cravate05


 気まずさを抱えていなかったわけではなかった。ふとした瞬間にあの雨の日のことを思い出しては無理矢理意識から遠ざけて後回しにしようと目を逸らす。けれどもそれでは問題は解決しない。一時の関係だと考えればここが潮時なのだろう。続かないことをお互いに理解していて始めた付き合いなのだから。それがまるで自分に言い聞かせているようだと気付いたのは最後に顔を合わせてから数週間ほど過ぎた頃だ。
 いい加減向き合わなければならないと上司の様子を伺うという理由を建前に連絡を取り呼び出した。だが、いざ目の前に現れると何と声を掛けていいのか迷ってしまう。気まずい沈黙が流れるかと思いきやその雰囲気はあっさりと相手から切り裂かれた。

「コーヒー、淹れてきたからあんたにやるよ」

 そう言って最早専用と化したタンブラーを差し出してくる名前があまりにもいつも通りの態度すぎて風見は呆気に取られてしまった。まるであの夜の出来事などなかったかのような振る舞いに頭の中がなかなか整理できない。気にかけているのは自分だけなのか。相手にとっては些細なことだったのか。まさか夢だとでもいうのか。いや、あの時見過ごせなかった気持ちも孤独を感じた瞳も、触れた熱だって紛れもなく現実。到底なかったことになどできない、既に記憶に刻まれてしまった時間だった。
 難しい表情を浮かべタンブラーを受け取らないままでいると、痺れを切らしたのか胸元に押し付けられる。

「いらねぇの?」
「っ、すまない」

 少しだけ上目になってこちらを見上げてくる名前からタンブラーを受け取った風見は脳裏にあの夜の光景が浮かんでしまい思わず額を抑えたくなった。意識しすぎているのだと自覚もしている。ただ、それが自分だけなのがどうも納得がいかない。バイクに寄りかかりスマホを弄りながら興味もなさそうにポアロでの安室の様子を話す青年の様子に顔を顰めずにはいられなかった。
 ────苗字名前には、大切な人に置いていかれた過去がある。二度と会うことの叶わない永遠の別れを告げた人がいた。その存在はきっと母親だけではない。何度か経験してしまっているのだと察したのはあの日雨にかき消されてしまいそうな声を聞いたから。あれはもうこの世にはいない者と比べているものではなく、純粋に風見がいなくなってしまうことを恐れているような声音に感じた。また大切な人を失ってしまうのではないかと。彼はそれを自覚しているのだろうか。期待してもいいのだろうか。
 と、そこまで考えて風見は手元のタンブラーに視線を落とした。そうだ期待している。年下の男、それも高校生に。大人ならば身を引いて諦めるべきだ。それが選択すべき正しい答えであり、この関係を終わりへと導く唯一の方法。それでいいはずなのにどうしても安全な道を行くことはできなかった。
 風見がそんなことを考えていると知らぬまま話を続ける名前の声はあの日のような儚さはなく至って普段通りのもの。知らずにいれば悩むことはなかった。けれど知ってしまったから、自分に向けられてしまったから、手を離してはいけないと応えてあげたいと思ってしまう。ここで突き放してしまえばいつか誰かに好意を抱いた時に同じ苦しみに囚われるだろう。そういう誰かに出会う度に繰り返す。それはあまりにも辛く厳しい未来だ。それならばいっそ、何度も苦しむくらいならばいっそのこと、その手をとってしまってもいいのではないか。
 ぐっとタンブラーを強く握ると手元に影が落ちた。

「なぁ聞いてんの?」

 気付けば風見の目の前には名前が立っており、その表情は不満を隠すことなく露わにしていた。

「き、聞いている」

 咄嗟にそう答えたものの思考に意識を割かれすぎていたせいで話しは全くと言っていいほど頭に入ってきてはいない。嘘を吐いたことを後ろめたく思うよりも前にそれを察した名前が視線を逸らして舌打ちをした。

「あんた、今日おかしいんじゃね」
「……君は、いつも通りだな」

 まるで相手を責めるようだと胸の内に留めておくつもりだったものが、あまりにも他人事のように振る舞う態度につい声にしてしまった。幾分か冷静さを取り戻した風見を前に、本人も自覚しているのか名前はバツの悪そうな表情を浮かべ後ろ髪をかくような仕草を見せて口を開いた。

