cravate04


 ────俺たち付き合ってんだよ。
 あれはその場しのぎのための嘘だ。公安刑事との関わりが安室に知られてしまったから面倒なことになるくらいならと咄嗟に吐いた虚言。顔の表面を偽りで取り繕っているあの男が嫌いだから風見を贔屓目に見てしまっている節もないわけではない。情が湧いて庇ってしまったのだろう。
 信憑性を上げるためにデートをして、キスをした。別にそこまでする必要はなかったはずなのに。簡単なことでいい。手をつなぐとか、抱きしめるとか、ただ笑い合うだけでも充分だ。けれど、してしまった。相手が記憶に強く残るあの人と同じ警察官だからなのか。本当にそれだけの理由でキスまでしたのか。自分自身が一番自分の行動を理解できていなかった。だから理由を、せめて言い訳を探してみる。
 気まぐれに淹れたコーヒーを飲んで美味しいと言う姿が、子供なりに懸命に作ったご飯を食べて美味いと言ってくれたあの人と重なった?
 まるで壊れ物を扱うように優しく頭を撫でる温もりが、寂しさと孤独に飲み込まれそうになった時に差し伸べてくれたあの人の手を思い起こさせた?
 でもあの人じゃない。どこも似ていない。風見は堅物で真面目すぎる。なにもかもが正反対だ。だから本当なら窮屈なはずなのに、一緒に話して、隣にいることを居心地がいいと感じてしまった自分がそこにいた。お礼としてあげたネクタイをしてくれていて嬉しいと喜んでいる自分がいた。
 あぁ。でもこれは間違っている。決してあの人を忘れることはない。あの人の代わりなんて、どこにもいない。
 そこで思考の海にどっぷりと浸かっていた意識が急に現実へと引き戻されて名前は口元を歪めた。

「なんで俺、あの人と比べてるんだ……」

 ポツリと頬に雨粒が落ちてくる。見上げた空はまるで己の心を映し出しているかのような薄暗い曇天だった。
 やがて雨粒はいくつも空から降ってきて、そういえば今日は雨だから傘を持っていけと阿笠邸を出る前に哀に言われたような気がする。話半分にしか聞いていなかったから生憎と持ち合わせていない。それに今更濡れたところですでに制服は泥まみれで汚れていた。周囲を見渡せば同じように泥と血で制服を汚した数人の生徒がグラウンドに倒れている。珍しく喧嘩を売ってみたがダメだった、と胸の内で呟いて名前は校門の方へと歩き出した。
 あの人を思い出して感傷に浸るのは命日に墓の前でだけと決めていた。けれど今日はあの人の誕生日で、最近なにかと面影がちらついて、記憶の奥に大事にしまっていた想い出が浮かんでは失った日の苦しみが蘇る。虚しさと寂しさに押しつぶされるのが嫌で、頭を空っぽにしたくてどうしようもなくなった時は喧嘩に明け暮れてあの人との日々を振り払う。それをできるのが鈴蘭だった。
 けれど、なぜだか今日はずっと頭の中に残っている。まるで目を逸らすなと言われているみたいだ。今すぐにでも目的地もないまま走り出したくなるが運の悪いことにバイクはメンテ中だった。

「ほんと、ツイてねぇな」

 一人になりたくて今だけは誰かがいる家には帰りたくなかった。
 当てもなく歩いていると他校の生徒に絡まれてまた喧嘩して、巡回していた交番の口煩い警察官には説教をされ、気付けば外灯には明かりが灯っていた。仕事帰りのサラリーマンや部活終わりの学生たちが雨に濡れた名前にちらりと伺うように視線を向けては素通りしていく。誰もが面倒事には関わりたくない。ここで声を掛けてくるのなんて本当の物好きか、ただのお人好しのどちらかだろう。
 自分でもおかしいと理解している。関わるべきじゃなかったと後悔したいくらいだ。こんなにも悩んで、辛い過去を嫌でも思い出してしまうくらいなら出会うべきじゃなかった。

「苗字」

 雨音と雑踏に混ざって聞こえてきた自分を呼ぶ声に行く場所もなく歩んでいた足が止まる。無視をすればいいのに声を聞いたら、顔を見たら、期待が生まれた。なんて愚かなのだろうか。この手から離れていってしまうと分かっているのに、必死に伸ばそうとしてしまう自分に呆れるしかない。



