安室とファーストコンタクト


 バイトもなく予定も入っていない休日。賑やかな子供たちの声もない静かな午前中は惰眠によって過ぎ去った。学校での大きな抗争とバイトのシフトが重なっていたせいで想定していたよりも体は疲れていたようだ。背伸びをしながらキッチンカウンターへと向かい遅い朝食──というよりも時間的には昼食になる──の準備をする。カリカリにトーストされた食パンに乗せたバターがじわりと溶けて染み込んでいく。バターを全体に伸ばしたら今度はオレンジのマーマレードをたっぷりと乗せた。スプーンでジャムを均して一口頬張る。歯を立てるとサクッとした心地のいい音が耳に届く。一口分が欠けたパンを皿に戻し、今度はマグカップにインスタントの粉スープを入れた。お湯を注いで先ほどジャムを塗った時に使ったスプーンでかき混ぜる。
 カウンターのスツールに座ることなく立ったまま食事をする名前に行儀が悪いと咎める者はいない。家主の阿笠博士は地下で発明の真っ最中であり、哀はソファでノートパソコンと睨めっこをしている。なぜかその隣にコナンがいることからまた事件だろうと察していた。だから二人の様子を視界に入れた瞬間から関わらないようにしようと声をかけずにいた。キッチンのシンクに数人分の食器があることから名前以外はすでに昼食を済ませていることももちろん把握している。
 最後の一口を放り込み、インスタントのスープも飲み干してからついでとばかりにシンクに溜まった食器を洗う。元々家庭の事情というやつで家事をすることに抵抗のない名前は、居候という立場のため進んで阿笠邸の家事を請け負っている。もちろんバイトやらで多忙な時は哀たちも家事をやっているので基本的には気付いた人がやる、という具合である。スポンジで汚れた皿を洗っているとスツールに誰かが座るのを視界の端で捉えた。目を向けるとカウンターに両肘をついて頬杖をしたコナンがじっと名前を見つめている。

「事件のほうはもういいのか」
「うん。さっき高木刑事に電話で犯人のトリックを伝えたからもう大丈夫だと思うよ」
「そりゃあ一安心だな。それで?」
「それで、って?」
「何じーっと見てんだよ。コーヒー飲みたきゃ自分で淹れろよな」

 面倒くさそうな表情を浮かべる名前を前にコナンは大きな瞳をぱちくりさせた。確かに阿笠邸へ来ると名前の淹れたコーヒーをよく飲むが、無言の圧力をかけてまで欲しいと思われているのは心外だ。と、コナンは少し不服そうにジトっとした目つきになる。

「違うよ。初めて会った時は家事とか全然やらなそうなイメージだったのになーって思っただけ」
「今はどんなイメージなんだよ」
「腕っ節の強い主夫?」
「……へぇ」
「じょ、冗談だって」

 思わず両手を挙げて降参のポーズをとったコナンに一つ息を吐いた名前は手元に視線を戻し、皿やコップについた泡を水で洗い流して水切りラックへと置いていく。コナンはその姿を見ながら先ほど自分の発した言葉はやはり当たらずとも遠からずなのではないかと内心呟いた。不良高校生と自他共に認めている名前だが、一歩喧嘩から離れれば面倒見のいい青年だ。家事スキルに関して言えば料理の腕だってポアロで問題なくお客に提供できるレベルである。そこで前々から気になっていたことをふと思い出した。

「そういえばさ、名前さんって最初から安室さんのこと嫌ってたの?」
「はぁ? なんだよ突然」
「第一印象はどんな感じだったのかなって」

 純粋無垢そうな表情で際どい質問をするコナンに対し眉を寄せながら濡れた手を拭いた名前は意図せずして安室透との出会いを思い出してしまう。数々の事件のせいで知り合ってからもう随分と経ったようにも思えるが、その出会いはまだまだ記憶に新しい。


 名前がポアロでバイトをし始めたのは高校一年の時だ。帰る家もなく荒んだ生活を送っていく中でやはり金は必要で、バイト募集のチラシを見て適当に入った店がポアロだった。鈴蘭高校に入学してから幾日、クラス統一やら学年統一やらの抗争に巻き込まれているせいで生傷の絶えない不良学生をマスターは嫌がる素振りもせずに受け入れてくれたのだ。それからいくつかのバイトを経験したがどこも長続きはしなかった。顔に痣を作ってくるとすぐにクビを言い渡される。それが普通だ。だがポアロだけは今も続けさせてもらっている。マスターが変わり者なのか、懐が深いのか。どちらにせよ名前にとってはありがたいことだった。

