何の前触れもなく除隊を言い渡された。ここ一年ほどは大人しくしていたつもりだったが、知らずのうちにボーダー側に都合の悪いことでも起こしてしまっただろうか。思い当たるのは高三に入ってからやたらと事件に巻き込まれることが増えたくらいだろう。いや、あの小さな探偵に出会ってから、か。だとしても巻き込まれただけで何も悪いことはしちゃいないのだからそこが問題なわけではないようだ。
バイト感覚で始めたボーダーの戦闘員。自分にしては随分と長いこと続いた場所だった。元々素行が良くなかった所為もあり、いつかは首を切られるだろうとは思っていたがこのタイミングはなんだ。理由を聞いても城戸司令はきっぱりと答えられないと返した。自分に都合の良いことしか喋らない大人は腹が立つ。せめて理由を知れたならさっさと「はいさようなら」できるのに、わざわざ濁す意味が理解できない。お互いにしこりは残したくないだろう。ボーダーの上層部の中でも比較的交流のある根付さんへ視線で問いかけても、わざとらしく目を逸らされるだけだった。
これ以上この部屋にいても仕方がないと、俺は除隊への返事をしないまま出て行った。別に辞めるのは構わない。でもそれは自分の意思で辞めることが構わないということだ。自分に非があって辞めさせられるのだって素直に受け入れる。今までそうしてきた。今回のはどうだ。理由は言えない、だが君には辞めてもらう、だって? 冗談じゃない。こっちはまだ高校生だが正規で雇っているのだから説明の義務くらいあるだろうに。そう心の中で愚痴を吐きまくっていると廊下で時枝と出会した。
「不機嫌そうですね。城戸司令から呼び出されていたようですがなにかあったんですか?」
「何言われたんだ、じゃなくて何があったのかを聞くんだな」
「……実は苗字さんが司令室に行く前、来客があったんです。その来客というのがどうも警察の人みたいで」
あぁ、なんとなく見えてきたような気がした。なるほど警察ね。最初に脳裏に浮かんだのは何かと世話を焼いてくれる佐藤さんだが、わざわざバイト先に乗り込むほどこちらの領域に踏み込んではこない。そもそもボーダーに入ったことを伝えていないのだから彼女なわけがないのだ。なら他に考えられる人物とは誰か。そんなの俺の知る限り一人しかいない。
「それって金髪で口が達者で嘘くさい笑顔貼り付けた女受けのいい顔した奴だったろ」
「すごい。よくわかりましたね。施設を少し見学したいと言っていたのでまだいると思いますよ」
ずばり正解だったみたいだが全然嬉しくない。どこを見て回ってるんだと聞けば、律儀にも案内を買って出てくれた。できることなら時枝を連れて行きたくはない。きっと見たくないものを見せてしまうだろうから。多分、今の俺は見た目ほど冷静じゃない。あの人の顔を見たらすぐにでも綺麗な顔に拳を突き立てるだろうことは明白だ。そんな粗野な振る舞いを、他の隊員ならともかく時枝の前でしてしまうのは気が引ける思いだ。
なぜあの人──降谷はここに来たのか。おそらく情報元は真面目なのにちょっと抜けたところのある俺の恋人からだろう。上司である降谷に対しては少しばかり口が緩くなってしまうようで、俺たちの間で交わされた幾つかの会話は筒抜けである。今回のもそうに違いない。俺がボーダーでバイトしていることについて口止めしなかったのは、こうなることを予想していなかったからだ。せいぜい界境防衛組織がどういうものか気まぐれに調べる程度だろうと、そう軽んじていた。だが蓋を開けてみたらどうだ。俺の知らないところで勝手に辞めることになっているじゃないか。こんなことが許されるのか。いいや俺は許さないね。
時枝の後に続いて歩いているとちょうど向かっていた先、個人ランク戦のロビーから嫌でも見覚えのある男が姿を現す。その姿を捉えた瞬間、頭の中で何かが切れる音がした。俺は前を歩く時枝の肩を掴みその場に止めるとまっすぐに男──降谷へと向かっていく。近づいていくほどに拳に力が入っていくのが自分でも解った。切ることを忘れていた爪が掌に食い込んで皮膚を破ったかもしれない。だがそれを気にする余裕などなかった。こちらに気付いた降谷の表情はさもこうなることが解っていたとばかりに整ったままだ。あぁ腹が立つ。少しでも驚いた演技でも見せやがれ。奥歯をぎりっと噛み締めた俺は降谷の胸ぐらを雑に掴んで手加減なしに済ました顔に一発叩き込んだ。
