所を伝えた。潜水艦が浮上をし始めたことで探偵バッジの電波が届き、哀と連絡を取りながらもしっかりと追跡眼鏡で方角は確認していたのだ。しかし迂闊に近付きすぎては危険すぎると敢えて正確な場所は教えなかった。
 海上を全速力で進むクルーザーのデッキにいるコナンは二階の操縦席で話し込んでいる蘭と丑尾の目を盗みながらドライスーツに着替え始める。組織の警戒心や危険性を知っているからこそ彼らを巻き込むことなく単独で迎えに行くしかない。阿笠と合流し彼の発明した水中スクーターを得た事で組織の目を欺く方法は思い付いたが、少しでも怪しいと勘付かれたらそこで終わりだ。
 ドライスーツのファスナーを上げて小さく息を吐き出すと名前が立ち並んで影を作った。

「行くのか」
「あぁ。必ず助けてみせる」
「そうか……お前は頼もしいな」
「名前さん?」

 落ち着いた声に隣にいる青年を見上げて、その表情を見て、コナンは今朝から抱いていた違和感を思い出す。これまでの、いや、昨日までの彼ならばどんな怪我を負おうが、どんな状況であろうが無理矢理にでも灰原哀という少女を救い出そうと動いていたはずだ。それなのに共にパシフィック・ブイに同行することもなくホテルの部屋で大人しくしていた。こうして蘭たちとクルーザーで現れた時は逆に安心さえしてしまうほどに、どこか様子がおかしい。
 コナンが不安そうに見つめているとちらりと視線が向けられ少し笑ってから名前はまた海に目を向けた。

「俺はずっと間違ってたのかもしれねぇ。自分の命一つで哀を護れるなら安いもんだって馬鹿の一つ覚えみたいに考えてた。それがあいつのためだ、ってな……けど気付かされたよ。俺は今だけじゃなくて、この先のあいつの人生も支えてやりたい」

 潮風にふわりと揺れる髪から覗く横顔と変わらぬ強い意志の宿った瞳に、コナンは心の奥にあった焦燥が溶けていくのを感じて無意識に強張っていた肩の力を抜いた。

「なぁ、工藤」

 二人の会話はしぶきを上げる海水とクルーザーのエンジン音で操縦席にいる蘭たちまでは届かない。だから本来の名前を呼ばれても咎めることはせず、向けられた眼を受け止めた。

「これは俺の最後のエゴだ。だから止めるなよ?」

 そう言いながら名前が普段着ることのないサイズの大きい上着のファスナーを降ろすと、その下に着ていたのは八丈島のダイビングショップでレンタルしたドライスーツだった。治療したと言えど銃で足を撃たれたのはつい昨夜のこと。そんな状態でまさか一緒に海へと潜るつもりなのかとコナンは戸惑い口を開いたが、揺るぎない瞳と先ほど語られた想いを前に黙って頷くことが彼の望む返事だと気付いてそっと口を閉じた。
 二人のそんなやり取りを見守っていた阿笠もまた心配の表情を浮かべながらも野暮なことは言わず、ただ希望を託して見送ったのだった。


 暗い海の中で見えた小さな光にどれだけ心が救われたことだろう。どれほど生を実感できたことだろう。
 すぐ近くまでジンは迫っていた。魚雷発射管の分厚い扉を隔てた先に確かに存在を感じ、冷酷非道な男の気配に死の誘惑はそこまで来ていると全身が悲鳴を上げる。早くここから逃げ出したい。この恐怖から解放されたい。今すぐ────会いたい。その願いが通じたのか、はたまた運がよかっただけなのかは解らないが哀は直美とともに魚雷発射管から潜水艦の外へと脱出することができた。一つのレギュレーターを交互に使い空気を吸いながら泳ぎ出すと前方から小さな光が二人に近づいて来る。その光はコナンがハンドルを握る水中スクーターのライトだった。
 
『お前も直美さんもぜってぇ助けてやっからな!』

 あれは探偵バッジを通して届いた魔法の言葉。それを信じられたからこそ恐怖に押しつぶされそうになりながらも行動することができた。そして言葉通りコナンは助けに来てくれたのだ。緊張と不安に強張っていた表情筋が緩むのを感じる。彼がいればもう大丈夫だとそう安心したけれど哀を救うためにやってきたであろうもう一つの人影に、名前の姿に一抹の不安が残ってしまった。
 無人の水中スクーターを囮に使いスクリュー音を追う潜水艦を岩陰から見届けた後、コナンはもう一台背負っていた水中スクーターに直美を掴まらせると浮上していく。その後を哀は発明品ではないレンタルされた水中スクーターで名前と一緒に海上を目指していった。暗い海から少しずつ浮上していきやがて光が届くようになってくると、傍らにいる青年を盗み見る。来てくれた。来てしまった。相反する気持ちが、感情が、複雑に絡み合ってしまった。
 海面に顔を出して肺一杯に酸素を吸う。圧迫感もない新鮮な空気がひどく懐かしく思えた。

