――彼女が現れてからひと月が経った。
最初は様々なことに苦戦していた様子だったが、要領の良さもあるだろうが、何より本人の努力によって随分とここでの生活に慣れたようだ。元々人当りが良いんだろう。誰から話しかけられても嫌がる素振りなく受け答えしているようで隊士たちからも随分と人気のようだった。
あれは半月ほど前のことだ。彼女が屯所で働きはじめて二週間くらい経ったころ。総司は少しだけ体調が悪かった。破落戸の始末や遊郭に潜むお尋ね者の捕縛と立て続けに捕り物があり寝不足だったのと、その数日前に夕立に降られ随分と濡れてしまった所為で、きっと風邪をひいてしまっていた。けれど、ほんの少しのだるさと熱っぽさだったがために普通通り過ごしていた。それはそう、いつものことだった。少々体調が悪くても、笑顔でいれば誰も詮索してこない。元々笑顔をつくるのは得意だった。だから誰からも心配されるはずはないと思っていた。少し寝れば治るとも。
鉄くんとサイゾーが争い――もとい、じゃれている様子を見ているときだった。不意に通りがかった彼女が、鉄くんには聞こえないように声を潜めて、こっそりと話しかけてきたのだ。
――風邪のひき始めには、大根と蜂蜜を一緒に食べると良いんですよ。あんまり無理されないでくださいね。
正直いえば本当に驚いた。誰にも気づかれないと思っていた体調不良を彼女はいとも簡単に言い当て、かつ、それを隠していることを悟ってこっそりと話しかけてきたことに。そのあと、山崎さんに言ってくれたのか、こっそりと自分にだけ出された大根の蜂蜜漬けが思いのほかおいしかったのと本当に体調が回復したことに二重に驚いた。
彼女はおっとりしているようで、その実人のことをきちんと見ているようだった。それが元々の性分なのか、慣れない場所で気を張っているがためのことなのかはわからなかったが、驚いて――そして嬉しかった。
友達、と言ったのは、彼女への同情もあった。助けて、と言ってくれた彼女に報いたいとの思いもあった。けれどそれ以上に、未だすべて信用してはいない彼女に対する申し訳なさの発露でもあった。あのときの彼女の言葉は嘘ではないと思うし、あのとき叫んだ言葉は本心だろう。けれど、自分の中の一片が未だ彼女を信用してはいないのだった。
きっと彼女もそれはわかっているんだろう。
総司から見て、この屯所のなかで彼女と一番話しているのは自分だった。けれど彼女は総司に対してさえも、あまり踏み込み過ぎず、適度な距離感を保っているようだった。それはきっと、総司の一片の警戒心をわかっているからだ。
有難く思う一方で、少しかわいそうにも思った。彼女は本当の意味でこちらの住人と打ち解けることはなかなかできないだろう。時の経過とともにいくらこちらが彼女を信用していこうと、彼女には帰る場所がある。だから本当の意味で彼女が心を開くことはきっとない。どれだけ仲良くなろうと、心に思う景色が違うのだから。
ただ、せめてここにいる間は、少しでも不安がなくなってほしい。
彼女を見習って、その表情をよく観察していると、彼女の心の機敏が手に取るようにわかった。元々喜怒哀楽が表情に出やすいんだろう。そこに彼女の事情を知った上での予測を当てはめると、彼女がひどく不安になっている瞬間がよくわかった。だからそういうときにはそばにいるようにした。自分の言葉で少しだけ表情が明るくなるのを見ると嬉しかった。一片の警戒心という罪悪感を抱きながらでも、あの日彼女がくれた優しさに少しは報いることができているような気がするのだった。
なまえという人は柔らかな人だった。
彼女の纏う空気は、ただひたすら穏やかで柔らかくて、そばにいると心が凪いでいく。彼女の住む未来の日本はとても平和なのだという。人を殺めずとも良い世の中。食うに困ることはほとんどなく、自由に生きていくことができる。総司にとってそういう世は想像しきれなかったが、彼女は、その中で生まれ、周囲に愛されて育まれてきたからこそ自然にそんな雰囲気を纏うようになったんだろう。なまえの纏う平和的な空気が無意識に人を惹きつける。総司も例外ではなかった。一片の警戒心はうらを返せば予防線なのかもしれなかった。彼女がそうであるように、総司もまた別れを意識して彼女と向き合っているためだ。彼女には帰る場所がある。だから、本当の意味で心を開いて打ち解ければ――別れが辛くなる。
自分となまえは根本的によく似ている。それでいて正反対だとも思う。総司にとって、なまえは眩く、また面映ゆくうつる。憧憬にも似た、そうしていくばくかの恨めしい思い。自分は“そう”としか生きれないのに、彼女はどうしてあんなにも“きれいに”生きれるのだろう。生まれる時が違えば、自分も“そう”生きれたのだろうか。
