滝谷が鈴蘭に転入してきたのはもちろん鈴蘭制覇を成し遂げるためだった。だが、不可能と言われるだけあって鈴蘭制覇はやはり一筋縄ではいかない。後にそれが嘘だと判明した芹沢の弟子ことリンダマンの存在が、滝谷にとって高くて分厚い壁になるのだった。
初めてリンダマンと邂逅した日のことを今でも鮮明に思い出せる。図体のデカさに底知れぬ雰囲気。一目で強さとヤバさが伝わった。しかしその日の出来事をはっきりと覚えている理由はなにもそれだけではない。滝谷の記憶にはリンダマンと同じくらい印象が強く残った存在がいた。
「恵」
鈴蘭ではおよそ耳にすることはないであろう優しい声音で大男を呼ぶ人物。身長も体格も自分と同じくらいで、やけに綺麗な顔をしている、なんて場違いなことを思った。学ランを着崩し、咥え煙草をしているその男はちらりと滝谷に目を向けたが、興味がないと言わんばかりにすぐに逸らされる。そしてそれはリンダマンこと林田恵も同じであった。その場に滝谷などいないかのような態度で目の前を通り過ぎていく。普段ならばここで手を出していただろう。無視してんじゃねぇと殴りかかっていただろう。それができなかったのはまだリンダマンに挑む時ではないと感じたのと、名前も知らない男の声が耳に残ったからだった。
「それともう一人、注意しなきゃならねぇ奴がいます」
数日前のその出来事を思い返していた滝谷の意識を引っ張り戻したのは田村の声だ。喫茶店の大きな窓ガラスにホワイトペンで書かれた鈴蘭の勢力図。武装戦線、リンダマン、新入生の海老塚中トリオ、そして現在鈴蘭制覇に最も近い芹沢軍団。対する滝谷は、鈴蘭の情勢を語る田村が頭を張っていたE組を制したばかりである。けれども、立ちはだかる相手がいくら増えようが負けるつもりはない。
「おいおい、まだ化け物みてぇなやつがいるってのか」
驚き呆れた声を上げる片桐に頷き返した田村が窓ガラスに一人の名前を書き足した。
「苗字名前。D組ですが頭である伊崎の下にはついていません。どの派閥にも属していない一匹狼ってやつですね」
「そいつも強ぇのか?」
「強さは芹沢と同等と言われています。でも問題はそこじゃありません」
そう言いながら苗字名前の名前を円で囲んでから他の二箇所と線で繋いだ。
「苗字は鈴蘭制覇に興味はありません。ですが迂闊に手を出せば、この二人が黙ってはいないです」
線が繋がった先はリンダマンと武装戦線の阪東秀人。話によると、リンダマンが入学した当初から付き合いがあるらしく苗字が学校に来るのも奴に会うためなんて言う連中がいるくらい可愛がっているそうだ。一方武装のほうは田村でも詳細は知らないらしい。窓ガラスに書かれたそれを見て、滝谷の脳裏にはあの日の光景がすぐに再生された。リンダマンの名前を優しい声で呼ぶ男。それが苗字名前であるとなぜか解ってしまった。僅かな時間だけ向けられた瞳の鋭さを思い出してぞくりとする。恐怖ではなく、これは喜びからくる興奮だ。
ともかく戦力が揃っていないうちにデカい獲物を狙うのは時期尚早であるとして、次の滝谷の目標はC組を仲間に加える方向で話が進んでいった。
再び苗字の話題を耳にしたのはG.P.Sを結成してからすぐのことだ。芹沢軍団とは数で負けていることを理由にあげ、牧瀬を含む数人が苗字を仲間に入れようと言い出した。それに対して「またそれかよ」と呆れた声を溜め息とともに漏らしたのは伊崎で、すぐさま否定の言葉を吐き捨てている。
転入してきてまだ日が浅いため鈴蘭の細かい人間関係など滝谷は知りもしない。だが伊崎という男がどういう人間か多少は理解したつもりだ。周りがどれだけ熱くなっても一人だけ冷静に物事を見ていて、相手の力量を見定めるためには多人数で襲わせることだって厭わない。苗字を仲間にすることは戦力を増やすという戦略にすぎないだろう。頭脳派の伊崎であれば牧瀬の提案に賛同するはずだ。でもしなかった。それが滝谷には意外に思えたのだ。
うるさく騒ぐ牧瀬たちから離れたダーツボードの前に立っている伊崎に近づいて隣に並ぶ。三本目のダーツを指先で軽く遊ばせてからボードへと投げ、刺さった矢を回収しに行く後ろ姿を眺める。戻ってきた伊崎は自分に向けられる視線を気にすることなくもう一度スローラインに立ち、ボードへと目を向けたまま口を開いた。
「苗字のことか」
「あぁ。強ぇんだろ、そいつ」
「……お前が求めてるような強さじゃねーよ」
「あ? どういう意味だ?」
一本目のダーツが投げられシングルに刺さる。伊崎は眉を寄せて二本目を構えた。
「お前はあいつに勝てるかもしれない。でも、それだけだ」
二本目のダーツはトリプルに刺さった。
それだけ。滝谷が目指すのは鈴蘭制覇であり、それは勝つことだけでは意味がない。だが今の滝谷にはそれがどういうことなのかまだ理解できていなかった。
「あいつは誰かのために喧嘩なんかしねぇ。自分のためにもな。俺は、そこが気に入ってるんだ」
そして三本目のダーツが投げられた。苗字は負けても仲間にならないと伊崎は言った。それは誰が相手でもそうなのだと。喧嘩に勝ってもそれで終わり、なにも変わらないのだと。滝谷は後ろ髪をかきながらダーツボードから背を向けた。
結局、まともに苗字と顔を合わせたのはリンダマンとタイマンを張る時であった。