頬を殴られた勢いのまま廊下に腰をついた降谷を見下ろして思わず漏れた舌打ちが静まり返った場には広く響いた。ムカつくことにこの男がたった一発殴られただけでよろめき転ぶはずがない。それに喧嘩で慣れた手応えが感じられなかった。勢いを殺さず逃がすことでうまいこと受け流されたようだ。降谷の身体能力なら避けるのだって容易にできたであろうにしなかった、その中途半端な心遣いが余計に俺を苛立たせた。
「あんたわざと殴られただろ。ノーカンだ、もう一発ぶちかます」
「さすがに二発目は遠慮したいですね」
「こ、こら苗字っ、その手を下ろすんだ!」
「苗字さん落ち着いてください」
再度拳に力を込めると降谷を案内していたと思われる嵐山と追いかけて来た時枝に慌てて止められる。戸惑いの表情を見せる時枝から視線を逸らし、ゆっくりと腕を下ろした。
「うちの隊員がすみませんでした。大丈夫ですか。医務室へご案内しますよ」
「ご心配ありがとうございます。でもこれくらい慣れてるので平気ですよ。こちらこそお見苦しいところをお見せしてしまってすみません」
言葉通り平然と立ち上がる男は嫌味なくらい爽やかな態度を崩さない。そのまま嵐山と言葉を交わしている降谷を睨みつけていると次第に周囲のざわつきが耳につくようになってきた。ここは個人ランク戦のロビー前だ。多くの隊員が先ほどの俺の行動を目撃したが、今となってはもうどうでもいい。どうせここから去るのだからこれ以上どれだけひどい噂が広がろうが俺の知ったことではない。この男のせいで辞めることになった事実より、暴力沙汰で辞めさせられた偽証のほうがマシだ。まぁ殴ったのは確かだから偽証とも言い難いが、この際なんだっていい。
隊員の多くは中高生ばかりで好奇心も旺盛だ。降谷自身も注目の的にされるのは避けたいのだろう。困ったような表情に切り替えて周りを少し見渡した。
「少々賑わってきてしまいましたね。そろそろ部外者の私たちは失礼させていただきます」
「おい、”たち”ってなんだ。俺はまだ──」
「すでに決定事項なんですよ。ここにもう君の居場所はない」
それまでとは違って有無を言わせない高圧的な声音と視線に俺はそれ以上文句を言わなかった。無駄だと理解したからだ。いくら殴ろうがなにを言おうがこの男の意志は変わらず、組織の決定も覆せないことを。最初から俺の言葉など聞く気はないのだと。
困惑する嵐山になに食わぬ顔で出口はあちらでしたよねと声をかけ歩いていく降谷の後ろ姿を見つめていると、爪が食い込んだせいで血の滲んだ手をそっと引かれた。視線を下げると時枝が心配した様子でこちらを見上げている。やはり一人でいいと断っておくべきだった。トリオン体を相手にした訳じゃない、生身の人間を殴るところを見るのはそれなりにショックを受けただろう。それとも優しい時枝は、それでも俺の心配をしてくれているのだろうか。
「あの、苗字さん、」
「何も話せない。今は、まだ。悪いな時枝、お前には迷惑ばかりかけちまって……ありがとな」
つい癖で頭を撫でようとした自分の手が汚れているように見え、反対の手で時枝の肩を軽く叩いて俺は降谷の後を追うようにその場から離れた。
建物の外へ出ると地面を叩く水の音だけが聞こえる。今日はあいにくの雨。バイクは乗ってきていない。最悪だ。薄黒い雲に覆われた空を見上げていると白のFDが横付けで停まった。本当に最悪だ。絶対にこの人はここまで計算に入れて今日を選んだ。全て事を済ませてから種明かしをするために、誰にも邪魔されない状況を用意するために、この日を選んだ。そして俺がこの車に乗り込むしか選択肢がないということも、運転席でハンドルを握る男の読み通りというわけだ。
