cravate03


 警視庁にある公安部のフロアでデスクワークをしている風見には最近になってとある変化が起こった。といってもそこまで大層なことではない。恋人ができたのだ。普通なら恋愛成就の願いが叶って喜ぶところだがそうもいかない理由がある。公安刑事だからと言って恋人を作ってはいけないという決まりはない。既婚者だっている。喜べないのはそれ以前の問題だからだ。第一、恋人と呼んでいい関係にあるのかすら正直疑わしい。
 余計なことを考えていたせいか書類の上を走らせていたボールペンが枠をはみ出してしまった。ぐっと眉を寄せてペンをデスクに転がす。そして数日前に突如としてできてしまった恋人を思い出す。年下で、高校生で、不良の青年を。まだ学生なのに煙草を吸っていて、その姿を見るたびに風見は注意をしてきた。口調は荒っぽく少々人を寄せ付けない雰囲気を感じるが決して悪い子ではないと知っている。何より彼の淹れたコーヒーは美味いの一言に尽きるのだ。
 その時デスクに置かれた風見のスマホが振動し、画面には着信の文字が表示された。登録された番号は今しがた頭を悩ませていた人物である。

『あんた今度の休みはいつ?』

 画面をタップしスマホを耳元に近づけると電話越しに聞こえた開口一番がこれだ。通話に出た相手を確認しないままいきなり本題へと入っていく。彼から電話がかかってくることはかなり少ないが、その数少ない全てがだいたいこんな感じである。受け手の第一声である「はい」すら言えないまま、開いた口を一旦閉じて溜め息を一つ吐いた。

「なんだ急に」
『いいから。休みはいつ?』

 こちらのことなんてお構いなしで催促してくる相手に仕方がないとデスクに置かれたカレンダーを確認する。職業柄、休日なんてものはあってないようなものだ。スーツを脱いで私服の時であっても、有事の際には警察官としての職務を全うしなければならない。だがそんなことを今ここで伝えたって意味を成さないだろう。カレンダーの日付を指で辿っていき丸印のついた場所で止まる。休日、というわけではないがその日は非番であった。曜日とともに日付を相手に伝えるとすぐに分かったと返事がされる。

『じゃあその日は一日空けといて』
「なにかあるのか?」
『時間と場所、決めたら連絡するから』
「あ、おい、ちゃんと説明をしないか」

 それじゃあ、とすぐに通話を切られてしまい風見はそのやりとりに既視感を覚えた。通話画面が閉じて待受画面が表示されたスマホを眺めながら、あぁそうか降谷さんかと溜め息を吐く。なぜ自分の周りには一方的に話を進める人しかいないのか。あの時もそうだった、と思い出すのはまだ記憶に新しい数日前の出来事だ。


 ────それは安室透として動く上司の様子をいつものように苗字から聞いていた時に起こった。なんと話題の中心人物である本人がその場に現れたのだ。こんなところで何してるんですか。一体いつからそこにいたんですか。などと聞けるような雰囲気は残念ながらなく、自分に向けられる降谷からの厳しい視線にごくりと息を飲んでたじろいだ。

「風見」
「は、はい!」
「これはどういうことだ」
「あ、これは……その」

 なんて説明をすればいいのか悩んだ。貴方について彼からいろいろと聞いていた、などと本人を前にして言えるわけがない。馬鹿正直にそんなことを言ってしまえば、くだらないと一蹴されることが容易く想像できてしまう。挙句、本人に聞けば済むことだろうと呆れられるに違いないのだ。だとしても聞いて答えてくれるような人ではないと身に沁みて解っているからこそ、こうして苗字を頼っているのだが。
 頭をフル回転させながらどう弁解しようか言葉を詰まらせていると降谷の視線は次第に険しいものになっていく。まるで凶悪犯罪者にでも向けられている眼光の鋭さに心臓が縮んでしまいそうだ。いっそ正直に話してしまえば楽になれるかもしれない。

「す、すみません! 実は彼と会っていたのは────」
「俺たち付き合ってんだよ」
「……は?」
「え?」

 しかし、目の前の上司から伝わって来るプレッシャーに負けそうになった風見を救ったのは意外にも静観していた苗字であった。だが彼の発言はどこかおかしくはなかっただろうか。さすがの降谷も鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている。珍しい上司の表情に一瞬そちらに気をとられてしまったが、すぐに視線を隣に立った青年へと向けた。そしてなにを言ってくれてるんだこの子は、と思わず叫びたくなる衝動を必死に抑える。