「はぁ……あの時は迷惑かけた。もう平気だから、気にするなよ」

 しかし返されたその言葉に脳が冷やされるような感覚が風見を襲った。気にするなと確かに言った。あの雨の日からずっと考えて、悩んで、今こうしてようやく答えを出せそうだというのに名前はそれを必要ないと払拭しようとしている。少し前の自分であれば何も言わずにむしろありがたく受け入れたことだろう。お互いに二人で過ごした時間のことは忘れようと納得しただろう。笑ってしまいたくなるほどにもう手遅れなのだ。

「……無理だ」
「は?」
「気にするに、決まっているだろう」
「なんだよ、あんたも大人ならキスの一つや二つしたことあるだろ? そりゃ男とするのは嫌だったろうけど────」
「そっちのことじゃない」

 タンブラーを持っていない空いたほうの手で名前の頬に触れた風見は背けられたままの顔をそっと自分のほうへと向かせた。

「私は、君の過去になにがあったのか知らない」

 見つめ合った瞳が少しばかり揺れた気がして、安心させるように親指で頬を撫でると困ったように眉尻が下がる。

「出会ってからの君しか知らないんだ。それでも君が今、平気じゃないことは分かる」
「……んなことねぇよ、平気だって。仮にそうだとしてもあんたが俺を気にする理由なんて、ないだろ?」

 これ以上踏み込んでくれるなとでも言うような目をしていても、口角を上げて無理矢理取り繕うとしていても、その表情には隠せない不安が滲んでいた。きっと名前自身も察しているはずだ。風見に好意を抱かれていることを。気付いているはずだ。己も好意を抱いてしまっていることに。お互いに超えてはいけないラインをはみ出しているというのに、それを見ようとはせず、認めようとはせず気持ちに気付かないフリをしている。
 突き放すのは簡単だけれど風見にはもう迷いはなかった。

「苗字聞いてくれ。私は────」

 その時、続く言葉を遮るようにして二人の耳に破裂音が届いた。静かな夜に響いた腹の底を震わせるような音に周囲を見渡せばそう遠くはない場所から黒煙が上がっているのが見える。

「火事……いや、爆発か?」
「ッ……」
「様子を見てくるから少し待っていてくれ」

 瞬時に警察官としての顔に戻った風見は自分の発した単語に反応し顔を強張らせた名前に気付くことはなかった。触れていた頬から手を離しすぐさまスーツのポケットからスマホを取り出すと踵を返して歩き出す。だが一歩足を進めたところで後ろから腕を掴まれてしまい立ち止まってしまう。

「苗字?」

 振り向けば名前は顔を俯けており表情は読み取れず、僅かに見えた口元は何かに耐えるように歪んでいた。

「どうした?」
「……何でもない。早く行けよ」

 声をかければハッとしたように掴まれた腕からゆっくりと手が離れていき、今度は持っていたタンブラーを奪い取るように持っていかれる。そして力が抜けたかのように後ずさりバイクへと寄りかかる姿に思わず駆け寄りたくなってしまう。けれど警察官としての自分がそれを許さない。風見は心配するなの一言さえも飲み込んで躊躇うようにその場を離れた。


 スマホを耳に当てながら走り去っていく男の背中を見つめたまま名前は両手でタンブラー握る。中身の熱が外まで伝わってくるわけでもないのに、気休めでも僅かな熱で冷えた指先を温めたかったのだ。これまでいくつもの事件に関わってきて、その中には爆弾が関係している犯行も何度かあった。その度に過去を思い起こしていたが今この時ほどどうしようもない不安が押し寄せてくることはなく、それほど自分の精神が不安定なのだと自覚する。
 風見が遠ざかり視界に捉えられなくなってからぼんやりと空を見上げた。薄い雲の向こうにはきっと星空が広がっているのだろうか。
 まだ中学生だった頃の話だ。頭を撫でて「いってくる」と言ったまま帰ってこなかった人がいた。永遠の別れになるとも知らずに「いってらっしゃい」と送り出した悔いがあった。その記憶が未だに強く残っているせいか名前は一人で誰かの帰りを待つのが嫌いだった。誰かの、と濁したがそれが自分にとって特別な人だということはちゃんと理解している。こんなにも不安な気分になっているのはこれが理由だ。認めたくない。目を逸らしたい。
 憧れたあの人のように風見が戻ってこなかったらどうする。また苦しむだけじゃないのか。どうして、なんでまた警察なんかを。たまたま相手がそうだっただけのことだ。いや、違う。解っていて近づいた。ダメだと、好きになどなっていないと言い聞かせたのに惹かれた。どうしようもないほどに自分は学ばない阿呆だったというだけ。そう自問自答して名前は息を吐いて肩から力を抜いた。

