滲むような色彩に溶けていく

 小さい頃、私は海で溺れたらしい。らしい、というのはそのときの記憶が全然なかったからだ。当時、小学生だった兄と、保育園児だった私と、両親、兄の友達家族で海に行ったときのことだ。きらきらと輝く海に非常に感動していたらしい私は、私から常に目を離さずにいた母の目をそれでも一瞬盗んで、一人で波打ち際に行き、海に手を伸ばしたところを波にさらわれたらしい。近くを泳いでいた人がそれを目撃して、無我夢中で助けてくれたおかげで私は生きていた。ただ、目撃していたのは慌てて私を探していた母も同じで――それ以来、母は、海を怖がるようになってしまった。
 そのときの母の恐怖はものすごかっただろう、と思う。兄によれば、当時、父は母を一切責めなかった。それは、母自身が一番自分を責めていたからだ。もし、あのとき、誰も近くを泳いでなければ。もし、泳いでいたひとが必死になって腕を掴んでいなければ、私は――。私が助かったのは、運が良かったからだ。
 この話を聞いたのは、小学生の頃、当時中学生になった兄からだった。テレビに海が映るだけで口実を探してはキッチンに行く母が不思議で、素朴な疑問として兄に漏らしただけだった。兄は、逡巡しつつも、それでも教えてくれた。
 私はその夜、仕事から帰ってきた父に、スイミングスクールに通いたいと伝えた。





 母は、予想通り猛反対したけれど、私はどうしても通いたかった。母のトラウマをどうにかして薄めたかったからだ。兄から話を聞いて数珠繋ぎのように日常の違和感が繋がった。水泳の日はどこか引き留められるような気配を母から感じていたし、私の水着を用意する母はどこかしんどそうだった。小学生になったんだし、とお風呂は一人で入っているけれど、それでも母が様子を見にくるときもあった。過保護だなぁ、なんて呑気に思っていた私は、まさかそんな理由があったなんて想像すらできていなくて、自分が恥ずかしかった。母を苦しめるその記憶が無くなることはないだろうけれど、私が水に強くなれば少しは安心できるんじゃないかと思った。
 その考えは安易だったのかもしれない。でも、私は母が大好きで、だからとても真剣だった。
 父はすぐに許してくれたし、母も、最終的にはスイミングスクールに通うことに頷いてくれた。そうして通い始めたスクールでは他の小学校に通っている友達もできたし、水にも慣れることができてとても楽しかった。スクールでは泳ぐ楽しさも知ったけれど、水の怖さも知った。人は溺れるときは静かに溺れるし、服を着ていたらとても泳ぐなんてできない。増水した川に流されたら運が相当良くないと助からないし、水の事故はとても多い。
 スクールに通っていたおかげで、ある程度は泳げるようになった。いつかダイビングの資格を取りたいと思うくらいには海が好きになっていたし、母も、テレビで海を見ても目を逸らさなくなった。勉強も運動も人並み程度だったけれど、泳ぐことは少しは自信があった。
 でも、だからこそ、私は、川で溺れている人を見ても、助けには行けないと思っていた。自分も巻き添えになるリスクがとても高いから。





 でも、理屈じゃなかった。





 薄青い世界で、必死に目を凝らす。穏やかに流れているように見えるこの川も、深いところに入ると流れが変わって速くなる。咄嗟に命綱にした自分の帯を固く持って、水中で目を凝らせば、薄茶色の着物が一瞬だけ見えた。水中に倒れる流木に人間の体が引っかかっている。水面に顔を出して大きく息を吸い込む。川の流れにできるだけ逆らわないように泳いで、手を伸ばす。なんとか手の届く位置にあった体を引っ張る。けれど動かない。体躯からすると子どものようだったけれど、全然動かない。川の中。ましてや片腕で引っ張って意識の無いだろう人間なんか動かせやしないことは頭ではわかっていても、諦められなかった。
 あれはいつかの私かもしれない。
 助けられなかったら、あのときの母以上の絶望を、あの子の家族に与えてしまう。
 そう、思ったら、諦めることなんてできなかった。


(おねがい……っ)

 全身の力を使って、ぐぐっと引っ張った瞬間、流木から体が引き抜けた。やった、と思った瞬間、腕の力が抜ける。ずるり、と子どもの体が川の流れに持っていかれそうになって咄嗟に帯から手を離してしまった。


(やば……っ)

 焦って崩れた体勢に、慌てて子どもの体を抱え込んだからか、ごぼり、と口に水が入る。その苦しさに思わず意識が遠のきそうになった瞬間、ぐいっと体を引かれた。
 霞む目に見えたのは、この時代にそぐわない見た目の男の人だった。


(サングラス?ドレッドヘア……!?)

 ざばり、と水から体が出る。一気に重みを感じた着物が肌に吸い付いてきて不快感と寒気が全身を覆う。けれど、目に飛び込んできた光景に慌てて体を起こした。そのまま無我夢中で地面を這う。
 私の横に打ち上げられた少年の顔は真っ白だった。口元と、心臓に耳を当てて、そのどちらも動いていないのを認識した瞬間、慌てて飛び起きる。人形相手でしかしたことが無かったけれど、心臓マッサージの方法はわかっていた。ただ、AEDも、スマホもない。救急車も、設備の整った病院もない。私一人しか。
 唇を噛み締めて、少年の服を捲る。ならった通りの位置に目星を付けて、強く両手で心臓マッサージを始める。30回数えて、それから素早く人工呼吸。骨がいくつか折れる嫌な音が手を伝わってきて諦めかけた瞬間、げほっ、と咳き込む音が聞こて、生ぬるい水が手にかかった。慌てて少年の顔を横に向ければ、げほげほと咳き込んで、両手が動くのが見えて、ほっとして全身の力が抜けた。
 遠のく意識の最後に聞こえたのは、誰かが必死に私の名前を呼ぶ声だった。





 優しく微笑むお母さんに、私もゆっくりと息を吐く。きらきら光る水面。海に吸い込まれていく美しい夕日を眺めながら、母は、とても穏やかな顔をして私に何かを話し掛けた。それは、確かに、ありがとう、と聞こえた。

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