その瞬間、私は私の世界から弾き出された。
極彩色の花火が爆ぜた瞬間だった。見たことがないほど大輪の花火。友人の楽しそうな笑顔。飲みかけのジュース。お財布の入った濃紺の巾着。それらは存在さえしていなかったかのように瞬きの間に一気に掻き消え、しん、とした暗闇だけが迫ってきた。同じ夜闇。けれど、空気が違う。まるで舞台の筋書きが変わってしまったかのように。まるで――別の世界に落とされたかのように。
あたりを見渡せば、そこは時代劇のセットか何かのようだった。時代劇によくある平屋が立ち並ぶ通り。確かに友人といたはずの祭の喧噪はなく、場所でさえ神社の境内ではない。花火もない。人もいない。そこここに存在していたはずの高層ビルは消え、見渡す限り木造の平屋が並んでいた。暗闇の空にはぽっかりと満ちた月が浮かんでいる。友人の名を呼ぶけれど返事はなかった。心細さに体が震える。夜闇はただひたすらに静かで、しん、とした空気が満ちていた。人の気配がない。まるで夢の中にいるような現実感に乏しい感覚。怖い。そう感じた瞬間――私は駆け出していた。
どこまで走っただろう。木造の平屋の建物は途切れては現れ、けれど気のせいかもしれないけれど、暗いほうに暗いほうに来てしまっていた。夜闇の暗さに再び恐怖が襲ってきて、引き返そうとしたとき、遠くに揺れる橙色の光が見えた。少し悩んでから、それに向かって走り出そうとした――瞬間。
「動くな」
どこからか伸びてきた手に口を覆われ、暗い路地のような場所に引き込まれた。あまりの驚きに一瞬呼吸が止まった。頬にひんやりとした金属の感触。粗い息遣い。何日も風呂に入っていないような吐き気を催すすえた匂い。こんな物凄い体臭の人間に出会ったことなんかなかったから喉の奥からえずいてしまう。気配を辿ると、いつの間にか、私を取り囲むように複数の人がいるらしいということがわかった。下卑た笑い声が耳に入って、体が強張る。すごい勢いで動悸が打っているのを感じる。こんな場面はドラマや映画で見たことがあるけれど、現実になるとこんなにも怖いなんて。目的なんてひとつしか思い浮かばない。どうしよう、どうしよう、どうすればいい。頭の中でぐるぐる回る言葉は、何の解決策も見つけてはくれない。ただひたすらに恐怖だけが募っていく。
「こんな夜更けに女ひとりでこんな所に来たんだ。どうなるかわかっているんだろうなァ?」
「おとなしくしてりゃァ命は取らねェさ」
「おォ、こいつァ上玉じゃねぇか」
「甘ェ匂いしやがって。香でも焚き染めたみてェだぞ」
げらげらと笑いながら耳元で囁かれる声に身を捩るものの女の力では敵いっこない。頬に当てられていた金属の感触がつぅ、と下に下がっていき、そうして浴衣の襟元からビリビリ、と布が破れる甲高い音が響いた。ひっ、と声が漏れるよりも先に、襟元から冷たい手が差し入れられる感覚がして、思いっきり胸を揉まれた。浴衣の帯をぐっと引っ張られた瞬間、反射的に引き攣るような叫び声を出してしまった。背後の男が、黙れ、と呟き、首筋にぐっと刃物を押し当ててくる。男たちの笑い声が響くなか、いろんな感情が渦巻いて涙が零れた。突然知らない場所にいた――ただそれだけでも恐怖なのに、どうして強姦されそうになっているんだろう。どうして私がこんな目に。一体私が何をしたというのだろう。どうしてこんなことになっているんだろう。友人はどこなんだろう。お母さん、お父さん、お兄ちゃん。次々と浮かんでくる大切な人の姿。ぎゅうっと目を閉じてからもう一度開けても変わらない無情な現実が広がっているだけだった。もとの場所に帰りたいのに、帰ることができない。これは夢なのだろうか。それとも現実?もしかしてあの一瞬で私は死んでしまって、ここはあの世とか。否。夢だったら良いと願うのに、身体を這う男の手が、これが現実であることを物語っていた。
――誰か助けて。誰か。誰か。
周囲の人間の息遣いの粗さに鳥肌が立つ。臭くおぞましい体臭。こんな男たちに私は犯されるのだろうか。こんな人数に?いやだ。嫌だ!――頭の中では悲鳴にも似た叫び声をあげることができるのに、恐ろしくて声なんか出せなかった。
それでも諦めきれずに身を捩った、その瞬間。
「お兄さんたち、なァにしてんのー?」