 その日は夕方から雨が降り続いていた。
 風見が仕事を終えたのは陽も沈み夜の街並みに灯りが点き始めた頃だ。急な呼び出しでもない限り今夜はこのままゆっくりできると自宅まで車を走らせていた。赤信号で止まり歩道を行き交う傘を差す人々を何気なく眺める。あの男性は傘を差すのが上手くなくて肩が濡れていて、あっちの二人組の女性は荷物から察するに買い物の帰りだろう。と、仕事柄つい癖で観察してしまう。
 そしてその中から仮初の恋人となった青年を見つけたのは偶然だった。一人だけ傘も差さずに歩いている。車道で信号待ちをしているこちらの車には気付いていないのかそのまま横を素通りしていく。少しだけ俯き気味な表情が雨に濡れた窓越しに見えて思わず眉を寄せた。声をかけるべきだったかと悩むが信号が青へと変わってしまいアクセルを踏んだ。
 走り出して見えないと解っていてもバックミラーを確認してしまう。放っておくべきだろうか。相手はただの高校生だ。これ以上干渉しすぎてもお互いにメリットがあるわけでもなく、むしろ偽りの関係を複雑にしてしまうだけ。そう解っているのに僅かに見えた雨に濡れた表情が、あの日の水族館での彼を思い出させた。まるで迷子の子供だ。
 風見は今しがた走った道路をもう一度通るために次の信号を左折した。言い訳はしない。素直に一人にさせられないと思っただけだ。

「苗字」

 再び同じ道路に戻ってくれば歩道を行く傘を差していない彼を見つけるのは容易かった。路肩に車を寄せて窓を開け声をかければ名前がゆっくりと振り返る。生意気だが端正な顔立ちをしていると会うたびに思っていたその綺麗な顔にはいくつもの傷があり、唇も切れているのか血が固まった痕があった。

「その怪我はどうしたんだ!?」

 よくよく観察してみれば着ている制服も汚れていて只事ではないと気付く。なにか事件にでも巻き込まれたのか。そう懸念して問えばただ一言「喧嘩」とだけ返された。不良校と有名な高校は喧嘩も日常茶飯事だというのだろうか。例えそうだとしても今の彼から感じる危うさはおそらくそれとは関係がない。なぜだか不思議とそう思えた。

「傘は?」
「忘れた」

 いつもの無愛想、ではなくどうでもいいというような声音に溜め息を吐いて助手席に置いてある荷物を後ろの座席に移動させた。その様子を名前は不思議そうに見ている。雨は止む気配を見せず降り続き開いた窓から車内を濡らすが、それを気にすることなく風見は再び窓から少しだけ顔を出した。

「送っていく」
「……俺濡れてるし」
「気にする必要はない」
「……あんた仕事は」
「今日はもう終わった。でなきゃ君を送っていくなんて言わないんだから早く乗ってくれ」

 多少押し気味に言えば名前は渋々といった態度で助手席に乗り込んだ。運転席側の窓を閉めて視線を向けると、濡らす箇所を少なくしようとしているのか背凭れには触れず少し前にかがむようにして座っていた。

「気にしなくていいと言っただろう」
「うん」

 口数が少なくいつもと雰囲気も違う様子に、やはりなにかあったのだろうかと疑問を抱きながら車を発進させる。車内は沈黙に包まれていて信号で止まる度に風見は助手席に座る名前の横顔を伺った。気にするなと伝えたのに彼の体勢は変わらず、ぼんやりと組まれた両手を眺めている。それとも何も見ようとしていないのか。どう接すのが正解なのか分からない。
 ふと、名前の頬を伝う滴がまるで泣いているように見えてしまいハンドルから手を放して指先で拭うように触れる。伝わる体温の冷たさにぴたりと手が止まった。

「いつから、雨の中にいたんだ?」

 想定していた以上に柔らかい声音になったと自覚しながら返事を待つが返ってくる言葉はない。頬から手を遠ざけてハンドルを握れば信号が青に変わりアクセルをゆっくりと踏み込んでいった。次第に強まる雨にフロントガラスを滑るワイパーが忙しなく動く。

