※高校二年生の時の話。オリキャラのみです。
日曜日。
母親に小遣いをねだったら「遊ぶお金は自分で稼ぎなさい」と突き放されカラオケ店でバイトを始めることにした。
高校に入学したらバイトでもしてみたいなと少なからず夢見ていたから緊張にワクワク感が混じってなんだか気持ち悪くなってきた。
吐きそう。
「じゃあ苗字くん、あとはよろしくね」
店長から軽い説明を受けた後、教育係だと紹介された苗字名前という人は無愛想で少し怖い人だった。
見下される目は冷めきっていて知らずのうちに背筋が伸びる。
大丈夫だろうか。このバイトは続けられるだろうか。この人に苛められたりしないだろうか。ぐるぐると頭を駆け巡る不安に胃がツキンと痛んだ。
レジの打ち方やオーダーの電話がきた時の対応、全て一度で理解しようと懸命に聞くが全くと言っていいほど頭に残らなかった。
さっきの説明をもう一度お願いします、なんて言ったら怒るだろうか。怖いな。
不安と焦燥が伸し掛かりその重さに耐え切れず店の廊下の真ん中でしゃがみ込んで、せり上がる嘔吐感に咄嗟に両手で口元を覆うと浮遊感に襲われる。
勢いに目を固く瞑っていると何度かドアの開く音がして、それから浮遊感がなくなった。
「吐け」
命令的な口調とは裏腹に背中を撫でる手が優しく、俺は目の前の便器に不安を全部ぶちまけた。
あぁ、終わった。最悪だ。
月曜日。
昨日、あんなことがあってからバイト先に顔を出すのが嫌だったけどスタッフルームで会った苗字さんは何事もなかったかのような態度だった。
とりあえず昨日のことを謝ると「お前なんか悪いことしたの?」と言われてしまい暫しの沈黙のあとぎこちなくではあるがお礼を言った。
苗字さんは別に誰だってああするだろって言うけれど俺には無理だ。友達が急に吐きそうになっても「おい大丈夫かよ」なんて言葉ばかりできっと手を差し伸べることはできない。
汚れた便器を掃除して、濡れたシャツの代わりを貸してくれるなんて、多分、誰にだってできることじゃない。
「説明すっから分からなかったら聞けよ」
「は、はい!」
人を拒絶するようなオーラを纏わせながら、それでも苗字さんの説明は分かりやすくて丁寧だ。
初対面で怖い人だと思ってしまったことを心の中で謝りながら見様見真似で仕事に取り組むも、客前ではなるべく笑顔でいろと仏頂面で言われそこだけは真似してはいけないのだと学んだ。
まだ一度も苗字さんの笑った姿を見たことがないせいか想像ができない。この人はどんな風に笑うのだろうか。
他のスタッフの人にも聞いてみたが誰も笑ったとこは見たことがないそうだ。そもそもあまり人と関わろうとしないらしい。
まだ会ってから二日目だし仕方がないけど、確かに仕事以外の話は俺たちの間にはない。
もう少しだけ仲良くなりたいと言ったら笑ってくれるだろうか。
笑ってくれたら、嬉しいな。
火曜日。
今日はバイトがない。放課後の学校で友達と話が盛り上がってしまい帰りが遅くなってしまった。
一人歩く帰り道、ふと耳に人が叫ぶような声が聞こえて立ち止まる。声のする方へと歩いていくとそれが怒号だと分かる。
こっそりと路地裏を覗いてみると不良同士が喧嘩をしており見つかって巻き込まれないうちにその場を去ろうとするがなかなか目が離せない。
怖いもの見たさ、というよりも好奇心が勝っただけだ。口喧嘩や軽い衝突は見たことあるが不良同士の喧嘩というのは初めて見る。
この辺りでよく聞く問題児ばかり集まると有名な鈴蘭の生徒だろうか。俺の高校の生徒でも何人か絡まれたことがあるそうで、先生から注意しろと言われたことがあるのを思い出す。
躊躇なく拳を振るい、路地裏に転がる古い自転車を投げ飛ばし、額や鼻から血が流れるのもお構いなしに突っ込んでいく勢いに知らずのうちに身を引いた。
もしバレたら俺もあんな風に殴られてしまうのだろうか。そう思うと心臓の音がうるさくなった。
「──お前、なにやってんだ」
突然後ろから声をかけられビクリと肩を震わせて勢いよく振り向くとそこには学ラン姿の苗字さんが立っていた。
あまりに驚きすぎて声が出ない俺の後ろに視線を移した苗字さんはすぐに俺の手を引いて路地裏を抜ける。大通りに出たところで手を離され「ガキはさっさと帰れ」と強く背中を押された。
未だに心臓はバクバクと落ち着かなく急ぎ足で家路につく。ガキだなんて、苗字さんだって高校生じゃないか。自分とは一つしか違わない。
あの人、あんなところでなにをしていたんだろう。俺と同じように興味本位で覗きに来ていたのだろうか。
あれ、そういえば苗字さんが着ていた学ランってあの不良たちと同じ制服じゃなかったか?