「二人とも大丈夫?」
「えぇ」
「ありがとう」

 声をかけてきたコナンに返事をしてからヘッドセットを外して振り返れば一緒に浮上してきた名前が軽く息を整えながら濡れた前髪を後ろに撫でつけている。お礼を言わなければいけない。助けに来てくれてありがとうって。解っているのに声に出せなくてじっと見つめていると目が合ってしまい、そっと微笑まれる。

「無事でよかった」
「ぁ……、……」

 包み込んでくれるような優しい声に哀は泣きそうになった。名前の言葉を信じていなかったわけじゃない。ずっと信じていたから、だから来てほしくなかった。けれどここに居てくれることが、傍に居てくれることが嬉しいと思っているのも本当で、何を伝えたらいいのか分からくなってしまう。言葉の代わりに笑顔を返そうにもちゃんと上手くは笑えなかったかもしれない。眉尻を下げて少しだけ寂しそうに笑った彼の表情がそう答えているのだから。
 気まずさから逃げるようにして哀はコナンたちの会話に入っていった。

「でも……貴方、一体何者?」
「江戸川コナン──」
「探偵よ」

 お馴染みの台詞を被せるように言い、驚く小さな探偵に得意気な顔を向けた。今度はちゃんと笑えたと思う。
 ほどなくして一台のクルーザーが海に浮かぶ四人の元へやってきた。


 パシフィック・ブイに到着した頃にはすでに陽は落ちていた。明かりの灯った船着き場で待っていた小五郎や佐藤たちとともに施設内を歩きながら哀は最後尾を歩く青年をちらりと振り返る。どんな顔をしていいのか分からず、どんな言葉を伝えればいいのか悩んで、結局クルーザーの上では話しかけることができなかった。そんな心境を察しているのかは判らないが名前も声をかけてくることはなく、その気遣いに今は少しだけ救われた。
 エントランスに向かう途中で佐藤が足を止めて振り返る。

「さぁ、医務室に向かいましょう。もちろん貴方もよ、名前くん」

 毛布にくるまった哀と直美それからコナンに声を掛け、そのまま一行の後ろへと視線が向けられた。どこか厳しさを含んだ雰囲気に名前は顔を背けながらばつの悪そうな表情を浮かべ、あー、と抑揚のない声を漏らす。そしてメインルームに向かうという小五郎たちと別れた後、医務室への道中を歩きながら佐藤の隣に並んだ。

「佐藤さん怒ってる?」
「当たり前でしょう。大人しくしてろとは言わなかったけど海に潜る怪我人を叱らないわけにはいかないわ」
「別に平気だって。痛くねぇし」
「それは薬が効いてるから。怪我が治ったわけじゃないのよ」

 まるでやんちゃのすぎる弟を叱る姉のような構図に後ろから見ていたコナンはやれやれといった様子で苦笑した。ふと服を引っ張られていることに気付き隣を見れば困惑を含んだ険しい顔をした哀が口元に手を添えて体を寄せてくる。

「怪我ってどういうこと」

 それは当然の疑問だろうなとコナンは目の前を歩く青年の左足に一度目をやった。攫われる際に眠らされていた彼女は何も知らないのだ。本人が話していないことを話してもいいのか迷ったが、どうせ自分が喋らなくても他の誰かから聞かされるだろうことを考えれば今言ってしまっても問題はないはず。それに、と視線を隣へ戻せばこちらを睨みつけてくる少女の瞳は拒否は許さないとばかりに訴えていた。つまり最初から黙秘権はないのも同然ということだ。

「灰原が攫われたあの夜、撃たれたんだ。おそらくキャンティかコルンだろうな」
「撃たれたって……貴方それを知っていて彼を止めなかったの!?」
「できるなら止めてたに決まってんだろ」
「ならッ──」
「あの人、これが最後だって言ってたんだよ」
「それって、どういう……」
「さぁな。おめーが直接自分で確かめろよ」

 答えも求める彼女を突き放してしまったようにも思えるがこればかりはさすがにコナンの口から語るわけにはいかなかった。何より、お互いに向き合うことこそが理解への一番の近道だ。