「なぁ。あんたはどこにも行かないよな?」

 それは雨音にかき消されてしまいそうなほど弱々しく呟くような声で、意識していなければ聞き逃してしまいそうなものだったが風見の耳にはしっかりと届いた。どういう意図があってその問いを口にしているのかが解らず、ちらりと視線を向けてみるが名前の瞳はずっと自分の手を見つめていて表情は変わらない。

「俺を置いていったりしないよな?」

 独り言のように口から零れた問いかけに水族館で聞いた彼の言葉が頭を過る。みんなどこかへ行ってしまった、と。あの時と同じで今の彼からは誰かに置いて行かれてしまった小さな子供のような孤独を感じた。
 前方の信号が赤に変わったのを視認してブレーキを踏み停止してから助手席に顔を向ければ、不安の色に染まった瞳が風見を見つめていた。

「……死んだり、しないよな」

 確かな重みを持った縋るような声にどう返事をしていいのか答えが見つからない。何と言えば正解で彼がどんな言葉を待っているのか、それを知れるほどまだ相手を理解できてはいなかった。困惑が顔に出ていたのか、眉尻を下げ口角を上げた名前は顔を背けて窓の外へと視線を向けてしまう。自分では笑顔を浮かべたつもりだったのだろう。余裕のある生意気な顔をするつもりだったのだろう。真逆だ。そんな泣き出しそうな笑みを浮かべられてしまえばもう放っておくことはできない。
 風見はウインカーを出すと信号が変わると同時に車の進行方向を変えた。家に送り届けてそのまま別れるのがきっと己の立場ならば正しい行動だ。だとしても、突き放すことなんてできはしなかった。

「どこ行くの?」
「私の家だ」

 同意のない目的地の変更だったが名前は異論も唱えずただ一度きり運転する風見の横顔に視線を向けただけで、すぐに見慣れぬ景色へ変わっていく窓の外を見つめるのだった。



 一人暮らし向けのマンションに到着して地下駐車場に車を停めた風見は、濡れた座席シートを申し訳なさそうに見る名前を連れてエレベーターに乗り込んだ。ここまで来たのだ逃げるはずもないと解っていながらも引いた手はやはり冷え切っていた。あのまま放っておいたらどこかで倒れてしまっていたんじゃないかと一抹の不安が込み上げて掴んだ手に少しだけ力を込める。他人と呼ぶほど遠くなく、知人と称すほど近くはない。けれど見て見ぬふりができないほどに距離は縮まっていた。
 エレベーターから部屋までの道のりで他の住民と鉢合わせにならなかったのは幸運だった。ずぶ濡れの学生を連れているところを見られては要らぬ誤解を生むし説明をする時間も惜しい。玄関を開けて中へと入るが名前はドアの前から動こうとはしなかった。

「どうした?」
「濡れる」
「後で拭けば問題ないから上がって。風呂を貸すから来なさい」

 本当にあの煙草を吸って人を揶揄うような青年なのかと疑いたくなるほどの謙虚さに眉尻を下げながら仕方ないと言ったように笑みを浮かべた。風邪を引くから、と再度腕を引いてからドアを閉めて冷え切っている頬へと手を寄せる。殴られた痕を上から指でひと撫ですれば名前は僅かに頷いて大人しく洗面所へと案内された。

「服は洗濯機に入れて構わない。代わりの着替えは私のを持ってくるからそれを着てくれ」

 ん、と小さな返事を聞いてから風見は洗面所のドアを閉めてリビングへ向かう。仕舞ってあった救急箱を用意し、濡れた床を軽く拭き、クローゼットから比較的ラフな洋服を選んでからもう一度洗面所へと戻った。軽くノックすれば返事はなく代わりにシャワーの音が聞こえて静かにドアを開ける。床を拭いたタオルを洗濯機に入れて汚れた服と一緒に洗うためスイッチを押し、着替え用の服は綺麗なバスタオルと一緒にランドリーワゴンの上に置いた。
 そうしてリビングに戻ると風見はスーツのジャケットを脱いで無造作にソファへ放り投げると自身もそこへ腰を下ろした。ネクタイを緩めながら深く息を吐いてスマホをチェックする。とくに仕事の連絡は来ていないようだ。
 持ち帰っていた資料に目を通しながら待っているとリビングのドアが開かれた音がして顔を上げる。こちらの様子を伺うようにして立っている名前を呼び寄せてソファに座らせた。少し大きかった服から覗く腕や脚には喧嘩で負った傷があり、その痛々しい痣に思わず眉を寄せながら風見は用意していた救急箱を手に彼の目の前に膝を着く。
 消毒液をガーゼに染み込ませ慣れた手つきで傷口に当てられる様子をじっと眺めていた名前が躊躇いがちに口を開いた。