水曜日。
バイト先のカラオケ店に向かうとスタッフ専用の裏口の前で苗字さんが煙草を吸っていた。え?この人未成年、だよな。
頬に少しだけ赤みを帯びているように見え、ふと昨日のことを思い出す。もしかしたらこの人も不良なのかもしれない。
あの後振り返ることなく家に帰った俺には苗字さんが喧嘩の輪に入って行ったのかそうじゃないのかは分からないが、ひどい怪我はしていないみたいでなぜか安心した。
苗字さんは俺が今まで会ったことのないタイプの人間だ。たった一つしか歳は変わらないのにやけに大人っぽい、というか雰囲気が高校生じゃない。
煙草を吸う姿だって、なんだか、カッコよく見える。伏し目がちに吸った煙を吐き出す横顔が、綺麗だ。
「……おいしいですか?」
「まずいよ」
小さく漏れた俺の呟きを拾った苗字さんの返事は迷いがなく早かった。
てっきり突っ立ってないで早く仕事しろとでも言われるのではないかと思っていたが、そういえばバイトを始めた初日からこの人に仕事を急かされるようなことされていない。
優しいのか、それともやはり人と関わりたくないだけなのか。
まずいのに煙草吸うんですね。その言葉は、ここではないどこかを、俺じゃない誰かを見ている陰った瞳を前に喉元を通る前に飲み込んだ。
怖くて、強い、そんな人だと思っていたのにどうしてこんなにも脆く崩れてしまいそうに見えるのだろうか。
思わず手を差し伸べてどこにも行かないように掴んでしまいそうになるこの感情は、一体なんなんだ。
木曜日。
バイトが終わり賑やかな夜の街を歩いていると今日はシフトが入っていなかった苗字さんの姿を見つけた。
賑やかなところはあまり好まないように感じたけれどそうでもないのか? と思いながら、声をかけようかどうか迷う。
別に声をかけるほど仲良くなっているわけではないけれどバイトでお世話になっていることだし挨拶だけでも、なんて無理矢理に理由をつけて一人歩くその背中を追っていく。
バイト先以外で会ったのは一度だけ。普段苗字さんがなにをしているのか興味がないと言えば嘘になる。
少しずつ近づいていくその背中に声をかけようとした時、苗字さんがスーツを着た男に歩み寄りなにやら言葉を交わした後二人は並んで歩き出した。
友達にしては歳が離れすぎているように見えるし、顔の整った所謂イケメンの部類に入る男が苗字さんに向ける視線がどうにも気持ち悪い。
どんな関係なんだろう。気になって仕方がないのでこのまま後を追うことにした。
繁華街を抜けて暫く、二人が入って行ったのはホテルだった。それがただのビジネスホテルなのか如何わしいホテルなのか、判断ができないほど俺は困惑している。
だってあの苗字さんが男の人と二人だけでホテルに入ったんだ。ひどくショックを受けたような気さえした。
それから走って家に帰り母親の声に返事もすることなく部屋に逃げ込んでベッドに突っ伏す。
なんだかとても、泣きたくなって涙が溢れた。
金曜日。
学校を休んだ。
仮病じゃないかと母親に疑われたが熱を測ったらなんと37度を超えていて、大人しくベッドへ横になる。
目尻がヒリヒリしているからきっと腫れているに違いない。冷えピタと一緒に濡れたタオルを渡されたから母親も気付いているようだ。
今日はバイトがない。
ホッとする一方で昨日の真意を確かめられないことに焦りが生まれる。
もしかしたら自分が見たのは本当は苗字さんじゃなかったのかもしれない。似ている人だったのかも。
あの時苗字さんの隣を歩いていたのが女の人だったら納得できたかな。すげーなぁ大人だなぁなんて無邪気に笑えたのかな。
なんで俺、こんなに悩んでんだろ。なんで泣いてんだろ。
苗字さんとは出会ったばかりだというのに。あの人のこと、なにも知らないのに。
「なんで俺……あの人のことばっか考てんだよっ……」
熱に浮かされた頭で何度も何度も繰り返し自問するが、答えを見つけ出す前に意識は眠りに落ちていった。
土曜日。
間抜けにも口をぽかんと開けて絶句する俺を前に苗字さんはいつも通りに仕事を続けた。ただいつもと違うのは両手の拳には痛々しい生傷があり頬には湿布が貼られていること。
脳裏では数日前の疑問と苗字さんが繋がった。やっぱこの人も不良だったのか。って、違う、今はそんなことじゃない。
スタッフルームで出会い頭に教育係が変わることを告げられた。当然のことだけどなぜと聞いた俺に対して苗字さんはバイトをやめると答えたのだ。
突然すぎる別れの日を迎えてしまい仕事に身が入らずミスを繰り返す俺の尻拭いは全て苗字さんが請け負ってくれて、何度も頭を下げた。
シフトを終えた苗字さんを追い裏口へ向かうも最後の最後まで迷惑をかけてしまったことに顔を上げられず俯きながら歯を食い縛る。
なにか言わなきゃ。ここで最後なんて嫌だ。繋がりが消えてしまうのは、嫌だ。でも何を言えばいい?
「あの、苗字さん……俺……俺っ」
言い淀んでいるとあの日背中を擦ってくれた優しい手に頭を軽く撫でられ顔を上げた。目を少し細め器用にも口端の片方を釣り上げて笑う苗字さんが俺を見下ろしている。
「年下には興味ねぇから。俺を追うなよ」
初めて見た苗字さんの笑った表情に、俺は素直に喜べない。
バイトを始めた日から、いや、苗字さんと出会った日からずっと落ち着かない毎日だった。特別な毎日だった。
その理由を遠ざかる背中に結局何も言えずにただ目で追うことしかできなかった俺はようやく理解したのだ。
最初で最後に見た苗字さんの笑った表情は、挑発的に、しかし優しくも見えたその表情を、俺はきっと忘れないだろう。