今日は朝からついてない。いつも通りバイクに乗ろうとすれば駐輪場にその姿はなく、代わりに汚い字で「借りてく」と書かれた紙がフェンスに挟まっていた。犯人は分かっている。こんなことをするのは一人しか思い浮かばない。俺と同じく鈴蘭に通う芹沢という男だ。窃盗は立派な犯罪だってことをあの男は解っているのだろうか。いや、絶対に解ってないな。期待するだけ無駄か。
そう思いながら奴の携帯に電話をかけてみるがコールすら鳴らず繋がらない。あの貧乏人、どうやらまた料金を支払えなかったようだ。仕方なく歩いての行動を余儀なくされた俺だったが、本日の不運はまだ始まったばかりだった。
「せーりーざーわーくーん。この前はどうもー」
「あ? ふざけんな、誰が芹沢だって?」
面倒なことにたまに歩くとすぐこれだ。絡んできたのはどこの学校かも分からない見知らぬ奴等だった。勝手に人のことを芹沢と勘違いして、勝手に喧嘩を売ってきたので親切にも他人の喧嘩を買ってやった。あいつにバイクをパクられて腹が立っていたから憂さ晴らしには丁度よかったかもしれない。ついでに俺を芹沢だと思い込んでた分も含まれるからいつもより三割り増しで暴れたのは当然のことだと思う。俺があのむさ苦しい男に見えるってのかよ。冗談じゃない。
おかげで拳の皮膚が擦り切れて血で濡れてしまっている。それを地面に伏せって呻いている絡んできた男の服で拭ってから立ち上がる。人気のない路地裏には数人の男が転がっていて、可哀相に歯が折れてる奴もいるがそれは自業自得だろう。彼らをその場に放置して表通りへ出ると、行き交う人たちに視線を向けられたがすぐに逸らされる。無理もない。数人を相手にしたのだから俺だって無傷じゃ済まない。頬はきっと赤くなっているだろうし服も汚れてる。
このままバイト先であるボーダーに向かえばまた根付さんにいろいろとうるさく言われること間違いなしだ。しかし一度帰って着替えるのも面倒である。なんせ今日はバイクがないのだ。なら見つかる前にトリオン体になってしまえばバレないだろうか。どうしたものかと考えながら歩くのはよくない。そう後悔したのは向かいから歩いてくる人とばっちり目が合ってしまってからだった。
「あ」
果たして声を漏らしたのはどちらだったか。もしかしたら二人とも間抜けな声を漏らしたかもしれない。やべっ、と思わず呟いた俺は即座に回れ右をして来た道を戻ろうとした。だが、ここで逃げたら次捕まった時の説教がきっと倍になる。その可能性は大いにあるなと、俺の足は数歩進んだだけで止まった。
「賢明な判断をしたねぇ」
「……どうも」
振り返れば懸念の人物である根付さんがいた。ふぅ、と息を整えているところを見ると小走りで駆け寄ってきたのだろうと思う。改めて近くで俺の格好を見たからか、メディア対策室長様の眉間には見事な山と谷が出来上がっていく。そして何かを言いかけて口を開くも言葉を発することなく閉じてしまった。それを何度か繰り返した後、大きな溜め息が一つ。おそらく説教の一つでもしたいところだが、ここがボーダーではなく多くの人目がつく往来だから諦めたのだろう。
その代わりとしていい加減にしろと目で訴えてきたので誤魔化すように視線を逸らしながら、切れて血の滲んでいた下唇を舐めた。口の中に鉄の味が広がったがどうでもいい。説教は後でじっくり聞くからさっさと解放してほしいところだ。正直、ボーダーの外では俺のことなんか放っておいてくれたらいいのに。
「これを使うといい」
なんてことだ。あの根付さんが俺にハンカチを寄越した。ちらりと見えるブランドのロゴは有名なもので、安くはないことが分かる。
「汚れるからいいですよ、別に」
「こういう時くらい素直に受け取れないのかね君は」
「いッ……」
受け取ろうとしない俺の唇にハンカチを無理矢理押し付けた根付さんの表情が少し和らいだ気がした。痛がる俺を見て日頃の鬱憤が晴れたからだろうか。いや、そうじゃない。これはまずいな。その表情はいけない。本当に今日はついてない。なんて運の悪い日なんだ。これも全部芹沢のせいだ。
「根付さんが優しいのってなんか気持ち悪い」
「人の厚意に対して随分失礼な物言いじゃないか」
ぐいぐいとハンカチを押し付けてくる根付さんの手を掴んで、血のついたハンカチを見つめる。せっかく綺麗だったのに俺のせいで汚れてしまったそれを奪い取ってポケットに突っ込む。
「もっと迷惑がってくれないと俺は困るし、きっと根付さんも困るよ」
優しさは毒だ。そんなもの欲しくないし、いらない。俺はきっと飢えている。飢えているから優しさに触れたら簡単に絆されてしまう。だからハンカチについた血と一緒に受け取った優しさも全部洗い流してからちゃんと返すことにしよう。根付さんは頭がいいからちゃんと俺の意図を汲み取って理解してくれるはずだ。