春の訪れ


 冬の寒さが少しずつ遠ざかり暖かな日々が続くようになった今日この頃。授業を終えて学校を出ると校門から少し離れたところに見慣れたバイクが止まっていた。傍らには不良校と名高い鈴蘭に通う苗字さんもいる。どうしてこんなところに、と驚く必要はない。授業中に受信したものだったがちゃんと事前にメッセージは貰っていた。足早に目の前を通り過ぎていく生徒たちを興味のなさそうな瞳で眺めていた苗字さんの視線がおれを捉えた。この瞬間が、いつも緊張する。

「よぉ、時枝」

 そしておれへ向けられる瞳には温もりがあることを確認し人知れず安堵した。小走りで苗字さんの元へ寄れば周囲からいくつもの好奇の視線が向けられ、きっと明日は質問攻めにされるのだろうなと容易に予想できる。

「んじゃ、行くぞ」
「はい」

 バイクに跨ってから予備のヘルメットを差し出してきた苗字さんからそれを受け取り、しっかりと被って顎紐を締めた。最初はぶかぶかのヘルメットだった。それがいつの間にかサイズの合ったものに変わっていたけれど、あえてそのことには触れずにいる。お礼の言葉を口にすることを、なぜかこの人は望んでいないような気がしたからだ。でも、言わないけれど伝わってはいると思う。苗字さんは他人の感情に敏感だから。
 何度も乗ったバイクの後部に跨ると、こちらを振り返ったままじっと見つめてくる苗字さんに首をかしげる。

「どうかしました?」
「いや、どこに行くか聞かねぇのか」
「苗字さんが連れて行ってくれるところですからね。楽しみにしてます」
「期待されるほどの自信ねぇんだけど」

 そう言って苦笑した苗字さんはフルフェイスのヘルメットを被りハンドルを握った。全身に重低音の振動が響いて、おれは目の前の体に腕を回した。確かに届いたメッセージに行き先は書かれていなかったし、内容はボーダーへ行く前に少し時間をくれといった簡素なもの。でも苗字さんなら大丈夫だという信頼がある。この人はおれを危険な場所には連れて行かない。むしろ驚かせて喜ばせることばかりしてくれる。それが堪らなく、嬉しいのだと感じている。
 初めて会ったのは苗字さんがボーダーへ入隊する日だった。おれは入隊指導のサポート役として呼ばれていて、どのポジションが適正なのか悩んでいた彼に声をかけたことが始まりだ。入隊前からなにかと話題の人で、上層部からはなにを仕出かすか解ったものではないからむやみに近づかないようにと忠告をされていたのを覚えている。にも関わらず苗字さんに声をかけたのはそれが正しいことだと思ったからであり、ほんの少しだけ興味がわいたから。
 それに、噂に聞くほど怖い人ではないと知るのにそう時間はかからなかった。


 暖かくなってきたとはいえ風のあたる手肌がだんだんと冷えてきた頃にバイクのスピードが緩んでいった。そろそろ目的の場所なのだろう。道中の景色の変化から三門市の南西のほうまで来たようだ。近くになにかあっただろうかと頭の中で地図を広げるも、この一帯は普通の住宅街しかないはず。
 それから少ししてバイクが止まったのは住宅街の中にはよくある公園だった。他にはとくにこれといった特別なものはない。だから余計にここへ連れてこられた理由が解らず苗字さんに尋ねようとしたその時、ふわりとした風とともに桃色のなにかが視界を横切る。なんだろうと風に流される桃色にピントを合わせ、それから飛んできた方向にある公園の奥に目を向けたおれは無意識のうちに感嘆の声を漏らしていた。いくつか植えられた木の中の一本だけに桜が咲いていたからだ。

「三門市じゃ一番早く咲くのがここだって聞いたんだ。時枝に見せてやろうと思って」

 ヘルメットを外して桜の木を見る苗字さんの横顔は、どこか悪戯が成功した時の子供のようで眩しかった。根付さんをはじめ多くの人が彼に関わるのはよしたほうがいいと言う。苗字さん本人も同じようなことを何度も口にした。おれが素直にそれを受け入れなかったのはちょっとした反抗と、大きな憧れを抱いているから。

「つっても、桜なんてだいたいはどこの学校にも植えられてるから嬉しくもないか」
「そんなことないですよ。学校じゃ、苗字さんと一緒に見れませんからね」
「……降りろ時枝。もっと近くに行こう」

 こちらから距離を縮めようとすると苗字さんはいつも困ったような笑みを浮かべる。でも拒まれたことは一度もない。おれを優しい子だとあなたは言うけれど、おれにはあなたのほうがとても優しい人のように見える。隣を歩く苗字さんはきっとそれを否定するだろうから口にはしない。自分が優しい人間じゃないのだと思ってほしくない。
 ひらひらと舞い落ちる花びらを捕まえようと手を伸ばすが、掌の上でくるりと回転して通り過ぎてしまう。そんなことをしながら桜の木へと近づいていくと、木の近くで野良猫が寛いでいた。桜と猫。なんて最高の組み合わせだろう。少し距離を置いたところで腰を落とすとこちらを警戒するように耳がぴくりと動いた。そのままじっと待っていれば警戒心を解いた猫のほうから擦り寄ってくる。元々人懐こい猫なのだろう。撫でてあげるともっと撫でろと言わんばかりに、しなやかな体を押し付けてきた。あまり匂いをつけると家にいるアーサーととみおが怒ってしまうかもしれないなと思いながらも、撫でる手は止まらない。ごろんと腹を見せるように横になった猫の顔は、陽の暖かさとおれの撫でテクによりとてもご満悦である。

「可愛いですね……っ」

 猫が可愛かったから。つい猫のほうに気を取られていたから。予想もしていなかったから驚いた。

「そうだな」

 見上げた苗字さんの表情が今まで向けられてきた中で一番柔らかく、そして安心しているようで、息を飲んだ。緩やかな暖かい風に少し長い髪が揺れて、陽の光で毛先が透き通って見えた。いつその温もりが消えてしまうんじゃないかと不安だった瞳は、真っ直ぐにおれを映してくれている。
 まるで猫のように自由な人。手を伸ばしても届かない憧れの人。桜の花びらが舞う中にいる苗字さんを、おれは、綺麗だと思った。なぜだか感情が込み上げてきて涙が出そうになる。
 苗字さんの後ろに見える桜の木が、まるで春の訪れを祝っているかのように桜の花が咲き誇っていた。