「……ありがとう」

 風見は治療している手を止めて顔を上げた。シャワーを浴びたおかげか名前の頬は少し赤みを帯びていて、どこを見ているのか分からなかった瞳はしっかりとこちらに向けられている。その視線がゆっくりとガーゼの添えられた傷口へと降りていった。

「手馴れてる」
「仕事上、な」
「お持ち帰りするのも?」
「っ、誤解を招く言い方をするな」
「冗談だよ」

 少しずついつもの調子に戻ってきているのか人を揶揄うように目を細める名前に心の内で安堵する。やはりこういう表情のほうが彼らしい。下から見上げるようにしているとまだ彼の髪が湿っていることに気付く。そういえばドライヤーの場所は教えていなかった。男にしては長めの髪から滴る水が血色のいい首元を焦らすように垂れていくのを目で追っていると突然襲い掛かってきた後ろめたい感情に風見は慌てて視線を落とした。
 一度ゆっくり呼吸をし手当てに集中するため名前の手を持ち上げる。触れた肌は若々しく滑らかであるのに、手背のとくに関節部分に摩擦によるひどい傷痕があった。

「せっかく綺麗な手をしているんだから傷つけるんじゃない」

 一瞬の間を置いて風見は自分の口から出た台詞にハッとした。綺麗な手だなんてまるで女性に対して口説いているようではないか。男が言われても嬉しいはずがない。ましてや相手は粗暴な不良高校生だ。そういうことは女に言った方がいいと返されてしまう。挙句に伝える相手がいないんじゃしょうがない、などと馬鹿にされるに決まっている。
 しかしその予想は大きく外れていた。

「あんたの手は、大きいな」

 呟くようにそう言って手を持ち上げている風見の掌を名前が指で撫でる。皮膚に触れる指の動きに以前ネクタイを撫でられたあの手つきを思い出してしまい息を呑んだ。こちらの戸惑いなどお構いなしに、なおも撫でられる感触にくすぐったさと同時に劣情を煽り立てられた。視線を上げると薄く開いた唇に血が滲んでいるのが目に留まる。シャワーを浴びて瘡蓋が剥がれてしまったのだろう。そこもちゃんと手当てしてやらないといけないな、といつの間にか持っていたガーゼは床に落ちていて伸ばした手はまだ火照っている顔に触れた。頬にも米神にも唇にも、こんなにも傷を作ってくるなんてただの喧嘩ではないだろう。後でしっかりと言い聞かせてやらないと────

「っ……いてぇよ」

 すぐ近くで聞こえた詰まった声に思考が止まった。瞬きをすれば焦点が調整され間近にある名前の顔がクリアに見える。舌の上には鉄の味が広がり、無意識のうちに血の滲む唇を舐めていたのだと風見は自覚した。彼の吐息が乾いた唇に当たる。

「ぁ、すまない!」

 慌てて顔を離して身を引こうとするがネクタイを掴まれて中途半端な体勢で止まってしまう。

「ち、違うんだ! 僕は、そんなつもりはなくてっ」
「あんた、素は『僕』なんだ」

 不意にぐいっとネクタイを強く引っ張られ抵抗できずソファに片手をつく。視界に入れると意識してしまい滲んだ血と舐めたことで濡れた唇から目が離せなかった。そしてゆっくりと、じわじわと、焦らせるように顔が近づいていく。