「えっと、付き合ってるというのは……」
「交際してる」
「意味は理解していますよ。ですが男同士じゃないですか。歳も離れていますし」
「あんた偏見ある人なんだ」
「そうでは、ありませんが……本当なんですか?」
「本当だけど? ね、裕也さん」

 同意を求めるようにこちらを見上げてくるその瞳は妙に鋭く、話を合わせろと言っているようだった。それにハッとして背筋を伸ばし慌てて肯定の返事をすると再度上司から懐疑的な視線を向けられる。

「なぜこんな時間に?」
「予定が合うのがだいたいこの時間帯だから」
「随分人気のない場所ですよね、ここ。内緒話をするには丁度よさそうだ」
「スーツ姿の男と高校生が夜の街中で一緒にいたんじゃ職質されそうだろ、この人が」
「……なるほど」

 のらりくらりと嘘を交えながら質問──もはや尋問なのかもしれない──を捌いていく苗字に思わず感心してしまう。おまけにスムーズに進む会話に自分の入る隙がない、と風見は二人の動向をただただ見守るしかできなかった。
 そんな部下の姿から探るような視線を外して少し考える素振りを見せた降谷は「分かりました。そういうことにしておきましょう」といささか納得のいっていない言葉だけを残し去っていった。ようやく解放された緊張感から深く息を吐く。精神がかなり削られたがひとまず難は逃れた。しかし一難去ってまた一難とはまさにこのこと。

「あんたの名前、裕也で合ってたよな?」

 話の流れで彼と交際しているということになってしまった。当の本人はとくに気にした様子もなく平然としている。風見としては年下のしかも高校生と交際をしていることになってしまったのは、自分の年齢を鑑みてもこの先どうなるのか不安でしょうがないのであった────




 平日の午後一時。米花駅前。路肩に車を停めた風見は運転席から降りて周りを見渡す。長い間は停車させておけない、と心配するがありがたいことに目的の人物は早々と見つかった。相手もこちらに気づいたのか多くの人が往来する間をスルリと抜けてやってくる。その人物──苗字名前は職務中と変わらない恰好をしている男の前に立つと途端に呆れたような表情を浮かべた。

「あんた休日もスーツなのか」

 むしろ平日だというのに学校にも行かず私服でうろついている学生のほうがどうなのかと風見は問い詰めたかったが、今はあえてそのことには触れなかった。それよりも呼び出された理由のほうが気になっているからだ。

「こんなところで待ち合わせなんてどういうことだ?」
「これからデートすんだよ」
「は、デート? 誰が……まさか私と君が!?」
「ほらさっさと車乗れよ」

 呆気に取られている合間に、名前はまるで自分の車であるかのように勝手に助手席へと乗り込んだ。それからワンテンポ遅れて運転席に戻りシートベルトを締めると車を走らせる。駅前の交通量が多い中、路駐するのが躊躇われていたためすぐに移動できたことは幸いだった。しかし、と助手席でスマホを弄っている青年を横目でちらりと見る。いきなりデートなどと一体何を考えているのか風見にはさっぱりであった。

「カーナビセットしていい?」
「あ、あぁ。どこに行くんだ?」
「米花水族館。デートスポットらしいからそこでいいだろ」

 随分適当な物言いに眉を寄せつつも目的地がセットされたナビの案内に従って車を走らせる。ハンドルを握りながら助手席の様子を伺いスマホを仕舞った気配を感じとったところで声をかけた。

「どうして急にこんなことを?」
「んー、あの人かなり怪しんでたから既成事実でも作っておこうかと思って」
「それならそうと事前に言っておいてくれないか。知っていたらスーツはやめていた」
「『安室さんが怪しんでいるからデートでもして信じこませよう』なんてあんたに言ったら、必死にあの人の前で付き合ってますアピールして余計怪しまれそうだろ」
「うっ……」

 図星を突かれて言葉を詰まらせた風見は自分に向けられる呆れた視線に気付くとわざとらしく咳払いをした。確かにあれ以来なにかと探ってくる上司に対して過剰に交際を強調していたような気がする。今思えばもう少し堂々としていれば怪しまれないものだと解るが降谷相手ではそれも厳しいかもしれない。短い付き合いだがこちらの個人的な事情を名前はすでに見抜いているようだった。

