あまりにも眠すぎて自販機のボタンを押し間違えてしまった。本当なら缶コーヒーを買うはずだったのに手元にあるのはストレートティーだ。喉が渇いているから買ったものじゃない。眠気を少しでも覚ましたかったのにこれじゃ意味がない。バイト先で起こったトラブルがなければ徹夜なんてしなくて済んだが、それはもう過ぎたこと。
今日は防衛任務のヘルプを頼まれていたからバイト先から直行でボーダーへ来たが、自販機の横にあるベンチに座った途端睡魔が襲ってきた。いつもは賑やかなラウンジも平日の午前中ともなれば静かなものだ。それが余計に眠気を誘ってしんどい。仕方なく缶の蓋を開けて口にするがただ喉が潤うだけで役に立たない。コーヒーを買い直すにも金が勿体無いし立ち上がるのが面倒だ。
人がいないことをいいことにベンチに横になってすぐ、俺は夢の世界へと旅立った。
目が覚めた時まだラウンジはガランとしていたが、ひどかった眠気はマシになっていた。時間を確認しようと身じろぎすると何かが自分の上にかかっていることに気付いて体を起こす。どうやら男性用のトレンチコートのようだが見覚えがない。寝ているのが俺だと分かった上でこんなことをするなんて粋狂な奴がいたものだ。そう思いながら欠伸を噛み殺して腕時計に視線を向けた。防衛任務のシフトにはまだ余裕はありそうだ。今日は確か諏訪隊とどこの隊だったかな。
そこでふと思い出す。持っていたはずの缶がどこにもない。ベンチの下を覗いても見当たらないことから落としたわけではないらしい。もしかしてパクられた? 俺の貴重な130円なんだが。多分、このコートの持ち主がなにか知っているはずだ。寝ぼけて床を汚す前に回収されてしまったのだろうか。コートを掴んで顔を寄せると思いがけなかった意外な香りが鼻に届いた。
「笑えない冗談だな」
驚きのあまり声に出てしまったが幸運なことに俺の独り言を聞いた奴はいない。すっかり眠気もどこかへ行ってしまったようだし時間を持て余すべきじゃないだろうと、ベンチから立ち上がってコートを羽織った。向かう先はコートの持ち主がいるメディア対策室。そう、持ち主は根付さんだ。そりゃ驚くだろ。
俺にとって根付さんは口うるさい厄介な大人で、根付さんにとって俺は問題の多い厄介な高校生だ。鈴蘭高校は喧嘩が絶えないし、そこに通っているというだけで他校の奴等から絡まれることも多い。つまり世間からの心象はとても良くない。別に俺自身は喧嘩が好きというわけじゃないからこちらから仕掛けることはなく、大半は正当防衛である。まぁ過剰防衛の時もあるけど。けど根付さんにとってそんな事情はどうでもいいのだ。ボーダーのイメージに影響があるのかないのかが重要。だから説教の最後には必ず、ここを辞めることを勧められる。随分と嫌われたものだなと思う反面、メディア対策室長としての彼の立場を考えれば当然だとも思う。
特別トリオン量が多いわけじゃない。戦うための理由もなければ強くなりたいわけでもない。出来高払いの収入を気に入っているだけだ。辞めたって構わない。新しいバイトを探せばいいだけなのだから。でも他人から辞めろと言われると反抗したくなる。まるで子供だ。自分でも厄介な人間だと感じるのだから根付さんにとっては相当だろう。
ノックもなしにメディア対策室に入るとコートから感じた匂いと同じ香りがふわりとした。どうやら正解だったようだ。無作法な入室にも関わらず咎める声はなく、立派なデスクの前は空席だった。しょうがない、また後で出直すかと踵を返そうとした俺の足を止めたのは、デスクの上に置かれた飲料缶の存在。開けっ放しのドアをそのままに部屋の中を進んで缶を手に取ると、それがとても軽くて目を見張る。
缶を戻して主人のいない椅子に座った俺は溜め息を一つ吐きデスクに頬をつけるように頭を預けた。こんなのはおかしい。
「てっきり嫌われてるのかと」
間違いなく俺が買ったストレートティーだ。蓋のタブが不自然に左に曲がっている。眠くてもいつもの癖は出てしまったのだろう。まだ一口くらいしか飲んでいなかったのに中身がなくなっているそれの飲み口を指で撫でた。コートをかけるだけなら分かる。寝ている俺から飲みかけの缶を取り上げるのも分かる。ではなぜ捨てなかったのか。俺が口をつけたと知っていながら残りを飲んだのはなぜなのか。
その心は?
「ここで寝られるのは困るよ」
さて厄介な大人の登場だ。顔の向きを変えて今度は反対側の頬をデスクにぺたりとつける。見上げた根付さんの表情は見事なまでの呆れ顔だ。
「手のかかる子ほど可愛いってやつですか」
「残念だけど面倒な子だと常々思ってはいるが可愛いと思ったことはないねぇ」
「なら行動にも一貫性を持つべきですよ。おいしかった?」
なにが、とは言わなかった。その必要はない。なぜなら目の前の男の顔があっという間に顰めっ面になったからだ。後悔するくらいならしなきゃいいのに。間接キスですね、なんて言ったらどんな表情に変わるんだろう。見てみたい。だけど、これ以上踏み込んだら本当に俺はここを辞めることになるかもしれない。それもいいだろうか。
あぁ早く。早くコートを返して欲しいと言ってくれればいいんだ。そしたらもう、あんたに用はないのだから。