透明な世界

「……よしっ」

 清潔なにおいのする洗濯物を竹竿に干し終わり、大きく息を吐いてぐーっと伸びをする。春真っ盛りの空は澄み渡っていて、朝だというのに少し動くと汗ばんでいく。手ぬぐいで額を拭いて、木桶を手に歩き出す。洗濯ひとつでも重労働だ。ここには洗濯機も乾燥機もないから全部手作業。全自動に慣れた現代人には辛い。洗濯板なんて生まれて初めて実物を見たくらいだ。それでもどうにかやっていれば慣れるもので、最初に比べれば随分と手際が良くなったように思う。
 “ここ”に来てからあっという間に一か月近くが経っていた。季節は新緑の季節、五月に移り変わっている。現代とはまったく違う生活に追われ、気がつけば毎日が矢のように過ぎていった。現代へ帰るためといっても、まず何をどうすれば良いのか見当もつかず、まったく進展のないまま季節が少しずつ変わっていく。焦っても仕方がない。それはそうなんだけれど、それでも闇の中を歩いているような不安がいつもそばにある。時間が経てば経つほど帰れなくなるのではないか、という気がして。
 ――大丈夫ですよ。
 沖田さんは、心が読めるんじゃないかと時々思う。私が不安でどうしようもなくなったとき、彼はいつの間にかすぐ近くにいて、いつの間にか欲しい言葉をくれる。
 ――きっと帰れます。
 穏やかに凪いだ声を聞くと、不安で身動きが取れなくなりそうだった心が溶けていく。そういう瞬間がこの一か月の間にたくさんあった。それはまるで闇の中を歩いているときに一筋見つけた灯りのような――大げさかもしれないけれど、希望、だった。





「おっ、随分と早くなったな!」
「あ、辻さん、ありがとうございます。皆さんお疲れさまです」
「ありがとー、なまえちゃん」
「いやぁ、女の子いると良いよねー」
「癒されるわァ」
「またまたー、谷口さんも中川さんも、そんなこと言っても何も出ないですよー」
「いやいやホント。なーんかなまえちゃん見てると俺も頑張ろうって思うんだよなァ」
「それなら良かったです。暑くなってきたし、気をつけてくださいね」

 状況に適応していく中で自然と顔見知りもできた。丁度洗濯物を干す時間に早朝の稽古が終わるようで、朝から鍛錬している隊士の方々とは立ち話をするようになった。最初は手際の悪さを心配されたものの、笑いながらもコツとか洗う順番とかの細かいところを教えてくれる面倒見の良い人が多くて本当にありがたい。なんとなく学校の同級生の男子を彷彿とさせる親しみやすさがあって、彼らとの軽口の遣り取りが楽しみだったりもする。
 井戸に水を浴びにいくだろう彼らと別れて玄関に向かう。新選組屯所といっても結構お客さん――会津藩あたりの偉い人とか、どこかの役人だとか武家の方々とかがそれなりの頻度で来るようで、毎日掃除をするのが大変だったりする。要らない文句をつけられないためにも、相手に付け入る隙を与えないように完璧なおもてなしが求められるようだった。さすがにそういう所作は身に着けてはいないため、接待要員ではなく、裏方に徹するよう言われ、実は結構安心した。実家は洋風建築で全室フローリングだったし、畳に接する機会もあまりなかったくらいだ。昔ながらの文化や所作を身に着けるにはまだまだ掛かりそうだったから、掃除で疲れるくらい随分とマシに思えた。
 いつものように玄関を掃除していると、「なまえちゃん」と背中に声をかけらた。


「あ、藤堂さん!おはようございます」
「おっはよー!今日も朝からかわいいねー!」
「ありがとうございます。藤堂さんもお元気そうで何よりです」
「っふは、それって遠回しにバカにしてるやつっぽい」
「っ、ち、違いますよ!」
「あははっ、大丈夫、わかってるよ!なまえちゃん焦りすぎ!」
「もー、からかわないでください」
「なまえちゃんって兎ちゃんっぽいけど、そういう顔してると猫ちゃんみたい。こう毛を逆立てた感じの」
「……正直、そういうのはちょっと」
「ごめん!謝るから引かないで!冷たい目で見ないで!」
「ふふっ、冗談です。藤堂さんと話してると楽しいです」
「なーんだ、良かったー!」

 にこにこと笑う藤堂さんは初めて会ったときからとても気さくで、姿を見かけるたびにこうして声をかけてくれる。最初は、幕末にもこういう感じの人いるんだ、と驚いてしまったけれど今では慣れてきた。チャラ男といっては失礼だけど、硬派な感じではないのは確かだ。なんとなく昔の人って硬派な人しかいないイメージだったけど、よく考えてみればそんなわけなかった。でも、藤堂さんは本当現代にいてもおかしくないくらいのノリだから、ついつい兄だとか同級生の男子だとかの身近な男の人と話している感覚になる。だから、本当はすごく楽しい。たぶん、だけれど、藤堂さんはすごく優しい人なんだと思う。ただでさえ女性が少ないここに、来て日が浅い私が気負わないようにああいうふうに話しかけてくれているんだと思う。
 自室に行くという藤堂さんを見送って掃除を続けていると、「おはよー、なまえ姉!」とこれまた元気な声がした。顔を上げると、赤髪の少年――鉄くんが片手を大きく振って駆け寄ってきてくれた。その少し後ろには、楽しそうに笑う永倉さんがゆっくりと歩いてくるのが見えて会釈をする。


