小さくなった風見


 心臓が大きく跳ね上がり苦しさに胸を押さえ首筋を冷や汗が流れた。
 荒い呼吸を繰り返すこと数分、いや本当はもっと時間はかかっていなかったかもしれない。
 ようやく痛みがなくなり呼吸が落ち着いた頃、目の前に立っている上司を見上げた。

「……え?」

 そう、見上げたのだ。
 自分よりも幾分背の低い上司を、首が痛くなるほど見上げたのだ。しかも視界がやけにボヤけている。
 ちょっと待て? 今さっき出した高い声は自分のものか?
 恐る恐る自分の体を見下ろすとやけに地面が近い。なによりぶかぶかのスーツに埋もれてまともに手も出せない状況である。
 なんだ、どういうことだ、なにがどうなっているんだ!?

「ふ、ふるやさん……これはいったい」

 自分の口から出る声は高く、まるで探偵と名乗る小学生の彼のようだ。
 もう一度上司の降谷を見上げれば驚いたように目を瞬かせ「まさか本当だったのか……」と不穏なことを呟いている。

「すまない風見。さっきお前に飲ませたのはなんかよく分からないが体が小さくなる薬なんだ」
「なんてものを飲ませるんですかあなたは!」

 しかも”なんかよく分からない"ってなんですか!
 焦りで心臓がバクバクしている風見を他所に真面目な顔つきになった降谷は膝を曲げて視線を近づけた。

「聞け風見」
「は、はい」

 現実離れした事態にも関わらずいつも通り冷静な態度の上司の姿に自然と風見も平静を取り戻していく。

「これは公安の極秘任務だ」

 ”極秘”任務。
 なぜか心がワクワクしてしまったのは体が子供になってしまったからだろう。きっとそうに違いない。
 なぜ薬を飲まされたのか、この薬はどこから持ってきたのか、細かい説明はなかったがそれはいつものことなので気にしていても仕方がない。
 薬の効果を知るために子供の姿のまま生活し体にどんな影響があるか報告しろ、ということらしい。
 完全に人体実験であるが、今の風見にはその真実に辿り着くことは困難を極めていた。
 降谷に重大な仕事を託されている。そのことだけが風見の瞳をキラキラと輝かせていた。

「お前ならやり遂げられる。信じてるぞ!」
「っはい! まかせてください降谷さん!」

 かくして体が縮んでしまった風見裕也は効果が切れると予想される三日後までを子供の姿で過ごすこととなる。
 それも年下の恋人のもとで。


 度の合っていない眼鏡を外し、事前に用意されていた子供服に身を包んだ風見を連れ降谷が訪れたのはポアロだった。

「で? なんで俺なんだよ」

 注文したメロンソーダを飲みながら隣に座る上司とカウンターの向こうに立つ名前を見比べた。
 一方は爽やかな微笑みを浮かべ、一方は眉間にシワを寄せ不快そうな表情を浮かべている。
 それもそうだろう。急に子供を預かってくれと言われたら自分だって名前のように相手を訝しむ。
 ちなみに安室透の親戚の子という設定になっている。

「苗字くんは子供の面倒見がいいと伺ったので」
「誰から」
「風見です」
「っ!? ごほっ……」
「大丈夫かい?」

 なにが「大丈夫かい?」ですか! 全然大丈夫じゃないですよ!
 さりげなく責任転嫁をしようとする上司に飲んでいたメロンソーダが変なところに入って咽せてしまう。
 苦しさに少しばかり涙目になった風見がなんてこと言うんですかと言わんばかりに睨んでみるが、降谷はニコリと笑うだけでスルーされた。

「僕の事情は貴方もよくご存知でしょう?数日だけでいいのでお願いできませんか」
「断ったら?」
「そうですね……他にあてもありませんし誰もいない僕の部屋で過ごしてもらわなければいけませんね」

 風見としてはそれで一向に構わないのだが、ここで子供の姿になってしまった自分が口を出してもいいのだろうか。
 眉を寄せたまま洗い物をしている名前の口は閉じたままだ。
 子供になったからと言って年下の恋人に世話してもらうというのは、なんというかやはり恥ずかしいものでどうにか遠慮したい。
 やはりここは『一人で過ごす』一択なのでは!?

