流転する世界

「なまえちゃん、遅くなってしまって堪忍な」

 昼食の後、申し訳なさそうに眉を下げた歩さんが差し出してくれたそれに思わず息を呑む。白地と藍地に牡丹。それは間違いようもなくあの日着ていた浴衣の生地だった。固まってしまった私をどう捉えたのか、歩さんが心底申し訳なさそうな顔になってしまって、慌てて首を振る。驚いたのは、もう返って来ないと思っていたからだった。


「ほんまは巾着とか作ってあげたかったんやけど、手拭きと――それからこれは御守り。どうしようか迷ったんやけどね。少しでも身に付けれるもんにしてあげたくて」
「……っ、ありがとうございます」

 少しだけ声が震えてしまった。懐かしさと、慕わしさ。スマホは結局返ってきてはいないけれど、どっちみち充電できないから持っていても仕方がない。おおっぴらに外には出せないのだし。でも、この浴衣――布地は持っていてもあまり不審ではなく使えるからすごく嬉しかった。少しでも現代と繋がっていられる。それは思いのほか私の心を一杯にした。





 しとしと、と降り始めた雨は、柔らかな光の中で輝いている。薄くたなびく雲の間から差し込む陽光が随分と広がっていて、もう間もなく雨が上がる予感を感じさせた。


「狐の嫁入りですねぇ……」
 
 雨上がりに備えて洗濯の準備をしていたなまえの背後から、滲むような声がした。振り向けば、じっと空を見つめる沖田さんが柱を背に立っていた。彼は私と目が合うとにっこり笑って、私の名前を呼んだ。


「はやく止むと良いですね」
「そうですね」

 数日で溜まってしまった大量の洗濯物を見てか、苦笑した沖田さんの言葉に深く頷く。本当に、こういうとき文明の利器がとても恋しくなる。そんなことを考えてぼうっと手元を見ていれば、ふと、柔らかな声が聞こえた。


「戻ってきたんですね」

 なんのことかわからなくて首を傾げて沖田さんを見上げれば、彼は口角を上げて微笑みながら、それ、と指し示した。彼の指の先を辿って、漸く先ほど歩さんから貰った手拭いのことを指しているのだと気づいた。はい、と頷いてそのまま手拭いに触れる。帯の隙間に差し込んだそれは、この後仕事が一段落したら自室まで置きに行こうと考えていたところだった。


「残念ですね、見事な浴衣だったのに」
「……いえ、布地だけでも充分です」
「そんなにも価値が?」
「いいえ。ただ、両親が買ってくれたものですから……」
「そうなんですか」
「だから、言い方は悪いですが……父と母の形見みたいに感じてて。私にとってはとても大事なんです」
「……そうですか」

 分厚い雲で隠れたのか、太陽の光が遮られた。視線を庭に戻す。葉々を滴る水の音は、記憶の扉を開ける鍵のようだった。"向こう"での思い出が頭の中を駆け巡る。雨の匂いも、雨粒の音も、変わらない。変わらないのに、こんなにも遠い。思い出の中の人は、ここには誰もいない。
沖田さんは、そのまま少しの時間ただ黙ってそこに立っていた。どのくらい経ったのか、また陽光が差し込んだのを切欠に、私の肩を小さく叩いて廊下を歩いて行った。なんとなく彼の言いたいことがわかってゆるゆると息を吐く。しとしとと降る雨の間隔が開いていく。きっともうすぐ雨が上がる。
 ――会いたい。
 ただ、堪らなく家族や友人に会いたかった。
 どんどん増していく光の量に雨上がりを予感する。手拭いをぎゅうっと握ってから、大きく深呼吸をして、伸びをすれば少しはマシな気持ちになった。感傷に浸るのはいつでもできる。でも、晴れ間は少ししか無いから、まずは洗濯をしないと。そう思って気合を入れた瞬間だった。さっきよりもさらに申し訳なさそうな顔をした歩さんがやや早足で歩いてきたのは。 