「それとなくあの人の前で今日のこと仄めかしてあるし、うまくいけば信じてくれるだろ」
「うまくと言ったってな……」

 写真でも撮ってあの人に見せればいいのか。いや、こちらから見せるのも余計怪しまれそうだ。なら同じお土産を買ってそれぞれで渡すのはどうだろう。ダメだ、態とらし過ぎる。などと一人でぶつぶつ呟いている運転手に目を向けた名前は、ほんと真面目な人だなと呆れながらも口元を緩めた。

「あんま余計なことしなくてもいいと思うけどね」

 そんなことしたって意味ねぇし。そう心の中で続けながら運転席からサイドミラーへと視線を移して目を細める。そこには数台後ろを走る白いFDがミラーに映り込んでいた。


 平日ということもあり水族館にはそれほど客は多くなく館内はゆったりとした時間が流れていた。チケットともに貰ったパンフレットを開くと、丁度タイミングよくイルカショーが間もなく始まるというアナウンスが放送される。とくに目的もない二人はせっかくだからとショーを観賞することにした。
 来館していた客の多くがショーに集まったのか、水中から飛び出すイルカたちに観客席からは感嘆の声が大きく上がった。その様子を後方の席から眺めていた名前は隣に座る恋人役へと視線を移す。相変わらず固っくるしい表情で愛らしくも可愛らしいイルカを見つめている。この空間でそんな表情を浮かべているのはきっと風見くらいだろう。

「もうちょい楽しそうな顔できないのかよ」
「……君こそ」
「ま、男同士で水族館を楽しめってのは無理があるな。あんた彼女は?」
「質問内容が唐突すぎるぞ。今はいない」
「じゃあ好きな人」
「そんな暇はない」
「仕事が恋人ってやつか。なら暫く俺と恋人ごっこをしていても問題ないわけだ」
「君こそどうなんだ? 大切な人はいないのか」

 水面から飛び出したイルカの大ジャンプに歓声が響いた。だが、それとは対照的に二人の間には沈黙が流れている。
 すぐに返事がされるものだとばかり思っていた風見は不思議そうに顔を横に向けた。そして少しだけ目を見開く。名前の視線は真っ直ぐにショーへと向けられているが、その瞳はどこか遠くを見ているようで、どこか寂しさを募らせているように思えてしまった。なぜだかそう感じてしまった。

「いねぇよ、どこにも。みんなどっかに行っちまった」

 そう自嘲気味に笑う姿が一人置いて行かれた小さな子供のように見えた。風見は以前上司の降谷に頼まれて名前を調べたことがある。そこで判明したのは母親がすでに鬼籍に入っていたこと。歳の離れた妹がいたこと。父親については判らなかった。それから、どうやら母親を亡くした後は施設には行かず誰かと生活を共にしていたようだ。だが今の彼は一人暮らしである。先ほどの発言からその人物もすでに亡くなっているのではないかと推測できた。観覧車での一件や降谷に密会がバレた際も庇い助けてくれたその姿は強く逞しいものだった。けれどもそれは数あるうちの一面に過ぎない。これまで抱いていた印象から変化した心情が無意識に手を動かした。そっと、迷子の子供を慰めるように優しく彼の頭を撫でたのだ。
 何の脈絡もないその行動に名前は驚いた。目を丸くして優しい手つきの風見へ視線を向ければ依然として表情は変わらないもののその瞳はなぜか暖かく見える。この温もりを感じたのはいつ振りだろうか。懐かしい感覚に自然と目を細めていた。脳裏に一瞬だけサングラスをかけた男の姿が過る。

「っ……す、すまない!」

 自分に向けられた初めて見る表情に我に返った風見は慌てて手を引っ込めた。まるで子供に対する行動をしてしまったことに自分でも驚きながら、もしかして怒らせたのではないかと焦る。暴言を受ける覚悟をしたが意外にも名前から発せられたのは「別にいいよ」の一言のみ。それだけ言うと再び前を向いてしまった横顔を見て先ほどの表情を思い出した。安心したような、それでいて誰かを懐かしむような表情を。