「あ、あの! ぼくは一人で、大丈夫、なので……」

 声を上げたはいいものの二人の視線が向けられだんだんと声量が小さくなってしまう。
 まずい、これじゃあただ強がっているだけの子供にしか見えないじゃないか。

「はぁ……分かったよ。面倒見りゃいいんだろ」

 水道の蛇口を閉めた名前が諦めたように息を吐き、心底嫌そうに降谷を見た。というよりも睨みつけたのほうが正しいだろうか。
 満足そうな表情をする降谷に、まさか自分が口を出すことで名前が断りきれないと分かった上で交渉していたのでは?
 やはり口を出すべきじゃなかったのかもしれない。
 用は済んだとばかりにポアロを出て行った降谷の後ろ姿を恨めしそうに見つめる風見の手元から空になったコップが抜かれる。

「同じのでいいか?」
「あ、はい……」

 新しいコップに注がれたメロンソーダと綺麗にカットされたケーキが乗せられた皿がカウンターに置かれた。

「バイト終わるまでそれ食って大人しく待ってろよ」
「あの、ぼくお金持ってない……です」
「気にするな。安室さんのバイト代から差っ引く」
「えっ」

 遠慮するなと目で促され、心の中で降谷に謝罪しながらケーキを一口含む。
 口一杯に広がるのはいつもより強く感じる甘味と仄かな酸味。どうやら味覚も子供のように敏感さを取り戻したらしい。
 目を輝かせながら小さな口でケーキを頬張る姿にどこか既視感を覚えながらも名前は頬を緩めたのだった。


 バイトを終えた名前に連れられやってきたのは米花デパートの子供服売り場。
 自然な流れで繋がれていた手を離され、野生動物を野に放つが如く「好きなの選べ」と背中を押される。
 選べと言われても、と戸惑いながら店の中を歩く。どれもこれも子供服だけあって派手で着慣れない色ばかりだ。
 なぜこんなことになったかと言えば事の発端は降谷にあるのだが、彼が用意した子供服は今着ている一着のみ。
 手ぶら状態の子供を見下ろした名前は、阿笠邸にあるのは哀が着る女の子服であること、コナンの服を借りるにしても身長が彼よりも高いことからサイズが合わないだろうと判断し買うことに決めた。

「どれにするんだ?」

 両手に服を持って難しい顔をする子供の目線に合わせるため膝を曲げる。
 年の頃は恐らく光彦達と変わらないだろう。それならばもう少し自己主張が強くても良さそうだがこの子供はずっと大人しい。
 むしろ初めて会う人に図々しくなれる少年探偵団に関わりすぎて感覚が麻痺してきたのだろうか。
 無意識に頭を押さえた名前を子供は心配そうに覗き込む。

「名前、さん……大丈夫ですか?」
「平気だ。それより俺の名前知ってたのか」
「え? ……あ! はい! ふ、じゃなかった……安室さんから聞きました」

 ふーんと興味なさそうにしながら子供が持っていた服を手に取り広げてみるがすぐに畳んで棚に戻し、別の棚からいくつか選んで子供に当ててみる。

「で? お前の名前は?」
「かざっ……」

 危うく本名を言いそうになった風見は慌てて口を閉ざした。
 不思議そうに見てくる名前から逃げるように視線を逸らし、必死に偽名を考える。
 以前降谷に連れられ野球をしに行った際は「飛田」と名乗ったがすでに風見の「かざ」まで口走ってしまったから誤魔化せるか怪しい。
 そうだ! 苗字じゃなくて名前でいけば誤魔化せるはず!

「飛田風祢ですっ」
「かざね?珍しい名前だな」

 しまった…っ! 確かに男じゃなくてまるで女の子のような名前じゃないか! なぜもっと考えなかったんだ風見裕也!
 俯いて己の愚かさに悔いていると不意に頭に重さを感じた。

「なんだどうした?」

 どうやらそれが落ち込んでいるように見えたらしい名前の手が優しく頭を撫でている。
 その柔らかい手つきと羞恥心から頬が熱くなっていく。

「い、いえ、女の子みたいな名前、ですよね」
「あー……別に風祢が男の名前でも悪くないだろ。そんな気にすんなよ」

 頭上から離れた手が少し名残惜しい。
 服はこれでいいか? といくつか広げられた洋服は子供らしさを残しつつもシンプルにデザインされたものだった。
 買ってもらう手前断るつもりはなく素直に頷くが、名前の見立てた服はやはりセンスがいいなと思う。
 デパートを出た後に手を差し出され、少し躊躇いながらもその手を握った。
 普段ならば気恥ずかしさで繋ぐことはない暖かい手にこうして素直に触れることができるのはきっと今の自分が子供だからだ。
 歩く歩幅も今の風見に合わせてゆっくりだ。彼が子供に好かれる理由がこういうところにもあるのだろう。