「おはよう、鉄くん、永倉さん。稽古ですか?」
「たった今終わったとこ!いやー、やっぱ強ェのなんの!でももう少しで勝てそうな気がするんだ!」
「誰が、誰に勝つってー?あんなこてんぱんにやられといて!」
「うっ、でも、俺だいぶ強くなったんだって!」
「いやー、あれじゃ鉄っちゃんの目標の総司どころかサイゾーにさえ勝てるかどうか……」
「いやいや!さすがにサイゾーには勝つって!」
「いやー、実はサイゾーはああ見えて土方さんより強ェんだ」
「ま、まじで!?」
「さぁ?」
「さぁってなんだよ!さぁって!」
「まぁでもサイゾーのすばしっこさや無害そうに見えて賢いところは見習うべき……カモ」
「いやそれ適当でしょ!」

 にこにこと笑う鉄くんをよく見ると頬に痣があって苦笑する。彼を見かけるたびにどこかしらに怪我をしているから、いつも心配になってしまう。「手当てしないとだめだよ?」と頬を指させば、なぜかお礼を言われた。なまえ姉と呼ばれているからか、彼の私に対する接し方がそうさせるのか、本当に姉にでもなった気分になる。
 屈託なく笑って話を続けた鉄くんだけれど、追いついた永倉さんが後ろから鉄くんの頭にチョップを落として漫才みたいな遣り取りをするから思わず笑ってしまう。確かに沖田さんの言う通り、藤堂さんや原田さん、鉄くんと一緒にいるときの永倉さんは本当に別人みたいにツッコミやボケを連発している。寡黙な人だと思っていたけれど、確かにすごく楽しい人だった。そんなことを思っていたら、兄である辰之助さんに呼ばれていたことを思い出したという鉄くんは慌ただしく挨拶すると、あっという間に駆けていった。嵐のよう、なんて思って小さく笑うと、横で永倉さんも笑っていた。


「いやー、すっかり懐かれたね、みょうじさん」
「はい。弟ができたみたいで楽しいです」
「ほーんと、鉄っちゃんって、ものすごく弟って感じだもんね」
「いろんなところで自称兄やら姉やらを大量生産してそうで心配になります。まぁ私もその一人ですなんですけど」
「ははっ、確かに!」
「……っ」
「ん?どしたー?」
「いや、なんでもないです!永倉さんはこのあと朝ごはんですか?」
「うん。みょうじさんはもう少し掃除?」
「はい。もうすぐで終わるので、あと一息ですね」
「いつもありがとね。無理しちゃだめだよー?」
「あ……っ、ありがとうございます」

 私の言葉を聞いて楽しそうに笑った永倉さんの笑顔を直視してしまって思わず息を呑む。前々から永倉さんの顔って整っているなぁ、と感じていたけれど、今の笑顔はものすごく格好良かった。ときめいてしまったのを悟られないように笑顔でごまかし、話題を変える。とくに突っ込まれなかったことに安心していたら、まさかの労いの言葉に再びときめいてしまう。今までそんなことを誰にも言われたことはなかったから、少し泣きそうになった。褒められるのって嬉しい、と久しく感じていなかった思いが芽生えた。
 そのまま少しだけ立ち話をして、朝食に行く永倉さんの背中を見送る。よし、と気合をいれて再び手を動かした。





「なまえちゃん、味どう?」

 隊士の方々が大体食事を食べ終えたころ、炊事場の横にある小さな座敷で歩さんと食事を取るのが日課だった。柔らかな笑みを浮かべた歩さんの問いに大きく頷いて、「おいしいです」と答える。「良かった」と笑った歩さんにしばらく見とれて、慌てて自分の分の食事を再開する。彼女は本当に綺麗な人だ。
 ここ八木邸では多くの新選組隊士が生活をしている。私と歩さんを除いた全員が男性であり、一緒に食卓を囲むことはない。少し寂しく思うけれど、一方でとても気楽だった。私の事情を彼女は知っているし、それでなくても同性というのは心強い。食事をとって少し休憩しながら仕事の打ち合わせをして、その後で各々の仕事の続きをするのが常だった。私は基本的に掃除や洗濯などの衣と住の部分、歩さんは食事の部分を担っている。まだ食事の部分を手伝っていない分、食事のたびにほんの少し気まずくはなるけれど。


「ここでの生活、だいぶ慣れた?」
「はい、おかげさまで、少しずつ慣れてきました」
「良かった。困ったこととかない?」
「はい、今のところ大丈夫そうです。皆さん良くしてくださるので」
「それならええわ。まぁ、あんま無理せんと、休むときにはゆっくり休むんやで?」
「はい。ありがとうございます」

 優しく微笑んでくれる歩さんにお礼を言って食後のお茶を飲む。歩さんは本当に優しい。それは他の人もそうで。私の事情を知っている人もそうでない人も優しい。だからこそ、胸の中に小さな棘が刺さっているような気がする。優しくされればされるほど、時々辛くなる。けれど、それがどういう感情からきているのか、自分でもいつもわからなくなるのだ。

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