 ショーを見終えた二人は適当に館内を歩き、じっくりと海の生き物を観察することもなく一通り見て回ってから水族館を出た。次の目的地は決まっていない。ここで「はい、さようなら」をするのはデートとしての説得力に欠けてしまう。そこで風見が出した提案はドライブであった。車の中であればいつもの安室透についての報告も人目を気にせず聞けるだろうという思惑もある。幸い、名前は趣味でツーリングを楽しむ人間であるため反対されることはなかった。
 気分転換にバイクでよく走るおすすめのポイントをいくつか走り、最終的に東京湾に浮かぶパーキングエリアへと到着した。数時間も車内で過ごしたせいか名前は助手席から降りてすぐに固まった体を解すように伸びをする。それから海がよく見えるエリアへと向かうと、夕日が沈んでいく時間帯のためか多くの家族連れや恋人たちが水平線を眺めていた。
 柵に両肘を乗せて寄りかかりながら同じように夕日を見つめていると、遅れてやってきた風見が隣に並んだ。ちらりと視線を向ければ首元には以前渡したネクタイが綺麗に絞められている。

「俺があげたネクタイ、ちゃんと使ってるんだ」

 本当は駅前で会った時から気付いていたが、ただその時は律儀な人だなとしか思わなかった。

「似合わないか?」
「いや? 似合ってるよ……うん、似合ってる」

 けれど今は嬉しいと感じていて名前は少しだけ戸惑った。しかしそれを表には出さずそっと片手を伸ばし、ゆっくりとネクタイを上から撫でる。その手つきが妙に艶めかしく見えしまった風見は僅かに胸が跳ねたような気がした。

「あんたの私服姿、想像できねぇな」
「私だってスーツ以外を着るときはある」
「スーツでいろよ。そんで、このネクタイをもっと使えばいい」

 夕日に照らされた名前の顔が風見へ向けられる。自分が贈ったものを使われているのが嬉しいのか、顔つきがとても柔らかい。
 出会ってから初めて見るその表情は妙に風見の心を惹きつけ、そしてまるで誘われるかのようにその頬に触れた。掌からじんわりと相手の体温が伝わってくる。するとそこで名前にネクタイを掴まれ強引に引き寄せられてしまい、あっと声を出す暇もなくお互いの顔が近づいた。

「安室さんが見てるぞ」
「なん────」

 どうしてここで上司の名前が出てくるのかと驚いて声をあげそうになった口が柔らかい感触で塞がれた。一秒にも満たない行為だったが体感ではそれ以上に思えてしまう。離れていく唇を無意識に視線で追うと口端がにやりと吊り上げられた。

「あの人ずっと尾けてきてたんだけど、あんた気づいてなかったろ」

 ぱっとネクタイから手を放し、腹減ったからなにか食って帰ろうと言って歩き出した名前を唖然としながら見送った後、風見はサッと顔を青くさせた。咄嗟に周囲を見渡しそうになる衝動をなんとか抑えて頭を抱える。今しがた告げられた言葉によれば降谷は最初から自分たちの行動を見ていたという。建前上ではあるが一応デートするというのに自分の服装は仕事時と変わらないスーツ姿。水族館では魚を見ながら語り合うことすらしていない。果たしてこれで優秀な潜入捜査官である降谷零を欺くことができたと言えるのか。挙句の果てには夕日をバックに一方的にキスをされる始末。
 と、そこで一時思考が停止した風見はだんだんと頬を赤らめていく。

「────あぁ、もう!」

 そして遣り場のない気持ちを吐き出して、見失う前に離れていく背中を追いかけた。



 それから数日後の事。風見は目の前に立つ上司の厳しい顔つきにスッと背筋を伸ばし表情を硬くした。

「風見」
「は、はい」
「真剣なんだろうな」

 何に対しての確認なのか、それが解らないほどの間抜けではない。風見は真面目な男である。例え相手が年下で、男で、不良であっても恩を仇で返すようなことはしない。そして何より、自身の心境に多少なりとも変化があったことをちゃんと自覚していた。だからこそ努めて真剣に応える。

「もちろんです」
「……ならいい。部下の恋愛事情にまで首を突っ込む気はない。だが──」

 その返答を受け止めた降谷は少し俯いて息を吐くと、もう一度鋭い視線を向けた。あまりにも強いその眼力に思わずたじろいだ。

「お前は三十路で相手はまだ高校生だ。それだけはよく覚えておけ」

 もちろん年齢差については当事者である自分が一番気にかけているところである。だが上司相手にそれを口に出すことはできず、何度も頷くことしかできなかった。