安心したような笑顔に、ついつい自分の頬も緩んでいくのを感じた。不思議と目頭が熱くなる。
事の発端は、ある非番の日のことだった。自室――といっても数人で雑魚寝をしている部屋だが――に顔を覗かせた賄いの女性――みょうじなまえに開口一番、弟子にしてほしい、なんて言われたのが始まりだ。彼女と弟は仲が良いらしく、よく話題には出てくるものの、実際に話す機会が無かったことからそれが初対面だった。弟の世話で予測できない事態というものに慣れているはずではあったが、さすがに面食らってしまった。うまく返事のできない俺の様子を見てか、彼女はハッとした顔をしてから少し恥ずかしそうに笑って経緯を説明してくれた。
つまり、裁縫が大の苦手だから教えて欲しいということだった。俺のことは、てっきり弟から聞いたのかと思えば、まさかの土方副長から聞いただとかで、その土方副長は弟から聞いたというものだからあらゆる意味で胃が痛くなった。天真爛漫なのは弟の良いところでもあるが、結構な頻度でこうしてひやりとすることも多い。俺のことなんか副長みたいな偉い人に話すな、と口酸っぱく言い聞かそうと決意した。
顔色が悪くなっているだろう俺を見て、少し表情を曇らせたなまえさんに、慌てて了承の意を伝える。弟の口ぶりからすると、彼女にいくらか迷惑を掛けているのだろうし、そもそも教えることは嫌いではないのだし。
そうして了承したものの、思いのほか彼女は不器用だった。実際やってみてもらったら、どこをどうすればそんなに糸が曲がるのかというくらい縫い目がガタガタになってしまうし、力加減が難しいのかすぐ糸が切れてしまうし。何度やっても上達しないし。内心、少しだけ呆れてしまったし、正直に言えば、ここまで不器用だと裁縫は無理ではないかとも思った。けれど、そう言ってしまえなかったのは、彼女の指が傷だらけだったからだ。何度も何度も針で刺しただろうそれは、痛々しいものだった。水仕事で赤く荒れているのも相まってとても痛いだろう。けれどそれでも投げ出さない、諦めないのは、すごいな、と思った。
一日では時間が足りなくて、時間があるときには練習に付き合った。日が経つにつれて俺の助言を吸収していくのを見ると、とても嬉しかった。
そうして、教え始めて半月ばかり経ったころ、縫い目が曲がることなく糸が切れることもなく無事に縫い終わることができたのだった。
「ありがとうございます、辰之助さん……!」
「いや、なまえさんが頑張ったからだよ」
「そんなことないです。私一人だったら絶対に無理でした」
「……まぁ、それは、そうかも」
「少しは否定してくださいよー……もうっ」
「ごめんごめん」
ぷくり、と頬を膨らませたなまえさんに謝れば、不満そうな表情をすぐに消して嬉しそうに笑った。嬉しそうに、にこにこ笑う笑顔に、思わず胸の奥が小さく跳ねた。
彼女の上達が嬉しいのにどこか寂しかった。できるようになってしまえばもうこうして二人で会うことも無くなってしまうだろうから。
元々女性と話す機会もあまりない生活だったから、最初はものすごく緊張した。でも、なまえさんと過ごすうちに、いつしか心地よさを覚えていった。なまえさんの持つ穏やかな雰囲気は、隣にいる俺まで優しい気持ちにさせてくれたから。いつの間にか名前で呼んでしまっていたくらいだ。そうして最早それに違和感すら抱かないくらい、一緒にいることで心が凪いでいる。
「さみしいな」
「え……?」
「え?あーー……、えっと、今のは、なんでもない。うん。気にしないで」
そんなことを考えていたら、ぽろりと本音が零れてしまって、慌てて打ち消すもののしどろもどろになってしまって穴を掘って埋まりたい気分になった。彼女の反応が怖くて、視線が定まらなかった。立ち上がってどこかに行ってしまいたかったが、自分の部屋の縁側だから逃げようが無かった。
「……私も寂しいので、練習抜きでもお話しに来ても良いですか?」
「え……?」
「私の中では勝手にお友達と思っているので、辰之助さんが嫌だと言っても来ますけど」
「……嫌なわけない!……あー、うん、いつでも来てくれ」
「それなら良かったです」
嬉しそうに笑ったなまえさんが、きらきらして見えてしまって、思わず視線を逸らす。この感情に名前を付けてしまったら後戻りできない。今はただ何も考えずに、このまま穏やかな時間を過ごしたかった。から、浮かびかけた想いを頭の中で打ち消す。どこか心の奥が軋んだのを遣り過ごして、微笑みを浮かべた。
