まばたきの春光

 ことこと、という鍋の音。お味噌汁の匂い。規則正しい包丁の音。懐かしい家の、ほのかな気配。なまえ、と私を呼ぶ小さな声。あれは誰だろう。優しい声。柔らかな温度。胸が痛くなるほどのこの安堵感は。


「お、かあさん……?」

 自分の擦れた声が聞こえた瞬間、意識が休息に浮上する。ああ、眩しい。柔らかいお日様の光が顔に当たっているのを感じた。


「みょうじ、さん……?」
「え……」

 唐突に横から聞こえた声に、ぐるりと視線を向ければ、そこには誰かがいた。逆光で顔が見えない。母じゃない。家族でもない。男の人の気配だった。慌てて体を起こそうとしたけれど、体に力が入らなかった。一瞬だけ混乱して、そうして思い出す。
 ここは幕末の、京都。私は、タイムスリップをして、そうして、新選組に拾われた。
 ああ、でも、なんでこんなにぼんやりとして体が重いんだろう。わからないけれど、なんだかすごく頭が熱い。頭が熱いのに、体が寒い。瞼が重い。起きたいのに、起きたくない。何故だろう、すごく悲しくて、さみしい。
 そう思ったときだった。ふわり、と頬に、温かな温度を感じた。それはゆっくりと私の頬から、瞼の上に移動して、そのまま、私の両目を覆った。とても温かくて、胸の中に満ちていた悲しみがすうっと薄れていくのを感じた。
 それはすごくやさしくて、いつかの日の母の手のようだった。


「        」

 自分が何を言ったのか、何かを言ったのかさえわからないうちに、私の意識はまた深く沈んでいった。





 すう、すう、と規則正しく聞こえてきた寝息に、ほっと胸を撫で下ろす。そうしてゆっくりと手を離せば穏やかな寝顔が見えた。その顔に悲しみや苦しみの名残りがないことにひどく安堵して、それから胸が詰まるような心地になった。
 お母さん。
 いつかも、彼女はそう言っていた。


「本当、なんだろうなぁ……」

 彼女の話は、普通だったら信じる方がどうかしているような荒唐無稽な夢物語だ。子どもだってもっとましな嘘をつくだろうと思うような。でも、きっと、本当なんだろう。あのときの表情。そして、今の表情。それは、この世にたったひとりぼっちになってしまったような、そんな表情だ。
 絶望とも違う。迷子のような。心細さに震えるような表情。
 俺なら、どうなんだろう。今この世から、百五十年も前、あるいは先にたった一人で迷い込んだとして。誰も自分を知る人がいない場所へ。常識さえ違う場所。それはどれほど孤独なんだろうか。
 あるいは、どこか夢のように感じているのかもしれない。
 現実であって、そうじゃない。
 俺にとってはここが現実で、真実だ。だからこそ、突然違う場所に存在してしまったら。拒絶するだろう、すべてを。表面上では取り繕えても、内面では受け入れられない。きっと。


「でも、」

 それでも、俺は、みょうじさんに生きていてほしいと思う。彼女の生きる場所に帰れるまで、ここを生きる理由にしてほしい。せめて、少しでも安心できるように。
 そのために、俺にできることはあるだろうか。
 それはここ最近、ずっと考えている。考えても答えの出ない問いだったけれど、みょうじさんを見かけるたびに考えてしまうことだ。あの日。彼女の寝言を聞いてからずっと。
 自分でもこんなにみょうじさんに肩入れするとは思わなかった。どうしてこんなに放っておけないのかはわからない。でも、少しでも何かしたいと思ってしまう。


「残酷だとはわかってるけどさ」

 “俺ら”を受け入れることは、彼女にとっては諦めることと同義なんだろう。彼女と接していると、薄皮一枚ほどの、けれど、決して壊れることのない壁を感じる。仕方のないことだと思う。けれど、本音を言えば、そんな壁壊してしまいたい。それがどれだけ残酷で、独善的な考えなのかも承知しているけれど、それでも。

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