「うん、いいね。なぁ……もう一回」

 確かめるように重なった唇を避けることができなかった。
 何度も触れるだけの口付けを繰り返す名前が手当てのためにと軽く掴まれていた手で指を絡めるように風見の手を握る。それを握り返してやれば誘うように唇を舐められて動揺で顔を離した。けれども伏し目がちに吐息を漏らす彼を前にどうしようもない劣情が溢れてしまい、乾ききっていない髪を撫でそのまま後ろ頭に手を添えて引き寄せる。今度は自分の意思でその唇を塞いだ。
 学生時代は恋愛下手であったし警察官となってからは仕事を優先するあまり長続きはしなかったがそれなりの恋愛経験はしてきた。キスもしたことはある。その先も。だが、これほどにも熱に引き寄せられることはなかった。

「っ、はぁ……苗字、ん……」
「んっ……ふ、……は、んン……」

 柔らかな感触に脳が麻痺してしまいそうだ。時折聞こえてくる鼻に抜ける声や舌で上顎を撫でると絡めた指が震えるように握ってくる反応に身体が熱くなる。いつの間にかソファに乗り上げるように覆いかぶさっていた。唇を離し、ソファの背もたれに頭を預けるように風見を見上げている名前の晒された首元に口を寄せる。服の下に手を差し込み風呂上りのしっとりとした肌に触れると指先が冷たかったのか声を漏らして小さく身体を震わせたのが伝わってきた。その姿を可愛らしく思いながら首筋に口付けを落とす。
 またネクタイを引っ張られる感覚がして顔を上げると熱の籠った瞳と目が合った。

「足りない」

 そう言うと軽く頭を上げて唇を合わせてきて、触れるか触れないかのギリギリの距離で留まった。じれったく、もどかしい距離だ。

「……もっと、こっちがいい」

 掠れ気味の囁くような声に風見はくらりと眩暈を起こしそうになった。その感覚に舌打ちをしかけ、誤魔化すように再び誘いをかける唇に噛みつく。どちらの唾液で濡れているのかもう解らないくらいに舌を絡ませ、もっと、もっと、とせがむ名前の手を改めて強く握りしめた。
 ネクタイを掴んでいた名前の手がするりと離れて覆いかぶさる背中に伸ばされた時、リビングに着信音が鳴り響く。その音を聞いて素早く身体を起こした風見はソファから下りてテーブルに置かれたスマホを手に取った。

「はい、風見です──」

 名前に背を向けて電話に出ると洗面所のほうから洗濯終了の電子音が聞こえて、そのすぐ後に背後でリビングを出ていく気配を感じとる。通話相手は同じ班の同僚で急ぎ応援に来て欲しいといった内容だった。こういったことは珍しいことじゃない。了承の旨を伝えて通話を切り、ソファの上に放置されていたジャケットを着直すと足早に洗面所へと向かう。
 電気も点いていない廊下に洗面所からの明かりが漏れていた。中途半端に開かれたままのドアに手をかけて中を覗けば、風見の貸した服を脱ぎ制服に腕を通している名前がいて思わず眉尻を下げる。振り返った彼はこちらを一見すると息を吐くように小さく笑った。諦めたような、投げ捨てるような笑みだった。

「帰る」

 それだけを言うと風見を押し退けて名前は玄関へと向かって行く。

「待て、送っていく」
「いいよ」

 慌てて追いかけて声をかけるも素っ気なく返されてしまいこちらを見向きもしない。先ほどとは打って変わった態度に戸惑いを覚えつつ、一体なにがいけなかったのかと自分に問う。けれども答えは出てこない。当たり前だ。まだ彼を知っているわけじゃない。

「まだ雨が降ってるし、もう夜も遅い」
「構わねぇよ。あんた急いでるんだろ?」
「そうだが……、すぐに戻ってくる。待っていてくれたら後からでも送って──」
「待たねぇよ」

 濡れたままの靴に躊躇いもなく足を突っ込んで踵部分を踏んだまま名前が玄関のドアに手を掛ける。そしてようやくこちらを振り返った。

「待つのは、苦手なんだ」

 浮かべられた笑みと呼ぶには不器用な表情は車の中で見たものと同じで咄嗟に手を伸ばしてみたが恰好だけで終わってしまった。虚しく閉まるドアの音を耳に、その場に立ち止まったまま自分の掌を見下ろす。確かに知った温もりを風見は追いかけることもできず、振り払うように仕事へ向かった。