 医務室の一番奥にあるベッドに腰掛けた哀は温かい紅茶の入った紙コップで冷えた両手を温める。先ほどまで隣にいたコナンは攫われた時の状況や潜水艦で得た情報を聞いて暫くした後、謎が解けたと言わんばかりの笑みを浮かべて颯爽と去ってしまった。おそらくこのパシフィック・ブイで起こった事件の犯人が判明したのだろう。
 
「私も目暮警部たちのところへ戻らないと。いい、名前くん。今度は安静にしているのよ。ま、痛み止めの効果も切れてくる頃合いだから無茶はできないと思うけれど」
「さすが刑事さんよく解ってらっしゃる」
「茶化さないの。哀ちゃん、彼のこと見張っていてくれる?」
「え、えぇ」
「……お願いね」

 そう言って微笑んでから佐藤も医務室を出ていった。心配せずとも自分がここに居る限り名前がフラフラとどこかへ行ってしまうことはないだろうと思いながら手元の紙コップを見下ろせば紅茶の表面に合わせて映り込んだ天井の照明の光が揺れている。まるで心を映し出しているようだ。危険に晒すべきではないと解っているのに、無意識に自分がいれば彼もここにいるなどとそれが当たり前なんだと考えてしまう。本来ならそれは普通ではなく特別なことなのに。
 ふと手元に影が落ち、次いで隣に誰かが座る。ハッとして顔を上げれば丸椅子に座っていたはずの直美の姿がなく、横を見れば名前は視線を合わせないままあの人なら着替えに行ったと口にした。それに気付かないほど緊迫した状況から解放されて緊張感が緩んでしまっていたか、正解のない答えを求めすぎていたのか。確かなのは自分にとって彼がどういう存在なのかを見つめ直す時が来てしまったということ。

「……助けに来てくれて、ありがとう」
「あまり嬉しそうじゃないな」
「感謝してるのは本当よ。でも……素直に喜べないわ。私のせいで撃たれてしまったんでしょう? 貴方は平気そうな顔してるけど、死んでいたかもしれないのよっ」

 つい感情的になってしまい両手で持っていた紙コップの綺麗な円が歪んだ。ようやく名前がこちらを向いて、困ったように眉尻を下げて笑った。持っていた紙コップを抜き取られ丸椅子の上に残されていったコナンのコップの横に置かれる。

「褒められた行動じゃないのは解ってる。俺がしたくてそうしただけだ。だからお前が気にすることねぇよ」
「……無理よ。だって貴方が言ったんじゃない。私を護るって」
「あぁ、そうだな。あんな大層なこと抜かしておいて、結局なにもできなかった……ごめんな」
「貴方のせいじゃないわ。でも解ったでしょ、これが彼らなのよ」

 平穏な日常が心地好くてつい忘れてしまいそうになるが今回のことで組織の異常さを再確認させられた。きっとそれは彼も同じだ。そうでなければ困ってしまう。

「よく解ったよ。あいつ等のイカれ具合も、俺の未熟さも、これまでの覚悟じゃダメだってこともいろいろな」
「え……?」

 納得したのかと安心しかけたが言葉尻のニュアンスをどうにも上手く受け取れず哀は不思議そうに見上げた。その少し怪訝そうな色を含んだ瞳を受け止めてからゆっくりと前を向いた名前の視界には丸椅子の上に並ぶ紙コップがある。

「俺にはお前を助け出すことはできない。悔しいけどな、最後に足掻いてみてそれが現実だって思い知ったよ。だから、情けねぇけどその役目はあいつに譲ってやる」

 怪我を負っていながらも暗い海に潜り攫われた少女を迎えに行ったのは確かだ。けれど文字通り迎えに行っただけで助けたわけではない。二人が潜水艦から脱出すると知れたのも、水中スクーターを囮に使い組織の目を欺く作戦を考えたのも、彼女たちを救うために行動したのは全てコナンである。名前はそれに便乗したにすぎない。しかし悔しいと、情けないと口では言っているのに横顔は穏やかだった。

「俺にできるのは哀を、志保を支えること」

 もう一度顔を隣に向けて太ももの上に置かれた小さな手を取り、上着のポケットに入れていたブレスレットをその手首に返した。

「生活も友達も、お前が笑っていられる毎日を俺は護りたい。だからお前はその人生を捨てる必要なんてないんだよ」

 柔らかい声音と優しい眼差し、そして告げられた新たな覚悟に哀は目の奥が熱くなるのを感じた。そっと視線を落とし戻って来たブレスレットに触れる。失くしたと思っていた。忘れるべきだと考えていた。なのにこうして手元にあることが自覚している以上に嬉しい。