「どうしたんですか?」
「なまえちゃん、ごめん!」
「え……?」

 私の目の前で両手をパンッと合わせて、頭を下げてきたから思わず大きく瞬いてしまう。けれどその疑問は、その直後言われた言葉で吹き飛んでしまった。


「ウチの弟と一緒にお茶請け買うてきて!」





 横から感じる明らかな不機嫌オーラに思わず小さく息を吐く。しょうがない、と思いつつも気まずい空気に胃のあたりがシクシクと痛んだ。歩さんによると、午後から急な来客の予定が入ったがためにお茶請けのお菓子が足りないとのことだった。そんな日に限って馴染みの店は急なお休みで。少しだけ離れたところにある店まで買いに行かないといけないようだった。
 私ひとりという訳にもいかないし、そもそも京の地理なんて微塵もわからない。非番の永倉さんは、藤堂さん、原田さんと出掛けてしまったようで、沖田さんは午後からも隊務だし、局長、副長と一緒というわけにもいかない、ということで、私の事情を知ってて時間が空いているのが歩さんの弟――山崎烝さんだけだった。
 けれど、私は彼とまったく話したことが無かった。というか、あの夜以降で見かけたことが無かった。
 どうしようと思っているうちに歩さんに背を押されるように玄関に行っていて、すでにそこに立っていた山崎さんが歩き始めたから私も着いていくしか無かった。屯所を出るころから感じてはいたものの、彼は私に敵意どころか何の感情も持っていないようだった。歩くたび重くなるような沈黙からは、明確な拒絶を感じた。けれど、一言も言葉を発しない彼に着いていくしか今の私に選択肢は無かった。背の高い山崎さんと私では足の長さがまったく違うから少し早歩きになる。周りを見る余裕なんてなくて今自分がどこにいるのか全くわからなかった。
 何度か話し掛けようかと考えては、無言の圧力に口を閉ざす、を繰り返しているうちに賑やかな場所に出ていた。


「わ……」

 そこで初めて辺りを見回すと、思いのほか色鮮やかな出店があって、少しだけ目を奪われる。時代劇で見るような町人そのものの姿をした人々が往来していて、思わず立ち止まってしまっていた。すごい、と感嘆の息を漏らした瞬間、近くで大きな舌打ちの音がしたかと思うと、山崎さんが私の腕をぐいっと引いた。


「そないなとこで立ち止まったら邪魔やろ。少しは考ええ」

 初めて声を聞いた、ということよりも、その威圧感に思わず体が震えた。怯えの過っただろう私の顔を見つめた山崎さんは、フン、と鼻を鳴らしてまた歩き出す。


「……すみません」

 声が震えてしまったのは彼への畏怖というよりは、自分への情けなさからだった。仲良くしたって、と微笑む歩さんの顔が過ってしょんぼりと息を吐く。仲良くなるどころか早々に嫌われてしまったようだった。まぁ万人に好かれるわけじゃないのは当たり前だし、あのとき私の話を聞いていたのだから私のことを信用していないのもわかる。それを如実に出されているだけのことだ。新選組の長である近藤さんが私の処遇を決めているはずだから、それに背いて反論するわけではない。けれど、個人としては関わりたくない。今回は歩さんに言われたからしょうがなく、というところだろうか。立てた予測に傷つかないわけではないけれどしょうがないかとも思う。それだけ怪しいのは自覚している。
 無言で先を行く山崎さんの背中を見つめてから、ゆっくり息を吐く。仲良くなんて到底無理に思えた。何よりも彼は望んでいないだろう。だとすれば今回は無難に買い物を終わらせて、とくに関わるのはやめよう。そう決意して着いていけば、いくつかの通りを過ぎたあと、ひとつの建物に着いた。そこには色とりどりの和菓子があって、山崎さんが手際良く個数を告げていく。あれ、これ私必要ないんじゃ、と思ったのが伝わったのか、山崎さんが私を一瞥して冷めた視線を送ってきた。


「次回はあんた一人かもしれへんのにえらい余裕やな」
「え……?」
「どういうときにどういう菓子出すんか、そんくらい覚えんと賄い方としては出来損ないやで」
「へ、え……っと?」
「周りに助けられて手取り足取り良いご身分や。あんたのそういうところ反吐が出るわ」
「……っ」
「――そんじゃ頂いてくわ。おおきに」

 忠告めいた言葉を理解しきる前に、店主に声を掛けた山崎さんはさっさと出ていってしまう。慌ててその背中を追いかけつつさっきの言葉を反芻する。正直日々の生活を成り立たせている事柄を覚えるので精一杯で、そういう類のことは覚えるのを避けていた自分がいたのは確かだった。文化的なこととか、おもてなしのこととか。難しそうだし、平成の世を生きる私には必要のないことだと無意識の内に切り捨てていたのかもしれない。さっきの山崎さんの言葉は、自身さえ理解していなかった私のそういう部分を理解しているかのようだった。確かに、私は、状況に甘えていたのかもしれない。ゆっくり慣れていけば良いと、自分自身を甘やかしていたのかも。でも、それは山崎さんから見たらただ飯食らいに見えているのかもしれない。


「泥棒だァ――掴まえろォおおお!」

 そんなふうに深く考え込んでいたから、全然周囲に気を配っていなかった。だから急に聞こえた大声に文字通り飛び上がる。慌てて周囲を見渡す前に、ドンッという衝撃を感じて体が跳ね飛ばされた。目を見開いた私の視界に大きく迫り出した木の枝が見えた。このままだと直撃する、と強く目を瞑った瞬間、耳元で大声が聞こえた。それが誰の声か理解する前に、体を大きく引かれた。温かい、と感じた瞬間には、地面に投げ出されていた。強い衝撃が去って目を開ければ、地面に広がる鮮やかな赤が見えた。


「……え、」

 そのまま視線を横に滑らせれば、私をかばうような姿勢で横たわる山崎さんが見えた。彼の着物の袖がじわじわと赤くなっていて、何が起きたか悟った私は思わず彼に駆け寄る。血の気が引くというのはこういうことだと思った。

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