朝方には灰色のどんよりとしていた空だったから、今日は日の光は見られないと思っていた。だから、昼前になって晴れ渡った空には唖然として、けれど、とても嬉しく思った。今日は午後から歩さんに行き着けのお店を案内してもらいつつ、買い物の方法を教えてもらうことになっていたからだ。
初めて屯所の外に出た日、山崎さんがどういうふうに近藤さんや土方さんに報告したのかはわからなかったけれど、外出禁止にはならなかった。彼に怪我をさせてしまった申し訳無さから、しばらく提案されたとしても外出を控えようと思っていたのだけれど、とうの山崎さんから早く慣れろとせっつかれてしまえばどうしようもない。あれから、よく利用するほうの和菓子屋さんに二度、山崎さんと買い出しに行った。だからか、もう山崎さんのことを怖いとは思わなくなったけれど、あまり屯所内で会うこともないから打ち解けたかと言われると微妙ではある。
「なまえちゃん、行こうか」
「はい。お願いします」
そんなことをぼうっと考えていたら、勝手口から歩さんが出てきた。にっこり笑うその顔は姉弟だからか、山崎さんによく似ている。とても美人だ。思わず見惚れて、それから誤魔化すように笑う。割烹着を脱いだだけなのに、飾り気のない薄紫色の着物も、彼女が着れば一等美しく見える。こんな人の隣を歩くのは少し勇気がいるけれど、町を案内してもらうのはとても楽しみでわくわくした。沸きだしそうな罪悪感には蓋をして、歩さんの後を追って歩き出す。項に当たった柔らかな風に、後ろを振り向けば、木漏れ日が目に当たった。思わず目を眇めた瞬間、歩さんの声が私を呼ぶ。慌てて返事をした私は、そのまま歩さんの背中を追う。――ちりん、と微かに鈴の音が聞こえたような気がした。けれど、ただ一瞬のそれは、すぐに意識から離れてしまう。小さな、小さな、違和感だけを残して。
「いやぁ、ほんまなまえちゃん可愛いから安くしてもらえて嬉しいわぁ」
「そんなことないですよ……でも、この分だと今夜はおいしい煮物作れそうですね」
「ほんまに。今朝の残りの魚と一緒に煮たらちょうどええね」
「おいしそう……」
「ふふ。おまけしてくれた菜っ葉と豆腐もあるから汁物もすぐできそうやし、今日は献立考えんのも楽やわぁ」
「あの八百屋さん、野菜の鮮度すごく良いですね」
「ほんまに。ええ人やし、近いからいつもお世話になっとるんよ」
沢山のお店を案内してくれた歩さんが最後に案内してくれた八百屋さんはすごく活気があって、人気のお店のようだった。店主のおじさんは人の良さが顔に出ているような優しそうな人で、お客さんを捌いている奥さんは溌溂とした感じの人だった。二人ともお客さんの顔を覚えているのか、誰に対しても親しみを込めて話をしているようだった。歩さんにも、歩さんと一緒にいた私にも、商品を纏める手は止めないまま、沢山話をしてくれた。商品を買い終わる頃には名前で呼んでもらえて、なんだか、すごく嬉しかった。距離感がどこか親戚のおじさんおばさんのようだったからかもしれない。
八百屋さんを背に、屯所に向かって歩き出す。青色から薄桃色に変わろうとしている空を見上げながら、歩さんに案内してもらったお店を思い浮かべた。呉服屋さんや甘味処とかはその字面からどういうお店なのかはすぐにわかるけれど、小間物屋なんて実際に行ってみないと全然ピンとこなかった。簪とか、口紅とか。私だって一応華の女子高生なわけだから、入ってみたらすごく楽しかったけれど。まぁ、ここのお金を持っているわけでもないから、買うわけではないけれど、ウィンドウショッピングは時代を問わず楽しいってことはよくわかった。とはいえ気軽に入れる雰囲気でも無かったから、一人では、たぶん、行かないとは思うけれど。
そう思うと現代の日本は本当に生きやすい。一人でお店に入りにくければ、ネット通販で気軽に買えるわけだから。
そんなふうに少しぼうっとしながら、現代を懐かしんでいたからか、なまえの手の籠から玉葱がひとつ転がり出てしまった。あ、と思って慌てて追いかける。驚いたような歩さんの声を背に、玉葱に意識を集中させていたら、ちょうど橋の袂だったから、なだらかな土手をそのまま転がっていってしまった。焦って少し早足で土手を下った瞬間だった。川の方から、本当に微かな声が聞こえた。
「え……」
そちらに意識を向けた瞬間、思わず体が強張った。川の中ほどに、今まさに手が沈んでいくのが見えたからだ。その瞬間、意識する間もなく体が動いていた。
「ちょ、なまえちゃん……っ!」
背中に焦ったような歩さんの声が聞こえたけれど、返事なんかできるはずもないほど、無我夢中だった。大事に抱えていた籠を放って、水面に向かって猛ダッシュ。着ていた着物をがむしゃらに脱いで、帯を歩さんの方に投げた。受け取って、と願って、そのまま地面を蹴る。ばしゃん、と体全体に冷たさと衝撃を感じた瞬間、体がぐっと重たくなった。この感覚を、私はよく知っていた。