「どうして、貴方はそこまで……自分の身を犠牲にしてまでも私を……」
「理由か……なんとなくだけど、家族ってそういうもんだろ?」

 どこか照れくさそうに言った言葉がストンと自分の中に落ちてきた。お互いに家族を失っている者同士だ。名前が何よりも大切にしているモノでその意味も、重さも理解している。──私なんかを大切なモノの中に入れてしまっていいの。そう問いかけようとしたけれど着替えを終えた直美が戻ってきて胸の内に仕舞うことしかできなかった。
 それから暫くして魚雷に狙われている可能性があるからと施設から退避することになり再び丑尾の運転するクルーザーに乗り込んだ。この頃には名前が服用していた痛み止めの効果も切れており、片足を引きずった覚束ない足取りでデッキに腰を下ろす。その傍らにいた哀は魚雷によって爆発するパシフィック・ブイの光景を目の当たりし一緒に避難して来なかったコナンの安否が気になりだした。デッキに置かれたままだった海中ヘッドセットから僅かに音が漏れているのに気付いて装着すると、潜水艦を狙撃するという会話が聞こえてすぐに通信は切れてしまう。
 哀はこれまでの経験からコナンが無謀な作戦を考えていることを察した。思考を巡らせるよりも先に体が動いて小型エアタンクを取ろうとした手を自分よりも大きな手で掴まれる。

「よせ、行くな」

 随分と無茶をしたせいで傷に影響が出ているのか痛みに耐える表情を浮かべながら名前がそう訴えた。哀が何処へ行こうとして、何をしたいのかが解ってしまったのかもしれない。このまま強引に推し進めれば間違いなく止めるために追ってくるだろう。だから返したのは精一杯の笑みだった。

「貴方言ったわよね。私の毎日を護ってくれるって」

 少しだけ掴んでいる手の力が緩んだ。

「なら、私を信じて待ってて。もう貴方に無茶はさせたくない。私だって失いたくないの」
「……絶対に戻って来いよ」
「……えぇ」

 惜しむようにして手が離れていき哀は小型エアタンクを口に咥えると水中スクーターを持ち上げて海へと飛び込んだ。暗い海の中をスクーターのライトだけを頼りに進みながら不安を拭いきれない表情を思い出す。嘘をついた。きっと彼もそれに気付いている。それでも止めずに見送ってくれた。信じてくれた。自分には勿体ないくらいどこまでも優しい人。どうか期待しないで待っていて。




 あれから数日後。
 羽田空港の国際線出発ロビーで直美を見送った哀はロビーの片隅で待っていた阿笠とコナンの元に歩み寄った。帰る前に何か食べていくかとレストラン街の方へ向かっていると、トイレに行ってくると言ったきり暫く戻ってこなかった名前が合流する。なぜか不機嫌そうな顔をしているからどうかしたのかと聞いてみたが、くだらない理由だから気にするなとそっぽを向かれてしまった。それがまるで子供のような仕草で笑いが零れてしまう。
 信じて待ってて。夜の海上でそう告げた後、哀は自分の命を諦めようとしていた。組織に正体がバレた以上皆を巻き込んでしまうから。しかし叶わず、逃げる事を良しとされなかった。小さな探偵が許してはくれなかったのだ。決して手を離さなかった彼は太陽のような存在で、大丈夫だといつも正しい道に導いてくれる。けれど太陽は眩しくて近づきすぎては翼を焼かれて堕ちてしまう。それもロマンチックな死に方だと考えてみたけれど、すぐにそんなことは自分でも望んでいないと否定した。
 結果的に宮野志保であることは未だ組織に気付かれていない事が判明し、こうしてまた灰原哀としての生活に戻ってこられた。一安心したがあの時の気持ちが嘘だったわけではない。ちらりと隣を歩く名前を見上げる。どこにも帰る場所なんてない、そう思っていたと言ったら彼は怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。本当に諦めかけていたのだ。仕方がないことだって受け入れようとしていた。でも迎えに来てくれた蘭や阿笠、そして彼の安堵した表情を見て気付いてしまった。

 ──私は、私の人生をまだ諦めたくないのね。だって貴方の顔を見たら、何でもない日々を恋しく思ってしまったのよ。

 夜空に浮かぶ月のように優しく見守り、闇に覆われそうになった時には迷わないように道を照らしてくれる。時には姿を見せないこともあるけれど、そんな彼の言葉を、想いを、今度こそ信じ抜こうと哀は微笑んだ。