「名前くん、安室さんとはもう会った?」
「誰それ……あぁ、新しいバイトの。まだだけど」
「あれ、そうなの? 名前くんのこと聞かれたからてっきりもう会ってたのかと思ったのに」

 新しいバイトが入ることはすでにマスターから聞いていたが、梓に問われるまで名前は知らなかった。新人教育、というわけではないが仕事内容の教示は彼女が担当している。そのせいもあってか新人とシフトを同じくしたのはそれから数日経ってのことだ。だから名前が安室という人物を知るわけがなく、反対もまた然るべき。
 この時、梓の話を聞きながら名前はすでに見ず知らずの安室に対して小さな不信感を抱き始めていた。

「はじめまして、安室透です」

 バックヤードで開店の準備をしながら名前は「どうも」と適当に返事をした。胡散臭い笑顔だな。それが男を見て初めて抱いた感想であった。容姿端麗で人当たりがよく穏やかな青年という人物像を梓から聞いた時は大袈裟に言っているのだろうと思っていた。しかしどうだろう。目の前の男は世間でいうところのイケメンというやつだ。すでに女性のファンもいるらしい。なるほどこの貼り付けられた笑顔に皆騙されているんだなと一人納得する。
 一方の安室はぶっきらぼうな名前の態度に目を瞬かせた。どこか懐かしさのようなものを感じた気がしたからだ。はて、誰かに似ているような。しかしその疑問はテーブルに置かれたスマホとジッポライターを視界に入れたことにより思考から排除された。とくに目を引いたのはシルバーのシンプルなジッポライター。一見して派手な模様などが入っていないことからお洒落の為ではなく実用しているのだと伺える。煙草を吸っているのだろうと予想できたのは、名前が有名な不良高校に通っていることを事前に知っていたからだ。妙に気になってそのライターを手に取ってみると細かい傷が多く所々メッキが剥がれている。随分長いこと使っているか扱いが雑かのどちらかだろう。

「触るな」
「あ、すみません」

 安室が掌の上でライターを裏返した時だった。褐色の肌を叩くようにしてライターを掴んだ名前にぐっと睨みつけられた。怒らせてしまったなと思いながらも、細かい傷に紛れていた文字が脳裏に浮かぶ。見えたのは一瞬だったので読むことはできなかったがおそらく刻まれているのは名前だろう。本当に触れられたくない物なのか、それとも隠したかったのかは解らない。だが、こういうものを暴きたくなってしまうのは性分なのかもしれない。

「大事なものでしたか?」

 そんな安室の思惑など知らない名前は言葉を返すことなく無言でポケットにライターを仕舞った。そして初対面の相手の私物を許可もなく触れるのはどうなんだと眉を寄せる。名前は馴れ馴れしい人間が好きではない。初対面で、人の良さそうな笑顔を浮かべて、プライベートの領域に無遠慮に突っ込んでくる相手は特にだ。つまり安室は見事その全てに当てはまっている。なので必要以上に関わるのは止そうと名前が決意したのはむしろ当然のことなのだ。

「仕事内容は梓から教えられてんだろ。なら俺からあんたに言うことは何もねぇよ」

 それだけ言い残した名前はバックヤードを出てまだ客のいない店内へと戻った。これまでいろいろなバイトを経験した中で様々な人と関わってきたが、初対面の相手にこんなにも警戒心を抱いたのは初めてだ。触られたのが大事なライターだからというのもあるが、やはり一番はあの嘘くさい笑顔だろう。
 初めて安室とシフトを同じくしたその日はとくにトラブルもなく順調に過ぎていった。話に聞くように安室透という男の仕事振りは文句の付けようのないものだった。メニューは全て覚えているし、常連の客がよく注文する品もすでに把握していた。コーヒーのお代わりが必要そうな客がいれば、さり気なく声をかけ二言三言談笑しコーヒーを注いだ。料理に関しても、もしかしたら梓より上手いかもしれないと思ったほどだ。本当に何も言うことはないくらいどんな行動をするにも一切の無駄がなかった。

