ひたむきな未来

 湿気を含んだ重たい風が髪をそよがせる。その風は、まだ暫くは雨の日々が続くことを予感させて、思わず溜息が漏れた。稽古の後だからしょうがないとはいえ、汗をかいた体が気持ち悪過ぎて早く湯浴みをしてしまいたかった。じっとりと汗の滲む額を手拭いで拭くのももう何度目か。そうして風呂場へと急ぐ平助の視線の先に、ふいに背を向けて座るなまえが映った。彼女は、遠目からでもわかるほど沢山の洗濯物と洗濯物の間に座っていた。取り込んだ洗濯物を検分しながら畳んでいるのだろう。埋もれるようなその姿は、彼女の姿をさらに幼く見せている。
 先日から奇跡的に二日続いた晴れ間は、今日はもう曇っている。午後には一雨来るだろう。今日の見廻りは左之の隊だったからあまり関係ないかもしれないが。馬鹿は風邪ひかないって言うし。なんて本人が聞けば流石に怒り出すかもしれないことを考えながら、彼女に声を掛けようとした瞬間、反対側から歩いてくる男の姿が見えた。


「あ、こんにちは、山崎さん」

 彼に気づいたのは彼女も一緒だったようだ。ふんわりと優しい声だった。平助としては、山崎と彼女が話しているところなんて今まで見たことが無かったから少し驚いてしまう。けれど、存外穏やかな声で返事をした山崎に対してはもっと驚いてしまった。接点なんてまるで無かったように思われた二人は、けれど意外にもいくらかは話す仲だったらしい。


「あ!」

 不意に大きな声を出したなまえが、身を乗り出して山崎の着物の袖を握る。思わずといった調子の彼女に、山崎が一瞬驚くのが見えた。けれど、驚いてしまったのは平助も同じだった。


「どうしたんや」
「……あの、ここ、ほつれてて」
「はァ、そんなことで大きな声出すなや。耳の奥がまだキーンってしとるわ」
「や、えっと……ごめんなさい。つい」
「大体こんなんほつれてるに入らんやろ」
「……あの、もし今少しだけ時間あるなら繕っても良いですか?」

 正直言ってびっくりした。若干おどおどしつつも、なまえが、あの山崎と普通に会話していることに。いや、逆か。あの山崎が、なまえと普通に会話していることに驚いた。平助の知る山崎烝という男は、人と慣れ合うことを好まない。それなりに長い付き合いではあるが、平助自身あまり彼のことを深くは知らなかった。
 だから、そんな提案をしたなまえにも驚いたし、それを諾とした山崎にも本当に驚いた。


「……なまえちゃんってもしかしてすごい子なのかも」

 山崎の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。彼女も、おそらくは彼自身も気づかないくらいに一瞬だけ。けれど、じっと彼らの様子を見つめていた平助には間違いなく見えた。思わず一人呟いてしまうほどには信じられない思いだった。だってあの山崎が女の子相手に笑ったんだから。
 すぐに霧散したその笑みの後には、いつもの仏頂面が浮かんでいて。彼はそのままなまえの横に座った。洗濯物がほつれていればその場で縫うつもりだったんだろうか。彼女の横には裁縫道具が揃えてあって、すぐに山崎の着物の袖を繕い始めた。


「下手くそやなぁ」
「うっ、でも、これでも上達したんです……!」
「蟻が芋虫になったくらいやないか?」
「……これから蝶になりますよ、きっと、うん。大丈夫です」
「いつになることやら」
「山崎さんっていじわるですよね」
「ほぉー」
「あ、や、えーっと、でも、優しいところもありますから、総じていえば良い人ですよね」
「……あ、副長」
「えっ、」
「嘘や。なんや、怒られると思ったんか」
「……この間も繕い物に駄目出しされたので」
「知っとる。見かけたからな」
「……やっぱりいじわるじゃないですか」

 二人の会話に少しだけ笑ってしまう。その声が聞こえたのか、彼女が振り向いて、一瞬だけ目を見開いてから、俺の名前を呼んで柔らかく笑った。山崎も珍しく一瞬だけ驚いた顔をしたあと、ばつの悪そうな顔になる。その様子から俺の存在に気づいていなかったらしいことを知って少しびっくりしてしまった。とっくに気づいているもんだと思ってた。
 すっかり立ち止まっていた足を動かして、二人に声を掛けて、それから本来の目的である風呂場に向かう。お疲れ様です、と掛けられた彼女の声に癒されて思わず頬が緩んだ。それは彼女が女の子だからと言っても間違いは無いし、兎みたいでかわいいと常々思っているのもあるし。でも、なまえだから、というのが一番しっくりくる。
 彼女の纏う空気はすごく優しいから。ほっとするし、安心する。


 正直、茶化してしまおうかとも思った。普段にない山崎の素直な行動も、寡黙な彼にしては饒舌に喋る様子も、珍しいし、揶揄いたいという思いはあった。でも、そうしてしまえば山崎は二度となまえには近づかないのかもしれない。それはすごく残念なことだと思った。
 なまえの傍にいると居心地が良い。だから、人を寄せ付けない山崎が、少しでもそれを感じてくれたら、それはすごく嬉しいことだと思う。そのついでにもう少しで良いから丸くなってくれないかと、あの冷ややかな視線で何度も見られたことのある身としては思ったりもするけれど。


「ほんと、なまえちゃんって人たらしなんだよなァ」

 なんだかんだ、あの土方さんも彼女のこと心配してるし。人一倍警戒心の強そうな辰っちゃんも彼女のことは信用している感じだし。彼女が来てくれてから屯所の雰囲気が前よりもずっと良くなったような気がする。


「ずっとここに居てくれたら良いなぁ」

 彼女のまあるい笑顔を思い出しながら思わず零れてしまった言葉は、たぶんきっと俺の――そして、皆の本心だろう。

戻る