「松田さん」

 もうこの世にはいない大切な人の名前が無意識に口から零れる。

「あの人を連れて行っちゃダメだよ」

 声にしてしまえば、言葉にしてしまえば、それはもう認めたようなものだった。失いたくないと思うほどに風見の存在は名前の中で大きくなっている。それは疑いようもない事実で気付かないフリをするのはもう無理だ。温かな手が頬に触れて、熱を持った瞳に見つめられて、隠しきれていないのはお互い様。あぁ、好きなんだと自覚すると同時に逃げ出したくなるほどの怖さも感じて雲の隙間から見えた空から視線を外した。
 遠くの方からサイレンの音が聞こえて、次第に近づいてきてはまた遠ざかっていく。風見が通報したのか、それとも現場近くにいた人がしたのかは判らないが何台ものパトカーや消防車が駆けつけていた。その中には救急車も混ざっていて大丈夫だと信じていてもなお眉を寄せてしまう。事件も事故もこちらの都合など関係なく起こってしまうから、どれだけ気を張っていても虚しさしか残らない。いつだって想い人は正義の味方で、名前には自分の我儘を理由にその行動を止めることはできなかった。
 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。一時間か。それとも二時間か。もしかしたら三十分も経っていないのかもしれない。両手で持ったタンブラーに視線を落としたままそんなことを思う。左手首には腕時計がついているのに正確な時間を確認する気にはなれなかった。本当は待ちたくはない。このまま帰ってしまいたい。一人にはなりたくない。
 不意に思い出したのは数週間前のあの雨の日のこと。あの時も今と同じように誰かを求めていて、その誰かももう知っていて、会いたくないと思いながらも心の奥底では会いたいと願っていた。

「苗字!」

 だから名前を呼ばれてしまえば抗うことはできなかった。俯いていた顔をゆっくりと上げる。松田を失ってからずっと苦しみや悲しみを恐れて誰かに特別を求めることを怖がっていた名前は、聞こえてきた声に、無事にこちらへと戻ってくる風見の姿に、涙が出そうになるくらい安堵していた。もう自分を誤魔化すことはできない。どうか俺を置いて逝かないでほしいと、そう強く望んでしまったのだから。


 小走りで戻って来た風見はまだそこに待ち人がいることにホッとしていた。数週間前の出来事を顧みれば何も言わずに帰ってしまったとしてもおかしくはなかったからだ。

「待たせてしまってすまない」
「ん、お疲れ」

 軽い労いの言葉をかけて名前がタンブラーを差し出してきた。それを受け取りようやく口にすれば温かかったはずのコーヒーはすっかりと冷めてしまっている。けれど急な労働をした身体にはよく沁みて美味かった。
 黒煙の上がる現場に向かった風見が見たものは交通事故による車両火災だった。目撃者によれば信号無視による衝突事故だという。破裂音については車両に積んであったアウトドア用のガス缶だろうと事故に巻き込まれた運転手が証言していたが、詳しい原因の捜査は現着した所轄の警官に任せたので後々解るだろう。現場の混乱も収まってきた頃合いでこうして戻って来た次第だ。
 そうして状況を説明すれば名前はどこか安心したように僅かに表情を和らげた。

「ただの事故で、あんたら公安の出番はないってわけね」
「あぁ。現場のことは到着した所轄の者に任せてある。問題ないだろう」
「そ。お巡りさんは大変だな」

 揶揄い混じりのその声を聞いても風見の心がまだ晴れないのは二人の関係を曖昧にしたまま事故現場へと向かってしまったからだ。耐えるように歪んでいた口元は何かを伝えたかったのかもしれない。いや、これまで抱えてきたものを吐露したかったはずだ。けれどそれを言わせなかったのは自分だった。あの雨の日の夜、名前が言っていた"待つのは苦手"の意味はおそらくここにあるのだろう。きっと待てども戻ってこなかった大切な人がいたのだろう。
 この推測が当たっていたならば待っていてくれと口にしたのは間違いだった。己の言動を後悔した風見はバイクに寄りかかったままの青年を見つめる。

