黒鉄の魚影 後日談


おまけ@

 上の階から国際線出発ロビーにいるコナンたちを見下ろしていた着物姿の老婦人は踵を返してエレベーターへと歩き出す。初めは年相応のゆっくりとした足取りだったが、周囲に人の気配が少なくなる頃には歩みが早くなっていた。そして顔に手をかけベリッと何かを剥がすと現れたのは老婦人とは程遠いプラチナブランドの長い髪を揺らした若く美しい女性──ベルモット。グラデーションの綺麗なネイルで飾られた手に握られているのは変装マスクだった。
 エレベーターの扉が開いて乗り込むと中には先客がいてベルモットは薄く微笑みを浮かべながら隣に並んだ。扉が閉まりエレベーターが動き出すと小さな舌打ちが耳に届く。

「あんまウロチョロすんなよ。余計な警戒は無駄に疲れる」
「あらごめんなさいね。でもそれが貴方の役目でしょ、ウォッチドック?」

 階数を示す表示板の数字が一つ下がる。無駄な会話は避けたいのか先に乗っていた名前は気に入らない呼び方に文句も言わず口を閉ざした。元より口では相手のほうが上手であるから反論したところで喜ばれるだけだろう。
 現にこの状況だけをとってもベルモットは一時の退屈しのぎには充分だと楽しんでいた。また一つ階数の数字が下がってエレベーターが停止する。残念ながらお別れの時間ね、と心の中で呟くも惜しむ気持ちはひとカケラも持ち合わせてはいない。扉が開きエレベーターを降りると後ろから「おい」と声をかけられた。振り向くことはせずに足を止める。

「礼は言わねぇからな」
「必要ないわ。別に貴方のためではないもの」

 それだけを言うとベルモットは駐車場へ向かって歩き出した。背後からは音声アナウンスと共にエレベーターの扉の閉まる音が聞こえる。名前が降りてきた気配がないことに、ふっと笑いが漏れた。わざわざ伝えなくてもいいことを言うためだけに待ち伏せていたのだと解ると不思議と可愛く思えてきてしまう。彼に電話をかけたのはほんの気まぐれだった。シルバーブレットと違い状況を覆すほどの力も影響力も持たない、ただシェリーを護りたいと願うだけの番犬くん。
 もしかしたら、そんな哀れな青年がどうにかしてしまう未来でも見たかったのかもしれない。




おまけA

 とある報告書のファイルを片手に風見は足早に捜査一課のオフィスへ向かっていた。すれ違う婦警や若い刑事が驚いたように慌てて廊下の端に寄っているのはいつも以上に厳しい顔つきになっていたからだろう。普段から威圧感のある態度を取っていてあまり人を寄せ付けないが今はそれがより増している。

「佐藤警部補はいるか」

 オフィスの入り口で呼びかけると多くの刑事の視線が一斉に向けられた。厳つい男ばかりだが気圧されることはない。部屋の中を見渡せば多くの資料ファイルの乗ったデスクにいる佐藤が椅子から立ち上がり小走りでこちらへやってきた。

「なにか」
「この報告書について少し尋ねたいことがある。少々いいだろうか」
「それって……分かりました」

 風見の持っているファイルを一瞥した佐藤にはそれがつい先日自分が作成したものだとすぐに分かった。頷いて見せれば時間を無駄にしたくないとばかりに背を向けて歩き出す男の後を追う。捜査一課のオフィスを離れ、二人がやってきたのは自動販売機の置かれている休暇スペースだった。タイミングもよく他に人はいない。
 足を止めて改めて向き合った風見はファイルを捲り綺麗にまとめられた報告書の一部を指で撫でた。指先の下にあるのは一人の青年の名前。願わくば同姓同名であってくれと思えど、本人であるという確信も自分の中にある。

「ここに書かれている負傷者というのは彼で間違いないんだな」
「えぇ。本人から聞いていないのかしら?」

 その疑問に答えることができず黙ってしまった風見の様子に、件の青年が自分から言い出すわけがないかと佐藤は軽く肩を竦めた。そして報告書にも書いたが改めて八丈島で起こった事を話す。もちろん病院帰りに交わした少女に対する彼の想いは秘めたまま。目の前で苦悩の表情を浮かべる公安刑事が恋人だとしても彼の繊細な部分を本人の知らぬ間に明かすのは憚られた。
 話を終えると風見は眉間にシワを寄せて睨みつけるように報告書を見つめる。

「あまり怒らないであげてくださいね。彼も随分悩んで、考え抜いて出した結果ですから」
「……怒りませんよ。ただ、心配している人間がここにもいると言ってやらないと彼には伝わらない」
「そうですね」

 小さく微笑んだ佐藤に短く礼を言ってから来た時と同じく足早にその場から離れた。向かう場所は公安の部署ではなく現場。手が離せない捜査にできた僅かな時間を使ってどうしてもこれだけは確かめておきたくて風見は一旦本庁まで戻ってきていたのだ。確証は得られた。後は本人にどうやって分からせるかが問題だ。