どこか間延びしたような声が落ちたかと思うと、建物の暗がりの中から人影がゆっくりと出てくる。満月だからかまるで日光でのそれのように影が黒く、その人影の持ち主の顔は見えなかった。声からして男の人だろう――もしかしたら少年かもしれない――ということはわかったけれど、それが私にとっては救世主なのか死神なのかわからなくてただ息を潜めることしかできなかった。いきり立つ周囲の男の反応からすると少なくとも仲間ではなさそうだった。とぼけているのか余裕からなのか、飄々とした声で明るく返事をする彼の人は、こんな場面にはあまりにも似つかわしくなかった。それは周囲の男たちもそう思ったらしい。激昂したように一人が刀を振りかぶったのが見えて、思わずぎゅうっと目を閉じた。あれは間違いようもなく本物の刀だ。竹刀とか木刀とかではない。冷たい輝きだった。――斬られる。もしかしたら救世主なのかもしれないその人が。斬られて殺されてしまう。かつてこんな修羅場に遭遇したことなんてないから、恐怖で全身が硬直する。のだけれど。その一瞬で聞こえてきた悲鳴は、さっき聞こえた彼の人のものではなく。もっと濁った声で。間を開けずに何かが壊れるものすごい音が響いた。おそるおそる目を開けば、そこには先ほどと変わりなく悠々と佇む彼の人の姿と、地面に伸びるいくつかの人――なんだかとても古ぼけたボロ雑巾みたいな布切れを身に着けた薄汚れた姿だった――がいて、思わず息を呑む。どうやったのかは全くわからなかったけれど、彼の人は、あの人数を一気に伸してしまったらしい。あまりにも驚いてしまって、一瞬恐怖すら忘れてしまった。
呆気に取られていたのは男たちも一緒だったらしい。僅かな間ののち、怒号が弾けた。近くで聞こえたそれに耳鳴りがして思わず顔を顰める。そのとき聞こえた、「その子、置いていくなら見逃すよ?」という言葉に、胸がいっぱいになる。
圧倒的な人数の差があるのに。あまりにも余裕が伺える言葉に思わず、助かった、と思った。
彼が何者かはわからない。もしかしたら万が一、目的が男たちと一緒だったとしても。おぞましいほどの体臭と、下卑た笑い声をあげる男たちを相手するよりもずっとずっとマシだと思った。
男たちが彼の人を取り囲む。その人垣の向こうに彼の人の姿が消えてしまう。彼の人がいくらか小柄だということを差し置いても、周囲を囲む男たちは大きく筋骨隆々に見えた。けれど。圧倒的な人数差の上、体格差まであるのに、不思議と彼の人が負けるとは思えなかった。普通ならこんなに柄の悪い男たちに囲まれれば恐怖を抱かないはずがなさそうなのに、彼の人はあまりにも“普通”で、だからこそ“普通”ではないのだと感じた。それは周囲の男たちもそうなんだろう。明らかに躊躇するような空気が出ている。私を掴む男――ちらりと見上げた限りではかなりの大男だった――を除く全員で彼の人を取り囲んでいるらしく、今なら逃げることができるのかもしれないと考えたけれど、頬に当てられている短刀には未だ力が込められていて難しそうだった。さすがに油断してはくれないようだ。どこか冷静な思考でそう思い、この場に留まる判断を下す。下手に逃げて殺されたりしたらたまったもんじゃない。そうしているうちに、大男のがなり声を合図に、男たちが一斉に飛び掛かっていった。
そして。
それは一瞬だった。
彼の人はあまりにも強者だった。流れるような動きはとても早く、目で追うので精一杯だった。アクション映画や時代劇とかのドラマでしか見たことのない鮮やかな動きに、自分の状況も忘れて見入ってしまう。そうして瞬きの間に男たちは地面に倒れていた。呼吸ひとつ乱れていないように見える彼の人は最後のひとりを持っていた刀で打ち据えると、そのままゆっくり振り向いた。
そのとき。月にかかっていた雲が流れていったのか、路地に一気に月光が差し込む。
そうして見えた光景に。私は呼吸を忘れた。私を拘束していた大男が何事か叫んだけれど、それすら耳に入らなかった。
ともすれば少年にも見える容姿の男の人だった。怪我でもしているのか、鼻の上に絆創膏のようなものを貼っている。柔らかそうな髪の毛は、今は月の光に照らされて青みがかって見える。年齢の判別はつかなかったけれど、優しそうな面差しだった。ただ、少年にしてはその表情は落ち着いているから童顔なだけなのかもしれない。けれどそんなことより何より、私は彼の着ている物に視線が釘付けになった。
だんだら模様の、浅黄色の羽織。
壬生の狼。
日本史の教師が熱弁していた言葉がよみがえる。何度も映画やドラマ、小説の題材になった――新選組の隊服。かつての日本、幕末に存在した人斬り集団。あまりにも有名な。
「うそ……、だぁ」
コスプレか何かにはとても見えなかった。そうであったらどれだけ良いことか。
