移ろいゆくもの

 焦って思わず山崎さんの名前を何度も呼べば、「聞こえとるわ」と短く返事が返ってきた。ひとまず無事を確認してほっと息を吐く。私の声にか、それとも痛みにか顔を顰めた山崎さんは起き上がると私を睨みつけて舌打ちをした。


「何ボサッとしとんねん!」
「……ごめんなさい」
「俺がおらんかったら、あの木にグサッといっとんねんで!」
「……っ」

 その勢いのまま、さっきの状況を説明された。どうやら私にぶつかっていったのは泥棒を追いかける一団だったらしい。ぼうっと歩いていた私が丁度邪魔な位置にいたために薙ぎ払うように隅に追い立てられたのが勢いがつきすぎて普通では有り得ないくらいに飛ばされてしまったというのが顛末だった。あまりに大きな声で怒鳴られて、思わず肩が震える。そんな私を見た山崎さんは溜息を吐くと、私に背を向けた。そのまま、血の出ている腕を気にする素振りも無く歩き出そうとした彼を慌てて制止する。なんや、とドスのきいた声で睨みつけられたけれど、このときばかりは怖気づくわけにはいかなかった。懐を探って目当ての物を取り出すと、山崎さんの腕を引っ張る。まさか私に引っ張られるとは思っていなかったのか簡単によろけた彼を道の端に引っ張っていって、怪我している方の袖を捲り上げる。唖然とした気配を感じたけども、未だ血を流し続けるそこを持っていた手拭いできつく縛った。傷口を綺麗にしたいけれど清潔な水を持ち合わせていないから一先ず止血だけでもしないと。
 手拭いは一気に血を吸って赤くなる。けれど、後から後から垂れてくる血の量が減ったのは確かだった。このまま急いで屯所に帰って水で洗い流せば手当ては間に合うだろうか。そうであって欲しい。


「……ちょお待ち……っ、これ」

 自分の所為で誰かに怪我をさせてしまったことに、私はもう祈るような心地だった。
 だから妙に焦ったような山崎さんの態度に、私は本気で意味がわからなかった。のだけれど、彼の視線で、この手拭いのことを言っているのだと気づいた。ああ、と納得する。彼はあの夜、あの場に居たのだった。それならこの布地のことを知っているのもおかしくない。でも、私をかばった挙句に怪我をしてしまったこの人の方が、この布地よりも大事だった。


「……良いんです」
「……」
「母も父も心の中にいるから、良いんです。例え、きちんとかたちとして残らなくても、あの浴衣を買ってくれた両親の気持ちはきちんと心の中にあります。だから、良いんです」

 ゆっくりと説明すれば、山崎さんはしばらく黙ったあと大きく息を吐いた。


「……後悔すんで」
「大丈夫です。それよりはやく帰ってきちんと傷口を洗わないと」

 急かすように言えば、振り返った山崎さんが何か言いたそうに口を開いたけれど、結局何も言わないまままた正面を向いた。少しの沈黙の後、何も言わずに歩き出した彼に倣って歩き出す。いくらか進んでから、今度は前向いて歩きや、と鼻を鳴らして言われた言葉に頷く。たぶん嫌味なんだろうけれど、正論だからこそ腹も立たなかった。


「あ、あの……っ、今更なんですが、ありがとうございました」
「ほんまに今更やな」

 そういえば動転してお礼も言っていないことに気づいて慌てて声を掛ければ、フン、と鼻で笑われた。すみません、と謝れば、無言で舌打ちをされる。早歩きの足を緩めないまま、山崎さんは小さく息を吐くと、「悪かったな」と呟くように言葉を落とした。予想外過ぎる言葉に思わず思考が止まって、戸惑いの声が漏れてしまう。舌打ちを繰り返した彼は、けれど発言を撤回したりはしなかった。一瞬聞き間違いかと思ったけれど、確かに聞こえたのだから本当にそう言ったんだろう。


「……アンタが元から鈍臭いんはわかっとったんに、動揺させるようなこと言うべきやなかった。ただでさえボサッとしとんに更に注意散漫になんのは予想できたはずや」

 溜息混じりに言われた言葉は、色々と棘はあるけれどつまるところ謝罪だった。失礼ながら人に簡単に謝罪なんてしない性格だと思っていたからすごく驚いてしまった。そう思っているのがわかったんだろう。彼は私の返事なんか聞くつもりはないようでそのまま足を速めた。つんのめりながら追いかければ、そんな私に気づいてなのか、少しだけ歩調が緩む。
 正直怖い人だと思ったし、実際、彼は私と仲良くなりたいなんて微塵も思っていないんだろう。でも、歩さんに言われたからじゃなくて、本音として、仲良くできたら良いなと、ほんの少しだけ、そう思った。

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