なまえは、薄曇りの空を見上げて思わず頬を緩めた。薄い綿の隙間から光が差しているような空だった。東の方から黒く濃い雲が迫り出している。そのうちあれが空を覆うんだろう。
季節は五月を過ぎて、六月――梅雨となっていた。元々なまえは概ねの意見に漏れず、梅雨は苦手だった。湿気で髪はうねるし、洗濯物は部屋干しになってしまうから生乾きの匂いがするし、雨の日の通学は面倒だし。
けれど、雨の匂いは好きだった。梅雨から初夏にかけて咲く紫陽花はなまえが一番好きな花であったし、降り頻る雨の音を聞くのも好きだった。だから、梅雨は苦手ではあったけれど嫌いではなかった。
コンクリートがない影響なのか、それとも温暖化とは無縁だからなのか、なまえの知っている梅雨よりも幾分か涼しくて過ごしやすいことをここ数日実感していた。湿気を含んではいるけれど、じとじとと嫌な暑さは無かった。百五十年違えばここまで違うのか、と何度も繰り返し考えてしまうほど。
ううん、と伸びをする。縁側に腰を掛けてぐるりと首を回せば、ごきっ、と凡そ普通では出ないような音がして思わず苦笑する。昨日はあまりにも疲れてしまったから、今日の仕事が繕い物で本当に良かった。
ここ数日滅多に無かった快晴だったから昨日は歩さんの指揮のもと、若手の隊士さん方と一緒に一気に洗濯物を干したり取り込んだり布団を干したり、草履を干したりと、とにかく動きに動いた一日だった。人数を活かして大掃除までしてしまったから今日はほとんど掃除をしなくても問題ないほどだった。その分、今日する仕事といえば繕い物くらいだった。筋肉痛の体には有難い。辰之助さんのおかげでまともに繕えるようになってからきちんと任されるようになってすごく嬉しかった。無心になってできる繕い物はできるようになれば好きな部類の仕事だった。
「みょうじさん」
不意に聞こえた声に、なまえは驚いて顔を上げた。いつの間にそこにいたのか、穏やかに微笑んだ永倉さんがすぐそばに立っていた。息を呑んだなまえのことをどう思ったのか、少しだけ困った顔をした彼に慌てて首を振る。大丈夫であることを伝えようとした私のその動作の意図を汲んでくれた彼は、ひとつ頷くとそのままその場に座った。はい、と差し出されたものを反射的に受け取れば、それはひんやりとしたお茶だった。
「無理しすぎだよー?」
「え……?」
「俺さっきからあっちの物置と自分の部屋何度か往復してんだけど、その間、みょうじさん全然休憩してないでしょ?」
「え?」
「通るたびに繕い終わった物は増えてくのに君は全然動かないし、体勢も変わってないし。そもそも俺が通ったことにも気づいてない感じだったからサ。集中すんのも良いけど、お茶くらい飲んで。ね?」
「あ……、えっと、ありがとうございます」
自分ではそんなに無理をしている感じはしていないけれど、彼が言うのならそうなのかもしれない。あまりピンとこないまま手に持っていた針と糸と布をそっと横に置いてから、お茶を飲む。そうすれば自然に頬が緩んだ。
「……おいしい」
「それは良かった」
「ありがとうございます」
お茶を飲んでから、実は自分がとても喉が渇いていたことに気づいた。そんな私の気持ちがわかったのか、永倉さんも小さく笑って、それから彼も手に持っていたお茶を一口飲んだ。
「指、随分と治ったね」
「あ……、はい」
指摘されたそれに慌てて指を引っ込める。随分と良くはなったけど、人に見られるのはあまりにも恥ずかしいくらいに荒れた指先だった。水仕事でのあかぎれに加えて針で突き刺した跡や、草抜きをしているときにできた細かい擦り傷とか数え切れないほどの傷が手にある。
「正直、すぐに音を上げると思ってたんだ。ここに来たばかりのとき、みょうじさんの手、あまりにも綺麗だったから。傷ひとつない手をして、汚いものとは無縁の澄んだ目をして。俺らとは――俺とは違う種類の人間だと思った。でも、そうじゃなかった」
苦笑するような言葉の響きに、少しだけ迷ってから永倉さんに目を向けた。彼は、私の指先をじっと見ていた。少しだけ言葉を迷っているような間のあと、永倉さんはゆっくりと息を吐いた。
「みょうじさんは立派だよ。よく頑張ってる」
柔らかさの滲むような声だった。温かなそれはじんわりと私の体を満たしていって、そうして少しだけ泣きそうになってしまった。誰かに努力を認めてもらえるのはすごく嬉しい。
「ありがとうございます」
繕い物を再開した彼女を横目に、持ってきた書物を読んでいた俺の左腕に、とん、と小さな振動が走ったのは随分と突然のことだった。驚いて斜め下に目を遣れば、すうすうと気持ち良さそうな寝顔が見えて心臓が変な調子に跳ねる。
そういえば昨日は随分と頑張って動いていたな、と思い至って、ゆっくりと息を吐いた。ひとまず読んでいた書物を横に置いて、どうしようか思案する。起こすのは忍びないし、かと言ってこのままというのもどうなんだろうか。そんなことを考えている間に、彼女が身じろぎをして、あ、と思ったときには、もう俺の太腿の上に彼女の頭がずり落ちてしまっていた。
あーあ、と思いつつも、もうこうなってしまったものはしょうがない。なるべく動かさないように着ていた羽織を脱いで彼女に掛ける。少しだけふにゃりと崩れた表情を見て、かわいい、と自然に思ってしまってぐしゃりと頭を掻く。ほとんど人の通らない縁側で良かった、と心底思いつつ、横に置いていた書物を再び開く。さっきまでと違って内容が中々頭に入っていかないが、かと言って他にどうしようもない。
「お、かあさん……」
それは本当に小さな声だった。吐息と言ってもいいくらいに擦れていて、だから聞き取れたのは偶然だった。はっ、として下を向けば、彼女は、ともすればそのまま泣いてしまいそうな寝顔をしていた。
少しだけ逡巡したあと、ぽんぽん、と背中を撫でる。そうすれば少しだけ安心したような顔になったから、今度は頭をゆっくりと撫でる。
ぽつ、ぽつ、と雨粒が地面を濡らして、気が付けば、さあ、と煙るように雨が降っていた。
「 」
だからその無意識の中で何と言ったのか、自分自身わからなかった。意識しないうちに落ちた言葉は、誰にも拾われないまま、自分にさえ聞こえないまま、ただ、ゆっくりと溶けて消えていった。
ぼんやりとした曖昧な心の変化の中で、ただ、彼女という存在が少しづつ根付いているのは確かだった。