「梓さんから君の淹れたコーヒーはとても美味しいと伺ったのですが、よければ僕にも教えていただけませんか?」

 言い方を変えれば隙がない。そのせいもあってか時折ある教えを請うような態度はどこか計算されたもののように感じてしまう。それともただ自分が捻くれた性格をしているからかと、名前は笑顔を向けてくる安室から視線を外した。

「あんたなんでここに来たの」

 それは単純な疑問だった。これほど優秀ならば普通にどこかいい会社にでも行けばいい。顔も良く、接客も十分すぎるほどだ。営業にでもなれば売上トップだって狙えるのではないだろうか。現に、まともな返事もしないまま自分の疑問を投げかける名前に対し、安室は嫌な顔すらしていない。

「それはもちろんお金に困っているから、ですかね」
「その歳でバイト生活かよ。お気の毒に」
「誤解しているようですが、僕は私立探偵をやっていましてね。探偵業の合間にこうしてバイトをしているんですよ」
「うわ……」

 探偵という単語に顔を顰めたのは無理もないこと。名前はすでに探偵を名乗る人物たちと接点があるからだ。とくに見た目が小学生になってしまった高校生には何かと気苦労をしている。彼らと関わって学んだことがあるとすれば、それは探偵とは事件に飛び込むこともあれば事件を呼び寄せることもあるということ。果たして名前がそれに巻き込まれたのはどれほどあっただろうか。一つ言えるのは考えるのも億劫になるほどの数、だ。だからこそ、その厄介さは身に沁みて知っている。
 そういえば、と思い出すのは数日前のこと。コナンからとある事件で探偵を名乗る男の話を聞いたことがあった。名前は忘れてしまったが、少し引っかかる。妙にタイミングがいいと思ったのだ。それに探偵といえばここポアロの上の階には毛利探偵事務所がある。建物の外からでも一目で分かるから知らぬ存ぜぬは通用しない。安室がこの場所を選んで来たのには何か理由があるのではないか。そう思い、隣に立つ男を見ると和かな笑顔を返された。

「毛利先生に弟子入りしようかと思いましてね」
「……何も聞いてない」
「知りたそうな顔をしていたので」

 人当たりの良い笑顔を浮かべするりと土足で踏み込まれたような感覚がして、気持ち悪くなった。本能的にこの男に近づいてはいけないと感じたのかもしれない。

「別にあんたのことなんて知りたくもねぇよ」

 眉を寄せて吐き捨てるように言えば、意外にも安室は驚いた顔を表した。何故だかその表情だけは作られたものではないように感じたがきっと気のせいだろう。

「そういった反応をされるのは随分と久しぶりです」
「万人に好かれる人間なんていない。いくら良いツラしててもな」
「ありがとうございます」
「誉めてねぇ」
「解っていますよ。ですが、これが僕の顔なので変えることは難しいですね」

 そう言って今度は困ったように笑顔を浮かべる安室からそっと視線を逸らした。難しい。そう、難しいものだ。一度思ってしまえば拭うことはとても困難である。安室透という男の正体を知るまで、名前にはその表情の全てが作り物のように見えていた。


 さて結論を言ってしまえば、当時の名前はまだ安室透をそこまで嫌ってはいなかった。できれば関わりたくない胡散臭い男、という印象のほうが大きい。なのでコナンの問いに対する答えはNOである。

「じゃあいつからそんなに?」
「いつからってそりゃあ……」
「あー……」
「「ベルツリー急行」」

 そう。大きなきっかけは豪華列車ベルツリー急行で起こった組織との一件だ。今でこそ安室の正体が公安の人間だと解ってはいるが、それはそれとして哀を危険に晒そうとした事実が消えることはない。つまり、名前の安室透に対する第一印象はそこまで悪くなかったが、その後の行動に対する評価はすこぶる悪いということになる。
 安室との出会いはどこにでもある、ありふれてた普通の出会いだった。だからこそ嫌うことだってできたのかもしれない。




リクエスト内容:コナン夢の夢主と安室さんのファーストコンタクト。
リクエストありがとうございました。