優しい人


 いつもより帰りが遅くなってしまった。建物の外に出れば陽はとっくに暮れており星空が広がっている。他の部隊と違い嵐山隊は広報活動も行っているため、時々、防衛任務や訓練とは関係なくこうして帰宅時間が遅くなってしまうことがあった。送っていこうか、という嵐山さんや広報部の方たちの気遣いを断り人通りの多い道を選んで帰路につく。街灯も充分にあるし、夜道を怖いと思う年頃でもない。それにボーダーに入隊してトリオン兵と戦っていれば、あれよりも怖いものなどそうそうないだろう。幽霊だって居たら面白いなぁと思うけれど実際に見たことがないから本当に怖いのかどうか。そういえば生きている人間が一番恐ろしいと最初に言ったのは誰なんだろう。

「俺たち金なくてマジ困ってんだよねー」
「おまえボーダーのやつだろ。困ってる市民助けると思ってちょっと財布貸してくんない?」
「中身は返せねぇけどな!」

 大口開けて下品に笑う三人の男たちがおれを囲むようにして立っている。私服だから学生かどうかは分からないけど見た目は二十歳前後だと思う。これは俗に言うカツアゲなのだろう。唐突に訪れた初めての体験に返事もしないまま呆けていると「おい聞いてんのか?」と肩を押されてよろめいた。
 広報の活動をしていれば他の隊員よりもその顔は広く知られてしまうのは仕方のないこと。同級生や近所の人たちは皆頑張ってと応援してくれているけど、誰しもがそういうわけではないと解っているつもりだった。今こうして目の前に、直接的に向けられる視線に、本当に良い人たちばかりではないと思い知らされる。遠目から心配そうにこちらを見る大人たちも助けてはくれない。見て見ぬふりをする人もいた。だからと言ってその人たちを責めることはできない。

「おいおいだんまりかよ。俺たちが欲しいのは無駄な時間じゃなくて金なんだけどぉ」
「めんどくせーからもうパクっちまうか」
「っ、やめてください……!」

 一人の男に腕を掴まれる。手加減を知らない握力におれは眉を寄せた。トリオン体と違って特別鍛えていない生身の体は強くない。男の腕を振り払うことすらできないほどに。持っているカバンを取られそうになって必死に抵抗すると男は舌打ちをして腕を振り上げた。
 所謂不良と呼ばれる人物が身近に一人だけいる。でもその人に恐怖を覚えた事はない。だって優しいから。無愛想で、素行も良くないけれど、おれには優しい人。手当ての度に見た皮膚の剥がれた拳がおれに向けられることは決してないと知っている。でもそれは、あの人だからだ。
 避けなければいけないのに体が反応しない。振り下ろされる拳をただ見つめるだけ。殴られたらきっとすごく痛い。あの人はいつもこんな体験を味わっているのかな。そう他人事のように思っていると、男の脇腹に誰かの蹴りが入った。男はそのままコンクリートの塀に勢いよくぶつかって膝をついてしまう。

「おい、汚ぇ手でこいつに触んな」

 聞き覚えのある声がした。でも、聞いたことのない声音だった。男たちから遮るように間に割って入ってきたその声の主を見上げれば、そこにはおれの憧れる背中がある。本人が聞いたら嫌な顔をするだろうけど、でも、まるでヒーローのようだと思った。
 おれたちがトリオン体で戦う時と比べても遜色ないほど、生身の苗字さんの身体能力は高いのだと思いがけず知ることとなった。不良同士の喧嘩を見たことはない。漫画やドラマで表現されているような知識しかない。だけど、その流れるような動きは心を惹きつけた。ただ殴られるだけじゃない。受け流し、相手の力を利用して返していく。そういえば個人ランク戦でたまに見かける苗字さんの戦い方もそんな感じだった。
 そろそろ警察を呼んだほうがいいんじゃないか、という声が遠くから聞こえて我に返る。苗字さんは向かってくる拳を避けながら腕を掴みそのまま相手の背中側に捻った。痛みに呻く男の背中に蹴りを入れると、間髪入れず横から突っ込んできたもう一人の男の胸倉を鷲掴み鳩尾に膝蹴りを叩き込んだ。地面に両膝をついて咳き込む男の前にしゃがんだ苗字さんはゆっくりとした動作で相手の前髪を掴んで顔を上げさせた。

「暇なら俺が遊んでやっからさ、遠慮なく鈴蘭まで来いよ」
「す、鈴蘭……っ」
「おい、こいつ苗字じゃねーか!? ボーダーに入ったって噂マジだったのかよ!」
「あぁマジだマジ。だからここらで調子づかれると目障りなわけよ。解るか? なぁ?」

 気怠そうだけど、どこか苛立たし気な声音に聞こえる。萎縮した男たちは気絶している仲間を引きづってこちらの顔色を伺いながら去っていった。立ち上がった苗字さんの背中を見上げて、今どんな顔をしているんだろうとぼんやり思う。喧嘩の最中も辛うじて口元が見えたくらいで、表情までは判らない。おれは苗字さんを知っている。多分、ボーダーの中では誰よりも。だけど今目の前にいるのはおれの知らない人。初めて見る憧れの人の側面。振り向いた時、もし、あの男たちに向けられたものと同じ瞳を向けられたらどうしよう。先ほど襲った恐怖とはまた別の怖さに肝が冷えた。

「大丈夫か?」

 だけどやっぱりあなたは優しい。一つ呼吸を整えてから振り返った苗字さんの表情はいつもと変わらないものだった。ぶっきらぼうな言い方だけどどこかこちらを気遣うような雰囲気を滲ませている。おれはすっかり怖さも掴まれた腕の鈍い痛みも忘れていた。

「はい。苗字さんこそ、怪我してませんか?」
「あんなの掠り傷にもならねぇよ」

 殴られた頬は少し赤みを帯びているが苗字さんにとっては大したことではないようだ。

「悪かったな」

 一瞬、何を言われたのか理解が追い付かなかった。眉を寄せてばつの悪そうな顔で視線を逸らす姿に首を傾げる。何に対して謝っているのだろうか。助けてもらったのはおれなのに。

「殴り合いなんて、見ていて気分のいいもんじゃないだろ」
「それは、まぁ……トリオン体で戦うのとは違いますからね」
「もっと穏便に済ませりゃよかったんだけどな。絡まれてるのが時枝だって判ったらつい足が出てた」

 情けないなといった態度でそう言う苗字さんに目を瞬く。いけないと解ってる。解っているけれど、どうしようもなく嬉しいと思ってしまった自分が恥ずかしい。以前、何のために喧嘩をするのかと問うたことがあった。その時は「さぁな。誰かのために喧嘩なんかしたことねぇし、多分自分のためだろうな」と返されたのをふと思い出す。そのことをあなたは覚えているのだろうか。

「例えば……例えばここにいたのがおれじゃなかったら、どうしてました」

 知りたくなった。気付かないだけで本当は誰にでも手を差し伸べる人なのかどうかを。おれはあなたをもっと知りたい。心のどこかで期待している。もしかしたら表情に出てしまっているかもしれない。だから苗字さんは眉尻を下げて困ったように笑うんだ。

「言ったろ。俺は優しくなんかねぇって」

 そんなことはない。誰にでも優しくできる人よりも誰かのためだけに優しくなれる人のほうがおれは嬉しい。だってそれは、その人にとっての特別ってことだから。帰るか、と言って苗字さんが隣を歩く。同じ速度で。駅へ続く道ではない道路を一緒に。その意味が解らないほど無知ではない。ほら、やっぱりあなたは優しい人だ。