車が動き出してから暫くはお互いに口を開かず、窓に叩きつけられる雨音とエンジン音だけが車内を包んでいる。何個目かの信号で赤が灯され車が停止したのをきっかけに、ようやく降谷が言葉を発した。君がボーダーでバイトしていることを風見から聞いたというところから、今回このような行動をしなければならなかった理由とやらを話し始めた。
降谷曰く、公安では数年前から民間組織である界境防衛組織──ボーダーを密かにマークしていた。活動内容上、日本国に対する脅威とはならないだろうと判断され今現在も警察や政府からの介入はまだないとのこと。それを踏まえた上で降谷は個人的に組織を調べ始めた。公開されている活動履歴から所属している人物、そして三門市で起こった災害とも呼べる戦闘行為。調べられるところは全て情報を集めた。警察や政府が介入していない組織だからこそ強く警戒しなければならない。そう思った降谷は俺に忠告をしようとしていた。だがその時起こったのが大規模侵攻だった。過去のデータとは違いボーダーに所属する隊員の多くが連れ去られたことが明らかになったこの事件をきっかけに、降谷は強硬手段に出ることを決めたという。
理屈は解った。だがやり方が気に食わない。確かに俺はこの人にボーダーを辞めたほうがいいと言われたとしても素直に従わないだろう。手っ取り早く不審な組織から引き離すためという理由で、俺の意思を無視することは降谷にとって切り捨てても仕方がない事なのだと言われたような気がした。
「汚ぇ真似しやがって。だからあんたが嫌いなんだ」
「君を心配してのことですよ。こうでもしないと君は僕の忠告を受け入れてはくれないだろう」
「……あの人は、知ってんの?」
「すべて僕の独断です」
風見さんがなにも知らないというのはおそらく本当だろう。隠し事が下手だから、知っていたら俺はどこかで気付いたはずだ。それに少し安心したと同時に降谷に対する不信感が募る。
車は米花町に入り、もう少しで阿笠邸へと着く頃合いだ。だからその前に確かめなければいけない。
「なんで、そこまでするんだ。あんたにとって俺はただの一般市民だろ」
安室透として出会い、親しくしたつもりはないがそれなりの関係を築いてきた。自分の部下と俺が恋人関係にあるのも事実。だが、たったそれだけの理由でこの人が降谷零として行動を開始するのは理に合わない。俺のためにリスクを負うような人間ではないはずだ。必要なのは国を守ること。その道理でいけば俺をボーダーから引き離す前に、俺を利用してボーダーに介入しようとするだろう。なのにそれをしなかった理由はなんだ。
降谷は一度こちらに視線を向けるとすぐに前を向いた。それから少し間を置いて馬鹿みたいなこと言い放った。
「松田が残していった君をただ守りたいと思っただけですよ」
「な、んだよそれ。松田さんの代わりにでもなろうっての?」
おそらくすぐに言葉にしなかったのは俺を不愉快な気分にさせると解っていたからだろう。こんな時にその人の名前だけは出さないでもらいたかった。
「……あいつが生きていたら、きっと僕と同じことをしたはずです。君を危険な場所に置いては──」
「ふざけるなッあの人になろうだなんて烏滸がましい! 俺は、俺は……あんたにあの人の代わりなんて求めちゃいないんだよッ」
否定して欲しかった。僕はあいつの代わりなんてできませんよって、貼り付けたような笑みでそう否定して欲しかった。なんでこの人は俺が望んでいることは無視するくせに、俺が望まないことばかり与えてくるのだろうか。やっぱりこの人が嫌いだ。俺の一番大切な思い出を、松田さんとの忘れられない思い出を、塗りつぶさないでくれ。そこは誰にも踏み込まれたくない場所なんだ。
「あんたがどこで何しようが俺には関係ない。でも俺の領分に勝手に入ってくるな」
そう言って、停車した車から降りた俺を降谷は一瞥するだけで何も言わなかった。ただ、何か言われてもこの土砂降りの雨にかき消されて、俺には届かなかっただろう。