似ているからこそ、彼女と自分のちがいが辛くなる。生まれる世が違えば、なんて今まで考えたことはなかった。けれど、彼女を見ているとそう思わずにはいられなかった。
なまえに話しかけていた隊士が手を振って去っていき、彼女が掃除に戻ったのを確認して再び足を進める。消そうと思えば気配を消すことはできたけれどあえてせずに近づけば、間を空けずに彼女は総司を見つけた。ふわり、と浮かべられた微笑みに満足して、総司は彼女の名前を呼んだ。
苦い思いも確かにある。けれどそれ以上に、彼女と話すと楽しかった。幼いころ、自分のことを受け入れてくれた土方さんや近藤さんへ感じる全幅の信頼感とはまた違う感覚。総司はその感情の名前を知らなかった。知らなくて良いと思った。
「お疲れさまです」
鈴のようにやわらかな声は不思議と心に残る。お礼を言えば、近くにいたのかサイゾーが駆けてくる音がして、あ、と思ったときには彼女の頭の上に乗ってしまった。満足げにもふっと頭に乗るサイゾーと、驚きすぎて固まったなまえとを見比べて思わず吹き出す。総司の笑い声で我に返ったなまえは、けれどサイゾーを無理におろすことはせず、そっと手を伸ばしてその毛並みを撫でた。心なしか幸せそうなサイゾーと、諦め顔のなまえを見て、さらに笑いが込み上げる。誰かさんみたいに叫びはしないけれど、確かに癒される光景だった。
「もー、笑ってないで取ってください」
「ふふ、良いじゃないですかこのままで」
「重いー、んです。こら、サイゾー、降りなさいー」
「なまえさんずっと動いているでしょう?きちんと座って休憩しましょう。きっとサイゾーもそう言いたいんですよ」
「え……そうなの、サイゾー?」
彼女の問いに短く鳴いて肯定したサイゾーに小さく笑う。少し渋る彼女を言い包めて縁側に向かう。今日は本当に良い天気だからこそ、休憩を取りながらでないと倒れてしまう。休憩をとる流れになったことでサイゾーが彼女の頭からどいて先導するように駆けていった。その様子を穏やかな目で見守った彼女は、とても優しい表情をしていた。
「なまえさんはよく懐かれますね」
「嬉しいものですね。日々楽しいです」
「それは何よりです」
「いつもありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは何もしていませんよ?」
「……いつも見守っていてくださるじゃないですか。不安なとき、沖田さんの言葉で元気が出ます」
「友達って言ったじゃないですか。当たり前ですよ」
「それでも。ありがとうございます」
念を押すように繰り返した彼女は、そのまま言葉を続けた。
「近藤さんからここで働くことを提案されたとき、私の行動を見張るにはちょうど良いんだろうなって思ったんです」
「……ええ、そうですね」
「でも、実際に働いてみて、私は勘違いしていたんだなって気づきました。近藤さんは――皆さんは、私に“居場所”をくれたんですね。ここにいても良いんだ、と思えるよう、仕事を与えてくださった。意図はどうでも良いんです。結果的に私は自分の境遇にそこまで絶望していないんです。だから、沖田さん、ありがとうございます」
「……近藤さんから?」
「聞きました。私の事情を聞く前に、もしも行き場が無いのならここで働いてもらえば良いと提案したのは沖田さんだって」
「口止めしたのに……」
「近藤さんも言うつもりは無かったみたいなんですけど、つい、って言っておられました……」
「なまえさんの予想通りの意図でそう言ったんですよ。お礼を言われることじゃないです」
「そうだとしても。私は沖田さんに助けてもらってばかりです」
「……私もなまえさんに助けてもらってますよ」
「私何もしていませんよ。してもらってばかりです」
「そんなことないですよ。でも、んー……具体的には内緒です」
「えっ、なんですかそれ……私何してるんです!?」
「ふふっ、そういうとこですよ」
あなたのそういうところに元気をもらっているんです、とは言わずに微笑むだけにとどめる。言ってしまっても良いけれど、反応が存外おもしろかったため言わずにおく。穏やかで優しくて柔らかくて、喜怒哀楽がわかりやすい。おっとりしているようで芯が強くて、そうしてあまりにも素直な人。彼女がここに来てから毎日がさらに楽しくなった気がする。だからお礼を言うとすればこちらの方だった。
彼女の境遇には同情しているし、助けてあげたいという気持ちはもちろん本心だ。
けれど、出会えて良かった、という思いもまた本心だった。