 招かれたのは阿笠邸ではなく隣の工藤邸であった。
 夕飯の準備をするから待っていろと言われ立派なソファに座って物珍しそうに部屋の中を見渡していると、先ほど玄関で出迎えてくれた居候の沖矢昴が目の前に立ちはだかる。
 しかも何も言わずに見下ろしてきて少々恐ろしい。

「あ、あの……なにか……?」
「ふむ」

 なんだ? なにを納得したんだこの人は。
 沖矢昴が赤井秀一ではないことは確認済みだが、それでもこの男は謎が多い。
 見上げた首がそろそろ限界を迎えそうな頃、キッチンからリビングを覗き込んだ名前が怪訝そうに沖矢を睨んだ。

「あんたなに子供怖がらせてんだ」
「安室さんが連れてきたという子供が気になりまして、つい。怖がらせてしまったようですね。すみません」

 僕は部屋にいるので何かあったら呼んでください、そう言い沖矢がリビングを去ったことで体の力が抜けた。
 どうやら緊張していたらしい。
 深くソファに身を沈めキッチンから漂う食欲を誘う匂いに腹の虫が鳴る。なんとも素直な体だ。
 阿笠邸に連れて行かれなかったのは子供達が集まってお泊まり会をしているようで、急遽工藤邸にお邪魔した次第である。
 キッチンを使う様子や電話しながら「客室一個借りるから」と部屋を行き来する名前の慣れた行動に工藤邸を訪れるのは少なくないのだと分かった。
 おまけに沖矢とは親しいようにも見え、体が元に戻ったらどういう関係なのか聞かなければならない。
 名前が工藤邸に来慣れてる、泊まり慣れているということは一つ屋根の下で二人っきりになったことがあるってことだろう?
 なにもないと分かっていても気になってしまうのは恋人として当然。
 何より沖矢昴は自分よりもルックスが遥かに良い。そりゃ不安にもなるさ。

 いつの間にか沈んでいた意識が浮上したのは浮遊感と暖かい体温が体に触れたからだ。
 一定のリズムで揺れる体と聞こえる音に階段を上っているのだと分かる。
 ガチャリと扉を開けた音の少し後、柔らかな感触の上に降ろされた。おそらくベッドだろう。
 夢と現実の境にいるような感覚の中薄く目を開くとベッドから離れようとする名前の後ろ姿が視界に入る。

「……ぁ」

 咄嗟に名前の服を掴んでしまったと気づいたのは彼がベッドの縁に座った振動が体に伝わってきたからだ。

「一人じゃ眠れないか?」

 声音がいつもより柔らかく向けられる瞳も優しげに細められているのがなんだかくすぐったくて、掴んでいた手をパッと離し布団に潜り込む。
 まるで小さい子に向けられるような、いや確かに今自分は子供だけれど、普段は見せない一面を見てしまった嬉しさと申し訳なさが同時に押し寄せてくる。

「家族と離れたら不安だよな」

 そんな声が聞こえ目元まで覆った布団をずらしちらりと名前を見上げた。
 何かを思い出しているのかどこか遠くを見るような瞳は何度か見たことがあり、風見は小さくなった手を布団から伸ばして名前の手を握る。
 こんな姿でなければ抱きしめて安心させてやれるのに、今の自分にはこれくらいしかできない。
 だが風見が小さくなった姿だと知らない名前は、風祢と名乗った子供が不安で手を伸ばしてきたようにしか見えなかった。
 重なったのは幼き日の妹。
 名前はベッドに横になり小さな体を抱きしめるように引き寄せた。

「こうやって心臓の音聞くとな、よく眠れるんだよ」

 予想していなかった名前の行動に胸が跳ねた風見だったが、触れた暖かい温もりから伝わる一定リズムの鼓動にだんだんと心が落ち着いてくる。
 普段彼を抱きしめることはあっても、こうして抱きしめられるのは稀だ。
 もしここで正体を明かしたら彼は焦るだろうか? それとも怒る? 羞恥で頬を染める、なんてことはまずないか。
 なんてことを考えていると先ほどまであった眠気がやってきて瞼がゆっくり閉じていく。
 腕の中にいる子供から寝息が聞こえた頃、体を起こそうとした名前はがっしりと小さな手に握られた服に気づき再びベッドに横になった。
 朝を迎えた時、恥ずかしさで顔を真っ赤に染めたのは名前にしがみ付くようにして目を覚ました風見であったことは容易に想像できよう。


 こうして降谷に騙される形で小さくなった風見の不安な1日は無事に過ぎたのであった。