信じたくない。けれど、空気が違う。こんなの夢だ。夢の、はずだ。けれど。なんで。肌にささる夜気はこんなにも現実感があるのか。私は現代の東京にいたはずだ。けれどここは現代の東京でない。見渡す限り、ビルがひとつだって無いのだから。コンクリート造りの建物さえない。あんなに走ったのに、木造の建物しかなかった。ドッキリか何かだろうか。否、私はついさっきまでの記憶がある。花火を見ようと足を踏み出した瞬間にここにいたのだ。他者の介在する余地なんてなかった。けれど、こんなのまるで時代劇ではないか。テレビ越しに見ていた世界に自分がすっぽり入ってしまったかのような、どうしようもないリアルな感覚。京都にある有名な観光地にでも放り出されてしまったのかもしれないと考えてはみるものの、撮影か何かにしてはいくらなんでもあまりにもリアル過ぎる。彼の人が現れなければ――考えたくもないけれど、確実に襲われていた。彼らは本気だった。何かあればネット炎上するような時代だ。素人相手にいきなり襲い掛かるようなテレビ番組が撮影されるはずもない。ということはドッキリでは無い、はずだ。悪ふざけが過ぎる。地面に倒れ伏している人達はどうみても本当に呻いているし、本当に気絶しているように見える。これが演技なのだとしたら相当なものだ。けれどそうだとするならどういうことなんだろう。今は平成の世――お互い着物を着て喧嘩なんて有り得ない。
そんなことを考えて些かぼうっとしてしまっていたら、私を押さえつけていた大男がガタガタ震えたかと思うと、刃物を投げ捨て、私には目もくれず走って逃げようとした。瞬間、どこからか楽しそうな声が聞こえてきたかと思えば、大男が吹っ飛んでいった。建物の壊れる物凄い音が響く。土煙の向こうに人影が見えて、かと思うとゆっくりと歩いてくる髪の長い綺麗な人が見えた。女性なのか男性なのかわからなかったけれど、その人も新選組の羽織を羽織っているようだった。一瞬目が合って、思わず肩が震えた。何とも言えない威圧感のようなものを感じて、体が震える。けれど瞬きのあとにはその雰囲気は霧散していった。笑顔を向けられて少しは安心したけれど、安堵はできなかった。助かったとも思えなかった。私の背後――先ほどの小柄な男性が呟いた言葉が聞こえたからだった。頭を殴られたかのような衝撃が私を襲う。目の前が真っ暗になった。ぐらり、と身体が傾いていくのを感じたけれど力が入らなかった。美しい人の顔に驚きが浮かぶ。その表情が二重に見えたかと思うと、視界がぐにゃりと歪んだ。
「危ない!」
叫び声が遠くから聞こえて、体が温かい何かに包まれたような気がしたのを最後に意識が途切れた。
(……夢なら、どうか醒めて)
途切れる直前、意識の隅で思って、けれど叶えられない願いなんだろう――と諦めにも似た気持ちを抱いた。
彼は確かにこう言ったのだ。「総司」――と。
新選組の羽織。数多の作品でそうであるように嫋やかな美青年。総司、といえばただひとりだけだ。
その、存在感に。私は理解してしまった。ここは現代ではない。あまりにも非現実的で荒唐無稽な答えかもしれない。けれど、もう、そうとしか思えなかった。だって空気が違う。景色が違う。肌に纏わりつく雰囲気が絶対的に違う。
――“ここ”は幕末の日本だ。それも東京ではなく、“彼ら”が活躍した京都。
私は、きっと、時間と空間を越えてしまったのだ。あの、花火の一瞬に。
(どうして、)
私なの。私が何をしたというの。こんなこと望んでいなかった。私は、私を構成するすべてに満足していた。幸せな生活をしていた。両親がいて、兄がいて、友人がいて。好きな人こそいなかったけれど、いつか友人のような恋をしたかった。そう――友人。霞がかった思考のなか。最後に思ったのは、大好きで大切な友人のことだった。彼女は明るくて優しくて頭が良くて、私の兄のことを一途に好いていた。兄のほうも彼女のことをきっと好きだった。だから、いつか彼女が“姉”になる日を楽しみにしていた。
(ああ、どうか……)
次に目が覚めたら、そこには友人のいつもの笑顔がありますように。どうか、どうか。これが夢じゃなかったとしても、目が覚めたら戻っていてほしい。否、戻っているはずだ。だって私は、ただの高校生だ。普通の。こんな非日常な出来事が起きるような人間じゃない。夏休みが明けたら、テストがあって文化祭も体育祭もある。来年には受験があるし、入りたい大学も決まっているのに。
誰に怒られたって良い。けれど。ただひたすらに友人に会いたかった。