「……苗字」
「なに?」
「すまなか────」
「謝るなよ」

 遮るようにしてそう言った名前がバイクから体を離し一歩二歩と背を向けるように歩く。その声音は何に対しての謝罪なのかを明確に理解しているようだった。

「あんたは、ちゃんと戻ってきただろ」
「だが、」
「いいんだよ……いいんだ、それで充分なんだよ」

 振り返って向けられた安堵と不安の入り混じった泣きそうな不器用な笑みに足元にタンブラーが落ちて転がった。二人の間にある距離を縮めるようにして踏み出した風見は目の前の名前の両肩を掴んで引き寄せる。そして戸惑いの表情を見下ろしながら優しく、相手の心に踏み入るように問いかけた。

「充分じゃないだろう?」
「なんだよ、急に……」
「言いたいことが他にもあるんだろう?」

 確信を突くようなその問いに歯を噛み締めて名前は逃げるように顔を逸らす。

「聞かせてくれ。今、君が想っていることを聞かせてほしい」

 しかし柔らかな声音が鼓膜を震わせ、肩を掴んでいた手が首筋を撫でて包み込むように頬に触れられてしまえば逃れられなかった。観念したように肩の力を抜いて少しだけ高い位置にある風見の顔を見上げれば眼鏡の奥にある瞳はしっかりとこちらを見ている。視線が合えば目元を細めるように微笑まれ、これまで押し殺していた欲が込み上げてきてしまった。
 名前は顔を歪めると目の前にある綺麗に整えられたネクタイを力いっぱい掴んだ。

「っ、どこにも行くな」
「あぁ」
「俺を、置いていくな」
「あぁ」
「……死ぬのは許さねぇから」
「あぁ」

 あまりにも自分勝手で理不尽な要求だと自覚している。まるで子供のようだと。けれど風見は全てを受け止めようとしてくれていて、保証なんてどこにもないのにそれがあまりにも嬉しくて掴んでいたネクタイを強く引っ張った。
 触れるだけの口付けは短く、ゆっくりと離れていく。鼻先が触れる距離で止まりお互いの吐息が唇を撫でた。

「あんたが好きだ。だからあんたも、俺を、好きになれ」

 横暴な拒否権のないその物言いに風見はまったくしょうがないといった様子で笑みを零した。ようやく見せた本心を愛おしいと思いながら触れた頬を親指で優しく撫でる。そしてネクタイを掴む手を上から握り、お返しとばかりに生意気なその唇を塞いだ。先ほどの触れるだけの口付けだけではなく、下唇を甘噛みし開いた口に舌を差し込んでは上顎を擽るように撫でる。合間に漏れる籠った声がどちらのものかも分からないほどに求め合った。
 唇を離すと絡んだ唾液が糸を引いて、それが切れる前にもう一度だけ軽く唇を重ねてから顔を離す。

「私はとっくに、君を好きになっていたよ」

 瞳を覗き込むようにしてそう告げた風見の柔らかな表情に名前は口角が緩く上がるのを自覚した。再びネクタイを軽く引いて目の前の肩に額を押し付けるようにして体を寄せ、じんわりと伝わってくる熱に瞼を閉じて深く息を吐く。この人は生きて今ここにいるんだと実感できる温かさにひどく安心した。
 普段の警戒心が嘘のように身を委ねてくる名前の背中へと手を回した風見は肩に乗った頭を撫でるようにその身体を抱きしめた。
 恋人"ごっこ"はもう終わりだ。




 それから暫くして、体を離した名前は先ほどとは対照的に挑発的な笑みを浮かべる。

「正式に付き合うんなら、キス以上もしてくれて構わねぇよ? あの夜みたいにさ」
「だ、出すわけないだろ! 君はまだ学生なんだから!」
「合意の上なら問題ねぇだろ。ま、あんたが手出さないんなら俺からやるけど?」
「はぁ!?」

 揶揄うようにスーツの上から腹筋を撫でれば面白いほどに慌てふためく風見の姿に声を出して笑った。